【小説】VR小説『卵割』

この作品はフィクションです。物理現実ならびに仮想現実の実在の人物・団体・サービス・ワールド等とは一切関係ありません。



 葬式は呆気なく終わった。僧侶は真新しい墓に花と線香を供えて一礼しただけで、後を墓の主に任せて山門へと去った。読経も法話も戒名の授与もなかった。それも当然で、この寺を一人で管理する僧侶は墓の建立サービスを「断じて宗教儀礼ではなく文化事業」と言い張ることで諸々の面倒事を煙に巻いている。石材に文字を入れて日本建築の敷地内に並べるだけ、風習にどんな意味合いを認めるかはそれぞれの客の勝手というわけだ。それでも今のところ、この境内に並んでいるのは例外なく「墓」であり、板塀で囲われた敷地も今や百を超える墓で手狭になりつつある。高凪たかなぎレミの墓もその一角にある。
 VRの仮想空間の中の墓である。
 高凪レミは自分のユーザー名が刻まれた墓石を見下ろし、VRゴーグルの中で目を閉じて深く息をついた。現実世界の季節に合わせ、境内には積もらない程度の雪が降っていた。
 これで、無謀な理想と別れられる。
 VRに手を染めた二年間、あるいはそれ以前からのもっと長い時間、自分を苦しめた現実と理想との間のギャップ。それをようやく終わらせる決心をしたのだ。男が肉体を捨てて美少女になるなど正気の沙汰ではなかった。傷つけに傷つけた現実の自分の自尊心はすぐには癒えるまいが、しばらくは温泉にでも通って神経を鎮めることにしようと思う。
 このアカウントも、今日で消すつもりだ。
 VRで出会った友達やファンたちに、消えることは伝えていない。しかしここ数か月の自分の様子は我ながらまともではなかったと思うから、この墓を見ておおよその経緯は察してくれるだろう。
 寂しくはある。だが、自由なはずの世界で不自由さを思い出すのはそれ以上に耐え難かった。
 さらば、高凪レミ。
 山門をくぐってホームワールドに戻り、そこで最後のログアウトをしよう。そう考えて自分の墓に背を向け、坂を下る参道を歩き出し――
 その女は、戒を携えて現れた。

「やあ、こんばんは」

 入場を告げる鐘は聞こえなかった。その黒衣の女が言葉を発した瞬間、板塀と雪のパーティクルしか描画していないはずのレミのパソコンの空冷ファンが突如として遠吠えのような唸りを上げ、一瞬前まで雪の日の肌寒さをVR感覚で感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。しかし、それは部屋を対流する空気の一様な加熱とは異なり、頬の前側と耳側、また腕の肩口と肘から先とで熱さの異なる、まるで複数の何者かが突然至近に立ってレミを囲んだような、異様な気配だった。だが現に目の前にいる女への警戒が、ゴーグルを外して事態を確かめることを阻んでいた。
 “魔女”――――
 第一印象から言えば、そのような言葉になるだろう。しかしその形容から連想される老獪さや邪悪さが、女からは全く欠落していた。字を読むことを覚えた子供がそのことを大人に自慢する時のような屈託のない稚気が、その黒衣の佇まいから振り撒かれていた。レミのような者とこのような場所で相対するにはあまりに不釣り合いな、しかし確かに頭上にネームプレートを表示した、VRの住人。
 凍りつくレミに、黒衣の女は言った。
「高凪レミさん。お墓を、建てられたんですね? それでは……
 あなたの“幽霊”と、仲良くね」

 VRには魔が潜む。その魔のひとつに喰われつつあった高凪レミは、魔を語る者――“魔術師”の言葉を、この日初めて聞いたのだった。

          ◆

 今時そう珍しい話ではない。あきよしは都内の大学に通う三年生であり、特に大志を抱いて門をくぐったわけでもない大学生活では経済学部に籍を置いていた。そして、大志を抱いて大学の門をくぐったわけでもない学生にはありがちなことだが、顕好はゼミよりもむしろスキーのサークルで少なくない数の友人を得て、冬は山荘で酒を飲み夏は西武沿線で酒を飲んで暮らしていた。「追いトウガラシのあっきー」と言えば関東一円で交流を持つ大学のスキーサークルの間ではそれなりに通った名である。
 その三年目の春に、凶悪な感染症が関東一円を襲った。
 それは、人の集まりの全てが寿命と引き換えとみなされることを意味した。サークル活動の半分以上を占めていた飲み会は小規模なものを含めて根こそぎ自粛を余儀なくされ、飲食店も早い時間に店を閉めるようになった。その中には顕好のバイト先のスペイン料理屋も含まれている。サークルの付き合いは酒がなくなれば脆いものだった。大学の講義も一つまた一つと遠隔授業になっていき、ただでさえ少ない学部の知り合いとの顔合わせは途絶えた。
 流行は冬になっても続いた。スキー場のあるような地域はとても東京からの遊興客を歓迎できる世情にはなく、顕好のように田舎から出てきている学生は実家に帰ることもできない。「追いトウガラシのあっきー」は退屈を持て余した。
 就活さえ遅れた。将来への不安を感じた。
 経済学部は家庭の経済状況を自在に操る術を教える学部ではない。顕好が混迷する就活サイトにしびれを切らし、外にもおちおち出られないこの情勢で何に需要があるかを探して小遣い稼ぎをしようと考えたのは、同年代の中ではまだ頭の回る行動だったと言える。
 最初は、食事の宅配をやろうと思った。しかし調べるうち、あまりに割に合わないバイトに見えてやめた。正確には、それはバイトですらない個人事業主への業務委託であり、労災も賃金交渉もないその実態に、顕好はよく分からないながらも恐れをなした。
 ライターも考えた。流行の話題で記事を書いたり、英語の記事を翻訳したりする仕事だ。自分に文才も語学の才能もないことは大学の講義で分かっていたが、実用的な文章なら何とかなるかもしれないと思った。そして玉砕した。しかし、この経験を経て考えが少し変わった。自分にはまだ仕送りをしてくれる親がいる。最悪の場合は留年も不可能ではないだろう。ならば、すぐに金になる仕事で時間を潰すより、一年くらいかけてでも新しいスキルや見聞を身につけた方が後々のためではないか。
 顕好は考えに考え、調べに調べ――そして結局、自分の数少ない楽しみの一つであるゲームに行き着いた。ただし、顕好が酒を覚える前にはなかった種類のゲームが、同じように人々が外界から隔離されて過ごす家々の中で、その時不気味に勢力を伸ばしていた。
 VRゲーム。立体視のゴーグルをかぶって遊ぶ、仮想現実のゲームである。


 ネットで偶然レビューを見た、廃墟の都市をジェットパックで飛び回るゲーム。顕好が最初に買ったVRゲームはそれだ。正確には、VRゴーグルを買った時にゲームのダウンロードコードがついてきた。パソコンも新しくして、おっかなびっくりゴーグルをかぶり――そして顕好は、最初の三十分でめためたに酔った。
 トイレに転がり込んだ。もうだめだと思った。
 だが、既に機材に大枚をはたいてしまった顕好は後戻りできなかった。自分が動かなければ酔わないだろうと考え、寝転がっているだけでいいVRのAVを買った。そして顕好は、最初の三十分で飽きた。確かに臨場感らしきものはあるが、自分が何もしていないのに女優がせわしなくあれこれしてくれることに違和感があって仕方ないのだ。しかも映像の展開に合わせて微妙に体勢を変えたり、いちいち話しかけてくるのに適当に相槌を打たなければ齟齬が出る。「自分は何をしているんだ」という恥ずかしさが臨場感を上回った時、顕好はVRゴーグルを脱いだ。
 それでも顕好は諦めきれなかった。何しろ既に機材に大枚をはたいてしまったのだ。激しく動く必要のない、しかし寝転がっているだけでもないVRゲーム。調べるうちに顕好はついに辿り着いた。アバターの姿で他のユーザーと話す、ただそれだけの、SNSのVR版と呼ぶべきサービスである。それはもはやゲームやソフトと呼べる代物ですらなく、故に、顕好がこれまで覗いてきたタイトルとは全く違う種類の空気が、レビューの内容に、文体に、画像に渦巻いていた。顕好のこれまでの人生で存在だけは視界の片隅に認識していながら一度も意識的に関わりを持ったことのない人種が、恥も外聞もなく独特な言葉で自己主張をする、一言で言うなればそれは魑魅魍魎の世界だった。加えて言えば、それは無料だった。
 そして、顕好はVRSNSにドハマりした。
 チュートリアルルームで最初のアバターを選んだ時は、作務衣のオヤジが一番自分に合っているだろうと思った。その姿で日本人用の交流ワールドに行った途端、色とりどりの髪の美少女十数人に取り囲まれた。この美少女たちは嫌がらせでもなければ宗教の勧誘でもなく、ましてやゲームの登場人物でもなく、それぞれ頭上にネームプレートの表示された、回線の彼方にいる生きた人間だった。あれよあれよと言う間に顕好は基本操作の説明を受け、景色がいいワールドやアバター展示場のいくつかを案内され、また元の交流ワールドに戻ってきて美少女たちと記念写真を撮っていた。今度は寝転がっているところに奉仕される一方的な映像ではない。何しろゴーグルと両手のコントローラはアバターの頭と両手に連動していて、身振りを交えながらマイクで会話ができるのだ。美少女たちの何人かは顕好のスキーの話に興味を示し、今日入ってきたばかりの初心者でも人の輪に貢献できることを顕好は大学入学ぶりに知った。それでも自分が世話を焼かれるに値する存在だと思えないなら――――
 顕好は作務衣のオヤジをやめた。案内されたアバター展示場で背の低い美少女のアバターを選び、その場で着替えた。案内の美少女たちが褒めてくれた。
 それが、高凪レミの物語の始まりだった。


 最低限、頭のゴーグルと両手のコントローラがあればVRはできる。しかし必要とあらば、位置センサーを増やしてアバターの全身を細かく動かすこともできるのだった。顕好が体中の関節に十個のセンサーをつけて踊るようになるまでに時間はかからなかった。ストリートダンスはVRの中で開かれる練習会で見よう見まねで覚えたものだが、顕好には自分でも気がついていなかった才能があった。人が集まるワールドの路上でダンスを披露するようになり、そのうちにダンスグループの一員として声をかけられてイベントでショーをするようになった。その頃には、顕好は最初に展示場で着たサンプルからアバターを転々とし、自分で3Dモデリングソフトを使って服や小物のアレンジができるようになっていた。名前は、自分でつけた「高凪レミ」に変わっていた。
 レミが自作のアバターを用意すると同時に、件のダンスグループは動画サイトでVR内のダンスイベントを配信し、収益を得るようになった。収益はレミにも分配された。額こそ飲食店のバイトに満たなかったが、その金につけられるメッセージは正真正銘、観客からレミのパフォーマンスに対して直接支払われたものだと示していた。レミ個人のファンもついた。住む場所に左右されず、危害を加えられることもなく直接会う感覚を得られるVRでは、自分を認めてくれる人の一人一人と直に言葉を交わし、アバターに触れ合うことができた。そのファンの中には、別の分野では自らもひとかどの技術と実績を持っているVRユーザーも少なからずいた。彼らの集まりに顔を出し、存在すら知らなかった趣味や学問の話を聞いた。無知であることさえ武器になった。学校と違い、ここでは互いの世界を知らないのが当たり前であり、尋ねれば彼らは快く――時に鼻高々に――教えてくれた。
 自分自身でも配信をした。アバターを新しくすればファンが祝ってくれ、ボイスチェンジャーで女の子の声になれば「かわいい」と言ってくれた。踊るために部屋を模様替えし、防音シートを壁中に貼った。他の配信者の番組に出演したり、ネットメディアの取材に呼ばれることも何度かあった。ただ、スキーの話だけはしなかった。どこで誰が見ているか分からなかったし、スキーはあくまで顕好の経験で、レミのものではなかったから。

 VRSNSの時間の流れは速く、一年足らずの間にレミの生活の重心は飲み屋からネットのVR空間へと急速に傾いていた。しかし、VRにも飲み屋はあった。
 西武沿線や麻布界隈で飲み歩いていた顕好でもお目にかかったことのないような、古き良き猥雑な歓楽街のワールドがあった。客層までそれはそれは猥雑で、いつ行ってもその時間帯に夜である国のユーザーが道に大挙して固まり、大音量の音楽をマイクに吹き込みながら互いに通じない言葉で騒ぐのが常だった。
 現実ではあり得ない体型をした美少女たちが接客する、招待制のクラブがあった。さあ欲望を晒け出せと言わんばかりの露骨なアバターに最初は尻込みしたが、ある時キャストの一人の声に自分と同じ、しかしそれより遥かに目立たない音声変換の痕跡を聞き取ってからは何もかもどうでもよくなった。罪悪感なく欲望を晒け出せる相手を求める者、他者の欲望を受け止めることで自分自身の欲望に救いを与える者。レミは背が低いのをいいことに、彼女たちの膝の上・胸の下を定位置にしては豪遊した。
 ダンスの合間にそれらの酒場を巡るうちに、気付いたことがある。VRの中では飲食ができない。無限に注げるビール瓶や色を混ぜられるカクテルグラスは、結局は映像に過ぎない。しかし、話したり笑ったりするのに、自分や相手がアルコールを経口摂取しているかどうかということはもはや全く問題にならないのだった。ある者は現実の机で酒を開け、ある者は開けなかった。飲まない者に飲ませることはできなかったが、それで場が悪くなるということはなかった。ワールドと人の組み合わせが話題を作り、沈黙さえ会話の不在ではなく一つの応答の交換であることをレミは初めて知った。考えてみれば当たり前だ。子供の頃には、酒がなくても人と遊ぶことができたのだから。
 酒や四川料理に頼らない会話ができるようになったことで、レミの渡り歩く範囲はさらに広がった。大学やサークルではついぞ出会うことがなかったはずの種類の人々が、レミの周りに増えていった。
 レミの世界の広がりの傍らで、部屋の外では人々が少しずつ、家に閉じこもる生活に飽きつつあった。


 春、顕好は半年ぶりに大学に行った。
 キャンパスは何も変わっていなかった。至る所に消毒液のポンプが置かれ、学生が以前の半分以下しかいないだけで、そこで行われていることは感染爆発の前と同じだった。講義を受け、大学近くのラーメン屋でラーメンを食い、また講義を受けた。教室にいるのは顕好と似たような無趣味のバカで、マスクからのぞいている目つきだけを見ても、引きこもり生活の間に何も成長がなかったことはすぐに分かった。
 ――なあ、VRってやったことあるか?
 隣の机の学生を小突いて、そう訊いてみたかった。しかし顕好にはできなかった。今や、顕好はこの大学の学生とは交わることのない魑魅魍魎の世界に行ってしまった。もちろん、VRで知り合った人たちの中には宴会好きの大学生や中卒で働き出した人もいる。しかし今キャンパスを行き交う学生の誰がそうなのかは分からなかった。決して多い割合ではないだろうことだけが分かった。
 いっそ、大学の路上で踊ってみるか。
 自分が部屋にいながらにして手に入れたものの一端を、ここの連中に披露してみるか。
 経済学部棟の玄関口に立って、顕好は首を振った。この大学の連中が、それで立ち止まってくれると思ったか。学祭でもない、音楽プレイヤーもない、揃いのTシャツを着た集団でもない。そんな中で、頼まれもしないのに一人で踊る、その「脈絡のなさ」にこいつらは耐えられない。去年までの自分もそうだった。飲み会のノリで手拍子を受けて、それでようやく「追いトウガラシのあっきー」が現実ではせいぜいだ。
 他の、もっと偏差値の高い大学なら、構内の路上で突然何かを始めても喝采がもらえるだろうか? VRではもらえた。何かを新しく始めてみること、たとえ下手でも人と共有してみることをVRでは皆が歓迎した。あるいは他の町なら、他の国なら? もらえるとももらえないとも言えない。実家の田舎と、大学のある東京と、東北のスキー場だけが顕好の知っている現実世界だ。それに、そうだ、そもそも、男が踊ったって誰が見る!? 作務衣のオヤジでは親切にされるに値しないと思ったのは他ならぬ自分だ。かわいいから、女の子の体だから、目を留めてもらえる。現実にいる限り、美少女ではない自分と冷たい人々の中をどこまでも生きていかなければならないとしたら? VRで手に入れたものを何一つ現実に持ち帰れないまま、二つの世界に自分を断ち割って、人との距離の空いたこれからが続いていくのだとしたら?
「う……あ……あああ……」
 顕好は掠れた呻き声を上げた。地面を踏む感覚はないまま、体は路上を前に向かって滑り落ちるように進んでいた。あたりの学生の歩みが早回しに見えた。就職先が決まっていないことが思い出された。嫌だ。思い出したくない。未来のことは考えたくない。早く家に帰って美少女の姿で美少女たちと会いたい。滑り落ちるような歩みが徐々に、身体に染みついた動きへと変わっていく。ステップを踏む。両腕を広げる。視界が潜望鏡のように狭まる。片足を小さく蹴り出して回る。指先に点した光が波打った軌跡を描く。身体の動きに引き出されて、舵輪を回すように意識が浮かび上がる。喉に力がこもり喉仏のあたりの気道が狭まる。名乗り、
「はーい……どうもこんれみ……いつもありがと……VRダンサーの、高凪レミ、です……」
 ……
 …………
 ……………………


 その日から、VRからログアウトしても、高凪レミは消えなくなった。
 元からだが、VRをやっている時、顕好は高凪レミを演じているような意識になる。ヘッドホンをしてボイスチェンジャーを使っているので自分の元の声はほとんど聞こえないが、それでも頭蓋骨を伝わって直接耳に届く分がいくらかある。自分が男であることは自然に認識しているし、イベントや配信では前もって用意していた台本を常にチェックしている。レミとしての意思決定は顕好の意思でもあり、そこに断絶があったことはない。
 しかし、VRからログアウトすると、顕好が「抜けた」後にレミが残るようになった。レミの言いそうな口調で、レミの言いそうにない言葉が口をついて出ることがある。女の子らしい声に近づけるために、ボイスチェンジャーのソフトと併用して自分の声音も喉の筋肉で変えている顕好にとって、僅かに声を高くすることは無意識でやってしまうほどに容易い。それを我慢して言わずにおくと、言葉は顕好の頭の中を暴れ回って、やがてレミの姿の像を結ぶ。幻覚ではない――自分の背後や膝の上にいて、唇の端を吊り上げて何事かを囁きかけてくるレミの姿を想像せずにはいられない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ような切迫を感じるのだ。普段3DモデリングソフトやVRの鏡でレミの顔を間近で見ているせいで、想像は残酷なまでに鮮明だった。全身にセンサーをつけてあらゆる動きをアバターと連動させ、その状態で人前に立ったり鏡を見て練習したりする顕好には、人からアバターに触られる映像を見るだけで本物の触覚を感じてしまう感覚さえ発達していた。レミはその感覚をずるいくらいに利用して、顕好の耳元に顔を寄せて囁くのだ。
「もっと遊びたいなあー、もっとわたしの時間がほしいなあー」
「顕好なんてやめちゃえばいいよ。つまんないでしょ?」
「わたし、ほんとはかわいいのに、もったいないよねえ」
「寝たぐらいで、わたしから離れられると思わないでね?」
 その言葉の通り、レミは眠っていても現れた。ある時、スキーサークルの連中と見知らぬファミレスで薄いハイボールを押しつけ合っている夢を見た。レミは顕好と隣の同級生の間の二十センチもない隙間に座って、顕好に向かってひっきりなしに「ほら、わたしのこと紹介したらどう?」と囁き続けた。
 またある時には、中学の時に付き合っていた彼女の家に行く夢を見た。当時は未遂に終わったが、今回もきっとそうだろうという漠然とした確信があった。彼女の家には彼女と顕好以外誰もおらず、雨の降り出しそうな曇りの日の夕方で、彼女と二人でベッドに座ってもなお顕好の気分は高揚しなかった。お互い黙ったまま次の行動を起こせずにいると、そのうち顕好の両手は彼女の顔に伸び、額から上瞼にかけてのあたりに大きく円を描く、VRゴーグル使用者に特有の手つきで撫で始めた。当時中学二年生だった彼女は一瞬困惑したが、いきなり激しい行為に及ばなかったことに安心したのか、レミの手にじっと頭を預けてきた。彼女の顔は見てそれと分かるほどに緩み、レミは常に片手を彼女の視界に入れて安心させながら、もう片方の手を彼女の背中に回してベッドに横たえた。そこから先を顕好は見ていない。テレビの電源を切るように、偽の記憶を見続けることを拒んだからだ。あの時、実際には――果たして、何が原因で未遂に終わったのだろう? あの日に戻れるとしたら、今度こそ最後までしたいと、自分は思うだろうか?
 レミだけしか出てこない夢もあった。どこかの初夏の高原の、冠雪を望んでどこまでも広がる草原で、レミは一人で踊っていた。VRでやったことのないスタイルで、バレエのように悠々と。顕好が近づくと、レミはステップに合わせて顕好の手を取った。二人回りながら駆けていく。遠くに見える冠雪の山に向かって、どこまでも――どこまでも――。


 事ここに至って、顕好は自分が何に手を出したのかに気付きつつあった。レミはもはや、顕好がネットの世界で演じる単なる人形ではない。紛うことなき顕好の一部が、名をつけられ人に認識されることで強固な輪郭を得た、一個の生きた人格だった。その本体は仮想空間ではなく、顕好の中にこそあった。ただ、厭世的な人種で構成された発展途上のVRSNSには、現実にはできないことをし、それに機械による没入感のみによらず自ら進んで浸りきって遊ぶ土壌があった。そこは必然的に、非情な外界と内面の深淵との優先順位を狂わせかねない空間だったのだ。
 改めて周囲を見回すと、同じように現実の味気なさを感じて生きている者たちが所々にいた。彼らは一様に、「俺らは現実に働きに出て、衣装や機材を買ってVRに帰るんだよ」と言った。しかし顕好からすれば、彼らは働けているだけマシだった。
 現実とVRの両立を掲げて情報を発信している者たちや、プロのカウンセラーを自称するユーザーにも出会った。しかし顕好には彼らの言葉が持てる者の空言に思えた。両立するべき現実が既にあるなら、後はそれを少し補強してやるだけでいい。顕好には何もない。大学の人間関係には楽しみがなく、就職先も決まらず、生活は未だ感染流行期の混乱を引きずっている。それでもレミでいれば人と繋がることができた。顕好は再び大学に行かなくなり、毎日VRに入り浸った。

 顕好がレミに時間を注ぐうちに、レミもまたおかしくなっていった。ダンスを始めた頃は人目を気にして当たり障りのないことを言っていたレミだったが、少しずつパフォーマンス中のトークに棘が混じるようになっていった。例えばこうだ。
「どうもこんれみー! あれ? みんなの声が小さいなあ? こんれみー! ははあ、マイクをオンにしてない人が何人かいるな? デスクトップ参加の人もいるじゃない! 分かるよ、VRって高いし冷静に考えるとキモいもんね。でもそれじゃあ人生損してるんだなあ。わたしのダンスはさ、お客なりに気合い入れて見てほしいんだよね、やっぱり。わたしも遊びでやってないから。分かるよね? じゃあ次の曲いきます!」
 レミが今手にしているものは、顕好が現実で望んでいたものだ。非の打ち所のない容姿、まっとうな技能、贔屓目抜きで認めてくれる人々。加えて言えば、ボタン一つで会いたい人に会いに行ける便利さ。しかしレミは満足しなかった。技術も影響力も、費やした時間と労力に単純に比例するものではない。そのことが受け入れられなかった。
 レミが所属するダンスグループのイベントでは、レミの出番の後から参加する観客の割合が増え、観客全体の数は減り始めた。座長は複数人で踊るステージを多くし、暗にレミの喋る機会を減らすことで雰囲気が悪くなるのを防ごうとしたが、その思惑を察したレミとの間でじめじめとした衝突があった。レミが自分の配信でそのことを仄めかしたために、客足はますます遠のき、代わりにVRにも棲息する揉め事好きの煽り屋たちが集まってきた。VRで出会って個人的に付き合いのあった友人たちはそれでも心配してくれたが、じきに距離を置くか、そうでなければレミの方から距離を置いた。
 レミは一人になった。しかし、現実に戻ると二人だった。
「また、馬鹿なこと言っちゃったんだ。でも許してあげる。顕好には、もうわたししかいないもんね」
「いいな、いいな、顕好だけご飯食べるのいいな。お腹すいたな。わたしかわいそうじゃない? 早くあっちに帰ろうよ」
「今、左足から靴履いたよね。いつもは右足から先にトラッカーつけるよね。やりなおし」
 病院に行くことを考えなかったわけではない。しかし、確かにVRの中で自分の人生を持って生きているレミを、薬を飲めば消える幻覚だとは思いたくなかった。なぜレミが自分の手に負えなくなったのかは分かっているつもりだ。何かできることがあるとすれば、それはVRの中で完結する儀式であるはずだった。
 留年は確実だった。来たる一年で人生を立て直すために、年内には何とかしなければならなかった。考えに考えた末、VRSNSの中にある寺でレミの墓を建て、供養して眠ってもらうことを思いついた。レミは暴れた。しかしVRゴーグルをかぶると、もはやレミは顕好と一体だった。
 季節は既に冬だった。僧侶に伴われ、VRの山寺の墓所に立った。 

          ◆

 葬式は呆気なく終わった。僧侶は真新しい墓に花と線香を供えて一礼しただけで、後を墓の主に任せて山門へと去った。読経も法話も戒名の授与もなかった。しかし今、高凪レミの墓は確かにその一角にある。
 レミは――レミの体を動かす顕好は、自分のユーザー名が刻まれた墓石を見下ろし、VRゴーグルの中で目を閉じて深く息をついた。
 これで、無謀な理想と別れられる。
 ようやく終わらせられる。このアカウントも今日で消すつもりだ。寂しくはあったが、かつてレミとして得た輝きは今や、VRのどこにもありはしなかった。もはやここも現実と同じ、人目を引こうとして生き恥を重ねる馬鹿騒ぎの巷に成り果ててしまった。自分がそうしたのだ。
 もう、いいだろう。
 山門をくぐってホームワールドに戻り、そこで最後のログアウトをしよう。そう考えて自分の墓に背を向け、坂を下る参道を歩き出し――

「やあ、こんばんは」

 参道の半ばに一点、黒く穴を穿つように、女らしきアバターがいた。
 入場を告げる鐘は聞こえなかった。その黒衣の女が言葉を発した瞬間、平均以上に増強された顕好のパソコンの空冷ファンが突如として遠吠えのような唸りを上げ、一瞬前まで雪の日の肌寒さを感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。それは一様な室温の「暑さ」ではなく、まるで複数の何者かが突然至近に立って顕好を囲んだような、濃淡のある異様な「熱さ」だった。現に目の前にいる女への警戒が、ゴーグルを外して事態を確かめることを阻んでいた。しかし、それがあくまで一人のVRSNSのユーザーである証拠に、女の頭上に表示されているネームプレートを顕好は読むことができた。
「ソーサツ・チエカ……さん……?」
 女は答えた。笛の音のように硬く澄んで、ひた、と貼り付くような声だった。
「はい、チエカと申します。VRダンサーの高凪レミさん。お名前は存じ上げております。お墓を、建てられたのですね」
 女の全身は黒いガウンで足元まで覆われ、黒い山高帽から伸びた長い黒髪の中に、眼鏡をかけた白い相貌が浮かんでいる。彫りの浅い顔は見ているうちに印象を薄れさせそうになり、ただ右の頬に一線、肉色を晒している傷跡らしきものだけが常に意識に焼け残る。その女が佇む墓場は今や、寺の境内よりもむしろ外国の魔女の夜会の地を思わせていた。そして女の静かな語り口さえ、この異様な気配の中に不協和を重ねていた。
「あんたは……」
 何の用で? そう訊くことができなかった。未だレミの声を出す設定のままであるボイスチェンジャーは、顕好としての言葉を長く続けることを躊躇わせた。そして用を訊こうと訊くまいと、女が通りすがりではなく顕好に話しかけていることは明白であり、何の用でかはこれから明らかになるに決まっていた。それを聞かせるだけの強制力が、彼女の存在にはあった。
 女は語った。
「――VRにお墓の需要は数あれど、それらは煎じ詰めればみな、現実の自分との摩擦から生まれるもの。現実――仮想現実も現実であるという立場に立って呼び分けるなら、“物理現実”――で得られなかったものを、誰もがここに求めます。適性に欠ける方は何者にもなれずに去り、意志に欠ける方はここで得たものを物理現実に持ち帰れずに惑い、それ以外の方もみな、為したことに満足できず理想を追い続けて元と同じ苦しみを得る。自分のまだ見ぬものを追ってしまう、それ自体は人の性ではありますけれど、VRが特に魔境になるわけは――まだ見ぬ可能性が、“人”の形をしていること。そうではありませんか?」
「…………」
 女が語り始めた言葉は、一つ一つは知った単語でありながら、まるで理解を阻む異星の言葉のように響いた。
 ――関わるべきではない人間だ――
 しかし、コントローラでメニューを開いてログアウトするだけの指先の動作がどうしてもできない。黒衣の女の、澄んだ中にかすれを帯びた声が、滔々と流れる川に時折小石が渦を作るように、あるいは音楽を再生していないイヤホンに流れる無意味なホワイトノイズにふと聞き入ってしまう時のように、しかしそれより遥かに強く、顕好をその場に留めていた。
「人は、どんな物事にでも“意図”を見てしまう。『誰かが意図してやっている』と、つい考えてしまう。そうでなければ、昔の人は雨乞いなんてしませんよね……でも、その“誰か”を知ろうとしたことで、自然を理解していったのも事実です。人は“他者”を想像することで、本来意味などないはずの世界に意味を与えることができる、と言ってもいいでしょうね。それが擬人化という能力であり、科学の進んだ今でもそのさがは消えていません。かつての神に代わって、『美少女』とでも呼ぶべきものが、その機能を果たしています。例えばそう――“なりたい自分”なんていうものは、もはや現実の自分とは違う“他者”ではありませんか?」
「……あんたも、そうやってVRに?」
 顕好の強がりは、黒衣の女の目を細めただけの笑みに封殺された。
「一度人の形を取ってしまったものは、絶え間なく“意図”を伝えてくる。彼女たちに本当にその意図があるのか、私たちがそれを読み取ってしまうだけなのかはもはや意味のない区別です。ただ、全てのものが誰かの作品であるこのVRの世界が、“意図”で埋め尽くされていることは明らかですね。ここは、常に“他者”を意識させる空間であり、自分の中にまで“他者”を見出させる空間でもあるんです。自分の姿を変えられる仕組みによってね。
 ……生まれてしまった別の自分、しかし決して満足することもない別の自分と、決別することを決めたあなたの勇気は称えましょう。でもね、お墓を建てて祀れば別れられるとは、思わない方がいい」
「! どういう……」
「知っていますよね? 幽霊は墓場に出る。お墓には“彼女たち”を眠らせておく力はありません。お葬式の後も四十九日や七回忌といって祀り続けるように、亡くなった人の“祟り”、“声”を遠ざけるには長い時間がかかります。そう、幽霊とはまさに、既に亡いはずの“死者の意図”を世界に読み取ってしまう心の動きのこと。何より危険なことに、死んでしまったものはもう殺すことができない。あなたが“彼女”のお墓を建てた時から、“彼女”は今まで以上に、あなたに絶対の影響力を振るうようになったのです。祀って自分と切り離せば、より強力に」
 聞き捨てならない話だった。彼女がレミの事情を知っていることはもはや大した問題ではない。顕好が墓まで残してレミを葬ろうとしていることが、無駄だというのか。
 顕好はボイスチェンジャーを切り、せめてもの威圧と素の声で女に食ってかかった。
「じゃああんた、どうしろってんだよ!? 俺はもう現実に満足しときたいんだよ! あんたに何が分かるんだ、何もしないよりは墓の一つでも作った方が成仏できるんじゃないのかよ!」
 黒衣の女は露も動じた様子はなく、静かに首を振った。
「これからも“彼女”として生きて、その時間を以て“彼女”を変質させていく。それが一番いい方法です。ですが、それがもしできないというのなら――
 “彼女”を制する美少女を、新しく飼うといいでしょう」
「…………!」
 女の提案は理解を超えていた。レミが現実に侵食してくることに耐えられなくなって墓を建てたのに、この上新しく人格を増やすなどまともな解決ではない。しかし、墓を建ててもレミが鎮まらないかもしれないという不安は急速にゴーグルの中を蝕んでいた。いや、そもそも最初からその不安はあったのだ――レミは潔く消滅を決めたわけではない。無理やり殺したことに納得せず、また夢に出るかもしれない。だとしても、新しい美少女を作り上げて、それがレミを止められるなどという考えは言葉遊び以外の何物でもなかった。
「んなこと……できるわけないだろうが。俺は一人になりたいんだよ。もしレミがまだ出てくるんなら、その時は精神科に行ってやる」
「ふふ、無理もありませんね。私は神ならぬ“魔術師”で、あなたに私の言葉を信じるべき道理はありません。けれど私は、あなたのように自分の美少女を持つ人を好ましく思っています。ですから――
 あなたの“幽霊”と、仲良くね」
 そう言い終えると、女――ソーサツ・チエカは眼鏡越しの目をにっこりと細め、ガウンの腰元の布を持ち上げて腰を落とす礼をした。そしてその姿勢のまま両足を複雑に踏み動かすと、彼女の姿は雪に紛れるように消えた。
 異様な熱感が消え失せた。コントローラを握った手の感覚が戻ってきた。唐突に思い出してメニューを開き、同じインスタンスにいるユーザー一覧を呼び出したが、自分と僧侶しか入らないよう設定した寺のインスタンスにはもちろん顕好一人しかおらず、ファンは静かに回り、レミの墓に備えた線香のアセットからはまだ煙が上がっていた。
 ……
 …………
 ……………………

          ◆

 レミの墓を建てた日の夜、顕好の下宿するアパート。
 顕好は暗い部屋のベッドに横たわり、じっと息を殺していた。レミの墓を建てたことが果たして正しかったのか、延々と考えていた。そんなことは明日からの生活がどう変わるかを見なければ分からないとは思うのだが、どうなるにしても気構えが欲しかった。レミは二度と現れないのか、自分を恨んで出てくるのか、あるいは出てくるにしてももう少し大人しくなるのか。二度と現れない、という可能性があまりに楽観的であり、また自分でも望んではいないことをこの頃には顕好も自覚していた。
 突然、口から言葉が漏れた。
「――ねえ、寂しいよ」
 ああ――。
 ログアウトしてから七時間。やはり、墓は何の役にも立たなかった。あの“魔術師”の言った通りであり、顕好の薄々思っていた通りでもあった。
 その間にも、拗ねた声で不平を言い募りたいという切実な思いが顕好の内に湧き上がってきた。レミが何かを話す時はいつもそうだ。強引に体を乗っ取られるという感覚など漫画の中だけの話だった。あくまで自分からレミの言葉を発したい衝動が湧き起こることで、顕好の自我の一部であるレミは現れる。完全に自分の手に負えないものならまだ諦めようもあったかもしれないが、レミの言葉も行いも、自分自身が何らかの意味で望んでいることだと分かってしまうがために、顕好は病院に行くことも、現実の誰かに相談することもできなかったのだ。
 レミの言葉はだんだん長くなる。
「顕好ってさあ、わたしのことどう思ってる? 鬱陶しいって思ってるのは知ってるよ。でもわたしのこと好きでしょ。好きな子にやることがそれ? さんざん考えて、それでやったことがそれなんだね。うん、分かってるよ。顕好が自分のしたいこともわかんないバカだってことはさ。でも、寂しいな。わたしも顕好みたいにみんなに忘れられちゃうの?」
「知るか……」
 顕好は、顕好としての声を出して抗った。今までは、声を出し分けてレミと話すと本格的に狂人に見えそうで躊躇していたが、この時の顕好はどこか自暴自棄になっていた。自分もついに頭がおかしくなってしまったと、奇妙に冴えた意識の片側で思った。その間にもレミは喋り続けた。
「寂しいな。なんにもうまくいかない顕好なんかより、わたしの方が生きる価値あるのにね。ほら、わたし、かわいいでしょ? 顕好の持ってないもの、いっぱい持ってるんだよ。顕好に任せてたってぜんぶ無駄にしちゃうよね。顕好のせいでわたしも迷惑してる。いい加減に身の程をわきまえたら? わたしが顕好のこと管理してあげるよ。わたしのアバターにして、かわいく改変して、わたしじゃなくなりたい時だけ着てあげる。お墓も建ててあげよっか。分かってる? 顕好のことなんていつでも殺しちゃえるんだよ。ほら、手で触ってるの分かる? 首のところ、あったかい? 冷たい? 喉仏、こんなものがあるから顕好は誰にも相手にしてもらえないんだよ。ぎゅってしてあげるね。せーの、」
「知るか……!」
 VR感覚が仇になった。胸の上に馬乗りになる小柄なレミのお尻の重さまで、顕好はありありと感じた。しかし、レミはそれ以上力を入れなかった。
「……生きててもなんにもいいことないのに、消えたくないんだ。臆病者。そんなんだから、そんなんなんだよ。顕好は。もうちょっと頼りになる人ならよかったのにな。他の人のアバターがよかったな。ねえ、顕好の方から話しかけてくれないの? こっち見てよ。お話しようよ。こんなの寂しいよ。わたしどうしたらいいの?」
「知るか…………!!」
 顕好は、たび拒絶した。
 その時、顕好の中で繋がるものがあった。レミがいくら顕好の心を抉ることを囁きかけてきても、相手にしなければいいのだ。そのやり方が今、実感として分かった。今までは、レミを顕好の一部と思うから全てを受け止めることしかできず、苦しかった。しかし、そうではない扱い方があったのだ。自分の言うことを聞かないなら、いっそ完全に切り離してしまえばいい。同じ肉体と記憶を共有するだけの、互いに決して思い通りにならない、「自分」の中に同居する「佐野顕好」と「高凪レミ」の思考回路として。パソコンのデータディスクを、複数のドライブに分けるように。それは今まで自分自身だと思っていたものの多くを手放し、「顕好」を小さく縮める行いだったが、一度そうしてしまえば、顕好はもはやレミの際限のない不満を自分のこととして引き受けなくてもよいのだと思えた。
「好きにしろよ、レミ……。気が済むまで泣きゃあいい。後のことは、明日考えようや」
 枕に顔を埋めた。
「つまんないよ!! つまんないつまんないつまんないつまんない全部つまんない!! こんなに寂しいのに!! 誰かわたしのこと見て!! わたし自信がほしいだけだったのに、みんなに褒めてほしかっただけなのに、幸せになりたかっただけなのに!! 助けてよ!! もうどうしたらいいのかわかんないよ!!」
 涙は心地よかった。言葉と涙腺の収縮が脳の緊張を解いていくのを、肉体を通して顕好は感じた。それでいて、座禅をする僧が湧き起こる煩悩を平静な心で受け流すように、小さく折り畳んだ意識でレミの狂態を眺めていた。情けないとも、人が見たら何と言うだろうとも思わなかった。ただレミの悲しみと身勝手さを感じ、そしてそれを許してやろうと思った。レミがそうなった原因の一端が自分にもあると、今こそ認める余裕ができたような気がした。
 レミは泣き止んでいく。顕好は既にその声を子守歌として聞いており、今までの経験から言えば、この分ならレミの視点の夢を見るはずだった。眠りに落ちる直前の、現実の記憶を夢の彩りで見る時間。あるいは夢の世界の奔放さを意識の明るさで見る時間。そこに向かってレミは急速に落ち込んでいく。深い地底湖へ続いているような精神の縦穴を仰向けにまっすぐに落ちていく。落下の方向だけを、五感のどれでもない内観で感じるでもなく感じている。
 つるり、
 と、横合いに枝分かれの穴が開いた。レミはそこに吸い込まれた。斜めに傾いた穴の中を落ちていき、やがてその傾きもどちらを向いているのか分からなくなった。
 そこに、今しがた自分で発した言葉が反響した。
『――全部つまんない!! こんなに寂しいのに!! 誰かわたしのこと見て!! わたし幸せになりたかっただけなのに!! 助けてよ!! もうどうしたらいいのかわかんないよ!!』
 声は、縦穴の壁を通り抜けてはるか下へと沈み、脳神経線維の堆積の奥底にある暗い水面に波紋を作った。
 波紋は長く、長く残り――――やがて消えた。
 そして、暴風のような何かが縦穴を駆け上がってきた。
 それは応える声だった。
「――――ふふ、いいですよ。レミちゃんはわたしが守ってあげますからね……」
(…………!?)
 茫漠とした、誰かの気配がレミを薙いだ。レミは風に巻かれる木の葉のように翻弄され、傾いた縦穴の支流から押し戻され、元のまっすぐな暗闇を眠りに向かって落ちていった。

          ◆

 何かが起きている。
 昨夜、レミと自分をうまく切り離して、互いに振り回されることのない関係に落ち着く確信を得たはずだった。しかし、その直後に何かが起こった。
 一つだけ確かなことがあるとすれば、あれは、自分の声だ。
 肉体の喉で喋ったわけではないが、確かに自分で声を出したという感覚がある。それ自体は、触っていないのに触ったように思えるVR感覚と同じようなものだ。しかし、どういうつもりでそんな言葉が浮かんだのかは全く分からない。あの瞬間、あの声を発した何者かがここ﹅﹅にいて、レミに向かって語りかけた。顕好ではない。
 何かまだ、隠れた欲求不満があるのか?
 なくはないだろう、人間なのだから。しかしそれが何で、どうすればいいのかは分からない。当面は、次に何かが起こる時を待ちながら生活を続けていくしかなかった。
 いや、
 できることはある。あの「何者か」は顕好が眠った後、レミに対して語りかけてきた。ということは、顕好として生活している間は、きっと「何者か」は現れない。とはいえ、レミは都合のいい二重人格のように簡単に呼び出して体を操ってもらえるような代物ではない。唯一顕好とレミを切り替えるスイッチはVRだ。しかし、結局アカウントこそ消さなかったものの、墓を建ててしまった手前、しばらくはVRSNSには入らないつもりだ。ならば、
 顕好は、パソコンをスリープから復帰させた。ボイスチェンジャーのソフトが自動的に立ち上がり、マイクに入力される音声から環境ノイズを除去し150Hz以下と8000Hz以上をカットしピッチとフォルマントを調整し歯擦音を抑制し、ミキサーソフトを介してスピーカーにレミの声を伝え始めた。そのスピーカーはVRゴーグルと一体化したヘッドホンの形をしている。顕好はVRゴーグルをかぶり、センサー付きのベルトを身体に巻きつけ、VRSNSを含むVRゲームをホストするプラットフォームサービスだけを起動し、デフォルトのログハウスの空間が周囲に表示されるや、徹底的に防音された自室で名乗りを上げた。
「はーい、どうもこんれみー! VRダンサーの高凪レミです! いつもありがとー!」
 女の子の声。その瞬間、自意識の形が滑らかに切り替わり、レミの思考が精神と身体感覚の表面に浮かび上がる。即ち、147センチの身長、弾力を意識した四肢の伸び、華奢さと直結した無敵さ、罪悪なき承認欲求、価値ある自己、かわいさ。蛍火舞う寂静の娘、高凪レミ。
「今日は作業配信していくんだけどー、新アバターじゃないんだよね。何ていうの? 指名手配って感じかな?
 昨日の夜ね、わたしのところに来た女の人がいてね。配信もVRもしてないのに、直接夢の中に出てくるんだからびっくりしたよ。あのー、配信見てるー? 見てたらコメントお願いしまーす! 今からわたしの記憶を頼りに、あなたの声をイメージしたアバターを作っていきます!」
 配信ソフトは起動していない。しかしレミになるには十分だった。ゴーグルをかぶることで現実の肉体が見えなくなることは重要だが、それ以上に声が変わることの方が影響が大きい。配信の時と同じように絶え間なく喋り続けることで、レミとしての自意識が維持される。3Dアバター制作ソフトを新たに立ち上げ、昨夜聞いた声の響きを自分の見知ったキャラクターデザインに照らし合わせて立体に起こしていく。VRの視界にパソコンの画面を映し出し、片手のVRコントローラをマウスに持ち替えてである。
「あれはねえ、大人のお姉さんだと思うんだよね。落ち着く感じで、髪型はとりあえずロングなのは間違いなくて、目はこのあたりの垂れ目のやつで。でもちょっとだけアグレッシブなところがあるんじゃないかな、守ってあげるって言ってたから守る実力があるんだよね。そういうのは瞳で表現するわけ。実力ってなんだ? そうそう思い出してきた、顔の形はちょっとだけ男っぽくするとなんでかきれいに見えるんだよね」
 レミが使っているソフトは、まず瞳や眉毛などのパーツごとにデフォルトで用意されている素材を選び、その後細かいパラメータを調整することでアバターをデザインする。これは、衣装の柄などのテクスチャ画像を描く前の大まかな色や目鼻立ちを決める段階では、単純なクリックだけでほとんどの作業が済むことを意味する。今、レミが潜望鏡のように狭いVRゴーグルの視界でアバターをデザインできているのは、まさにその賜物だった。
「瞳のハイライトは……あ、これだね。これしかないです。瞳の色は赤以外の、そうだなあ、緑。あ、あとそうだ、眼鏡だ。絶対眼鏡かけてるよ。鼻と口はまあこれでいいとして、髪に戻ろうかな。何色がいいですか?  えーと、緑……違う、銀……? え、もしかして人間じゃない……? ケモ耳がいるやつ? あー絶対そうだ!! 狐のお姉さんだこの人! そうそうそうそうこれこれこれこれ、わかってきたわかってきた、身長は180センチくらいあるでしょ、胸は大きいけど大きすぎないでしょ、腰回りはバランス見て適当で脚は長くて、うわ190センチになったけどいいや、尻尾はあとで作ろう、それより服だよね、あっ浴衣あるじゃない、こんな派手じゃなくていいけどこんな感じ、あー顕好のおばあちゃんちに行きたいな、こんなお姉ちゃんほしかったな。いいないいな、わたしも人間の世界は窮屈だよー、全然うまく踊れないしわかんないことがたくさんあるし、顕好は頼りになんないし、甘えたいな、子供のころに戻りたいな、」
「――――じゃあ、戻ってみる?」
 来た。
 奔流のようなレミの独り言に割り込むように、それとは色合いの違う別の言葉が「発されたい」という切実さを伴って湧き上がり、声帯とボイスチェンジャーを震わせた。顕好から発したのか、それとも誰の名前もまだ持たない深みからか、レミの言葉を受け止める第三者の感覚が形作られ、昨夜夢うつつで聞いたのと同じ響きでレミに語りかけた。
「――いいんですよ。レミちゃんも顕好ちゃんも、わたしといる時はなんにも怖いことありませんからね。淋しくなったら、いつでもわたしのところにおいでなさいな。ずっと一緒にいてあげますからね……」
 その声を発しているのは、もはや誰だったのだろうか。その時確かにゴーグルの内側には、レミと顕好を慈しむ感情があり、人の世から半歩外れたところに向けられた遠い懐かしさがあった。それは、顕好の有限の経験と知識から作り上げられた想像に過ぎなかったのだろうか? もはや彼女﹅﹅にとって、それは全く重要なことではなかった。
「……ほんと? わたしのお姉ちゃんになってくれるの……?」
「はい、あなたが望むなら。でも、呼び方は何でもいいんですよ。お姉ちゃんじゃなくたって、わたしはレミちゃんのことが大事なんですから。ほら、おいで? 抱っこしてあげる」
 “彼女”はなおも応えた。不安定になったレミはひとたまりもなかった。作りかけのアバターが瞼の裏で両手を広げ、レミは子供のように“彼女”に飛びついた。
「う……ぅぐ……うあ、ああああ……おねえちゃああん……」 
 ――レミを活き餌として、姿と声をある範囲で自在に作れるソフトウェア環境を、自分の精神の内部に棲む何者かを捉えるアンテナとして使う。顕好とレミに分裂したことで多くの辛苦に遭った彼女たちにとって、「内なる他者」を野放しにしておくことは妄想癖では済まされない危険を意味していた。それは子供のごっこ遊びで作り出されるものと本質的に同じでありながら、数十年の人生の間に蓄積された知識と経験を糧に、遥かに複雑な情報の回路となって、やがて独立した輪郭を得て動き出す可能性のあるものだった。喩えるならそれらは、情報で満ちた無意識の海に棲む異形の魚だった。顕好は彼女たち﹅﹅﹅﹅を、いつか自力で陸へと上がってくる前に片端から釣り上げることを選んだ。
 しかし、無意識の住人を釣り上げることはまた、この試みに果てがないことをも意味していた。なぜなら、彼女たちが人の形をとるのは、陸にある人格が望んだ時だからだ。人は宿命として他者を求め、心の欠けを鋳型として自分の内に他者を作り出す。そうして作り上げた仮想の人格が「人」と呼べるまでに成長するのなら、そこからさえも新たな他者は作り出される。現に高凪レミの人格の欠けたところが、彼女を庇護する誰かを求めたように。意識に上る人格が増えた分だけ、より多くの魚が人型をとって、無意識の海から浅瀬に引き寄せられる。だが顕好にはそれを止めることができない。レミをここまで育ててしまった時から。
 ただ一つ方法があるとすれば、限りある脳に「人」を溢れさせ、もはや明確な人格として自らを保てないほどに一つ一つの情報を薄めることだ。人体の細胞の一つ一つは思考をしないのと同じように。顕好自身もいずれそのようになるだろう。そうなった時、この体を動かしているものは一体何と呼ばれるのが相応しいのだろうか?
 顕好は言った。
「出てきてくれてありがとうよ。あんたの名前は?」
「んー……顕好ちゃんに、つけてもらいたいな」
 顕好は考え込んだ。田舎の古い家の縁側で、レミを抱いて座る長身の女性を想像することができた。いや、もはや女性と呼ぶこともできない。望まれて在る、人の形をした何かきものを総称する一つの言葉が古くからあり、VRSNSにも受け継がれていた。しかし顕好はそれとは違う、彼女一人を指す名前を、釣り上げた者の責務としてつけなければならなかった。
「…………“うたかぜ”…………」
「ふふ、“凪がぶもの”、ですか? ありがとう。それでは、わたしは今から“転風”です」
「転風、あんたは怖いものがあるか?」
「うーん、ないと言いたいんですけど……あなたやレミちゃんが、ずーっと、ずーっとわたしのところにいるようになったら、それは心配かなって思います。でもわたしには、こうやって慰めてあげることしかできないから」
「……なら、あんたもいずれ、次のを連れてくるんだろうな」
「大丈夫ですよ。理由はありませんけど、きっと大丈夫。だってあなたもレミちゃんも、こんなにいい子なんですから……」
 ……
 …………
 ……………………

          ◆

 ――今日も、アバターを作る。
 ……
 …………
 ……………………

          ◆

 たけけんは都内の通信設備会社に勤める24歳であり、この春の辞令で静岡支社への異動が決まっている営業部員である。
 その日、いつ戻ってこられるか分からない東京を満喫するために、麻布界隈や西武沿線をぶらぶらして野方の自宅に戻る途中の電車で、武居は大学時代のスキーサークルの後輩に出会った。感染爆発以来一度も会っていなかった、二つ下の後輩だ。酔うと周りにいい格好をつけようとして悪ノリするところがあるが、人のことをよく見ていて、メンバーの仲が(主に痴情のもつれによって)こじれた時には頼りにされる奴だったという印象がある。武居は車両の中ほどで吊革を摑んで立っている後輩に他の客の間を縫って近づき、キャラを社畜からインカレ飲みサーの老害に切り替えて話しかけた。
「お? あっきーじゃねえの! おんまえ久しぶりだなあおい! 元気か?」
 後輩も既に武居に気づいており、へらっとした笑みで武居に応えた。普段着で、家電量販店のビニール袋を提げている。ということは、休日がある身分か。
「おー健斗さん、お久しぶりっす。いやあ、俺なんてもう引きこもりまくりっすよ。飲みにも行かなくなって、もうめっちゃ酒弱くなってますよ」
「わかるわー、リモートだとマジで飲み行かねえもんな。つーかあっきー会社どこよ?」
「あー……実は俺留年しちゃったんすよね。オンライン授業とか全然出る気しなくって……」
 今時そう珍しい話ではない。感染症の後遺障害によって授業どころではなくなった元同級生。人と会わない日々の中で生活の張りを失った同僚。年配の世代に比べれば自分たちは一人の時間に順応した方だと思うが、二年も続けば嫌気が差してくる。だが、ふらふら外に出てくる元気のある後輩には遠慮の必要もないだろう。
「お? おうおうおうおう、いいじゃんいいじゃんそういうの聞きたかったんだよ。そんで? 留年して何してたんだ?」
「いや……寝てたっすね。何してたかも思い出せないっす」
「不健全だなあおい、何かないのかよ? メシに凝ってたとか筋トレしてたとかよ? お前今四年だっけ? 就活はしてんだろ?」
「いやまあ、ちょっと筋トレしてた時期もありましたけど、もう最近は全然ですって。健斗さんは今何してるんすか?」
 ここで武居は違和感を覚えた。並んだ吊り革の下でこちらに半身を向ける後輩の、わずかに早口な口調と急な切り返し。何か言いたくないことがあると察しはつき、武居としては詮索はよしておいてやってもいいという気もあるのだが、サークルの呼吸としてはこういう隙は見逃さず拾うのが正しい。向こうも理解の上のはずだ。
「おうおう違うだろあっきー、日本男児が一人で部屋にこもってたらやることは一つだろ? はいもう一度どうぞ?」
「……」
 そして、気の利いた答えを返せなければ、
「よっしゃ。俺がリハビリに付き合ってやる。お前んこの次だったよな。酒買いに行くぞ、留年生?」


 後輩の家は西武沿線の駅前繁華街を抜けた、オートロック付きの小洒落たマンションの二階にある。武居も学生時代に一度飲みに来たことがある。スーパーで酒とつまみを買い込み、袋を後輩に持たせて部屋に押し込む。酒代は武居が全額おごることで断りづらくさせ、袋は持たせることで「重かった分自分にも消費する権利がある、消費すべきだ」と錯覚させるテクニックである。もちろん後輩も知悉しているはずの卑劣なワザである。
 最寄り駅からの道すがら、後輩は武居やスキーサークルの今の様子についてしきりに聞きたがった。今は何の仕事をしている、卒論は何を書いたか、グループチャットに流れる案内以外に飲み会は開かれているか、山形のゲレンデは営業しているか。武居はそれに答え、返す刀で後輩の生活の細部を聞き出そうとし、後輩はその全てに愛想よく、しかし内容のない短文で返し続けた。もしかしてヤバい連中の尻尾にされているかもしれんと思い始めたのは早くもスーパーにいる時で、武居は内心でもしもの時の算段をしながら後輩の家に上がり込んだ。
 部屋は六畳と少しのワンルームで、男の一人暮らしにしては片付いている。玄関先には数個のゴミ袋が寄せられているが、マンションに専用のゴミ捨て場がないならこれは普通のことだ。洗面所をちらりと覗けばコップに歯ブラシが一本、女の痕跡はない。武居はそれらを横目で確かめていた故に、本丸の部屋の異常に気づくのが遅れた。
 後輩の部屋の壁は、全ての面がびっしりと、白いスポンジで覆われていた。
「……!!」
 飾りの類ではない。柄も組み合わせも何もない四角いスポンジは、天井の隅や窓にまで一面に敷き詰められ、外に何かを漏らさないことこそがその第一の役目であることを雄弁に語っていた。何かとは例えば悲鳴だ。足元を見れば床にも、デパートの子供の遊び場にあるような薄い発泡フォームが敷かれ、全体の印象としては一瞬病院の待合室を思わせる。そして、寒い。ひどく寒い。まだ春の始めだというのに窓際のエアコンは冷房に設定され、壁と床のスポンジは保温どころか外の温かい空気を締め出しているように思える。壁際にベッドはあるが、この部屋で眠るということをどうしても想像できない。
 冷蔵庫とさえ錯覚するその部屋に、熱源は三つしかなかった。
 後輩と、武居と、パソコンだった。
 それらは真っ白い部屋の荒涼さにいささかも抗えておらず――いや、それよりも、武居が目をやった先、電源の入ったパソコンの脇のスタンドにかけられた、明らかに人の頭に被せるためのバンドのついた機械、掌に収まるほどの奇怪なプラスチックの塊たち、モニターの前の大きなマイク。――これは、何をする部屋だ?
「あっきー、お前これ……もしかして、配……」
「――先輩、すいませんけど、今日は勘弁してくれませんかね」
 人間の言葉には聞こえなかった。目の前に立つ後輩が声を発した瞬間、それまでひそやかに回っていたパソコンの空冷ファンが突如として岬を吹く風のような不規則な叫びを上げ、一瞬前まで凍えるほどの冷気を感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。それは一様な室温の「暑さ」ではなく、まるで大勢の何者かが突然至近に立って武居を囲んだような、濃淡のある異様な「熱さ」だった。動転し、床に後ろ手をついて後ずさった。視線は後輩から外すことができず、その視界には後輩の他に誰もおらず、しかし白い部屋を満たす空間そのものが種々の感情で武居を、じっ、と見つめている気配があった。
「これ、お酒はお返しします。マジで帰ってもらえませんか」
「――――!!」
 酒の袋を突き出す動作が、両腕で自分を絡め取ろうとするように見えた。武居はスポンジの継ぎ目に足を取られながら飛び上がり、色を失って玄関のドアにすがりつくと、粘つくような春の暖気の中を、溺れる者のように手足を振り回してマンションの階段を駆け下りた。
 それから後輩がどうなったかは、誰からも聞かない。

          ◆

 VRの寺の、仮想の墓場の片隅。
 墓には世界を去った者の名が残され、しかし、その主は今もこうして訪れては、自分の墓石に手を合わせる。去ること、留まること、蘇ることは、もはや彼女にとって何の違いも意味していない。その姿がワールドのギミックやバグでない証拠に、彼女の頭上には変わらずネームプレートが表示されている。

「――おかえりなさい、高凪レミさん」

 山門の軒下から、女が踏み出した。
 レミは鷹揚に振り向き、女に笑いかけた。黒衣の女は山高帽の下からレミを一瞥すると、眼鏡の奥の目を細め、面白いものを見たという表情で声もなく微笑んだ。
 レミは静かに告げた。
「……一度死んで、戻ってきましたよ。何とか折り合いがつけられたみたいです。わたしはVRで生まれましたから、もうしばらくはここで生きてみることにしたんです。ファンのみんなや座長にも、挨拶をしないとですね」
「望むようにするといいでしょう。あなたは最初の深淵を越えた。それに、あなたはもう知っていますよね? “彼女たち”はこれからも、このVRの中でもやってくると。彼女たちを釣り上げる時のあなたと、物理現実で人と接する時のあなたも、もはや同じではないでしょう?」
「そうですよ。顕好もちょっと分かれちゃったみたい。まあ、転風さんやさなさんもいるし、わたしは今さら何人か増えたくらいで。周りのみんなには、わたし一人だってことにした方が楽かもしれませんけど」
「自分の内に無辺の海を見出す方は少なく、その海の住人を大気の中に連れ出す方はさらに少ない。それをして狂わない方となればなおさらです。しかしVRでなら、いずれ誰もがその可能性に気付くでしょう。あなたが一つの名前を名乗ろうと、折節ごとに異なる美少女を知らしめようと」
「……あなたは前に、わたしのことを“幽霊”って言いましたよね? 顕好からすれば、そうだった時期もありましたけど……じゃあ今のわたしは、一体誰の幽霊なんでしょうね?」
「あなた以外の、全て。ですが、幽霊とは生と死の境目があって初めて可能な言葉です。存在と非存在を曖昧にしてしまったあなたには、別の呼び方があってもいいでしょう。そうですね、喩えるなら今のあなたは、一つが二つに、二つが四つに、四つが八つに、自らを割り裂いて増えていく受精卵――――“卵割”――――」
「そこから、何が生まれると?」
 黒衣の女は、微笑んだまま答えなかった。
 桜舞う境内で、二人はしばし向かい合い――やがて鐘が鳴った時、彼女たちの姿は墓前の一片の花弁を残して、桜のとばりに紛れるように消えていた。


〈『卵割』終わり〉

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