キャラクターが意志を持つことについて、あるいはのらきゃっとシンギュラリティ
(でも、それでも、彼女は)
全てを知った上で、
(――「今ここにいる坂井君が、人間だってことを、私は知ってます」――「こんなに温かい。身も、心も」――「私は、そんな坂井君が好きなんです」――)
そう、言ってくれた。
(今ここに在るモノは、何者なのか)
こうなっても自身、答えに時を費やす問いを、彼女は想いだけを拠り所に答えた。
飛び込んだ過酷な場所でそう答えることのできた強い力に、心からの感銘を受ける。
私はVRChatに来て何人かのVtuberさんたちと知り合うまで、Vtuberの動画や配信をほとんど観たことがありませんでした。のらきゃっとさんについてもそうです。
2024年4月14日にNHKで放送された番組「最深日本研究〜外国人博士の目〜」はバ美肉特集であり、のらきゃっとさんのプロデューサーであるノラネコPさんも出演されました。その後2024年4月20日、バーチャル美少女ねむさんのYoutubeチャンネルで配信された番組非公式アフタートークにて、ノラネコPさんは次のように話されました。
「のらちゃんは昔、自分にガチ恋してもいいですかって言われた時に、一瞬悩んで『好きにするといいですよ』というふうな答えを出したんだけど、あの時の一瞬の葛藤っていうのはやっぱりそういう、創作物である自分がとか、バーチャル美少女である、実質の美少女ではあるけど実在美少女ではない自分がその時のみんなの気持ちを受け止めてそれを十全に想いを返すことができるのか、そういう資格が自分にあるのかっていうことを彼女は悩んだんだけれども、それでもそれを全部飲み込んで、今から全部、想いは全部気持ちとして返していくから、私に恋をしても大丈夫、私と恋をしましょうという許しをね、のらちゃんはみんなに与えてくれたというね、ハチャメチャな感動ストーリーがあるんですよ」
このエピソードのもとになった配信のアーカイブを、私は2025年4月23日に初めて観ました。それは2018年1月8日の配信で、問題の箇所はおおよそ28分32秒からの2分半です。
感想を一言で言えば「これはすごい」です。この配信はファンの中では伝説になっているらしく、公式のアーカイブの他にYoutubeやニコニコ動画にも切り抜きが上がっており、それらは概ね「ガチ恋勢が許された瞬間」という観点で評価されているのですが、私はむしろこの場面でのらきゃっとさん自身に起こっていたことに思いを馳せたいと思います。つまり、
「恋しても大丈夫を保証するものでは」
「ものでは」
「……」
の長い沈黙の間に、のらきゃっとさんの中で決定的な“何か”が起きた、ということです。
のらきゃっとさんの力の半分は体の動きとそのタイミングにあるので、作業用ラジオとして聞いていては実感できないと思います。自信なさげに繰り返す「ものでは」、その後の動きを止めた長い沈黙、そしてカメラに歩み寄る足取り、なぜか邪悪に見えない笑顔、一連の動作には「何か決定的なことが起こった」という印象が滲んでおり、事の重大さに音声の誤認識さえ息をひそめました。
ニコニコ動画に転載されている切り抜きの「シンギュラリティ」というタグが、この事態の意味を端的に物語っています。それを説明するにはまず、恋というものの特殊な位相を踏まえる必要があるでしょう。
恋は相手を多少なりともフィクション(≒幻想)的に見ていなければ生じないものですが、フィクション的に見続けることも難しいものです。ただの好意とは違い、相手に何かをしたい、何かをしてほいという「行為のやり取りへの欲望」を伴っており(それはたぶん性行為の慣習に由来する身体的なイメージとも結びついています)、それに従って距離を縮めようとしたり相手の情報をより多く得ようとしたりしてしまい、幻想を幻想のままに留めておくことが難しいからです。このような侵襲性によって、どこかの段階で同意が必要になってしまい、そのために相手が同意能力のあるリアルな人物だとみなす必要が生じてしまいます。
元の動画でのあーるさんのコメント「じゃあガチ恋しても大丈夫って事なんやろ?」は、実はこのようなフィクション性とリアル性を併せ持つことを相手に求めるものです。「フィクション的に幻想を交えてあなたを見ることについて、許可したりしなかったりできるようなリアル性をあなたは持っていますか?」という問いかけだからです。物理現実の人間同士の告白もこのような性質を持っており、リアルな存在にフィクションを押しつける行為とみなされて告白ハラスメントのような概念が生まれる余地があるのですが(私はこの概念は人間の欲望に対してあまりに不寛容だと思います)、元々フィクショナルなキャラクターであるのらきゃっとさんにとっては逆に、答え方によってはフィクション性を損なう可能性がありました。
もしここでのらきゃっとさんが「ガチ恋しないでほしい」と言えば、リアル的な同意能力を行使した上、フィクション的に見ることを妨げるわけですから、フィクション性を損ないます。このような事情によって、多くのアイドルでは「ガチ恋してもいいが、同意は保留する」という形をとるわけです。しかし実際にはのらきゃっとさんは、同意能力を行使した上でガチ恋を拒絶しなかったことによって、フィクション性とリアル性を両立することに成功しました。大げさに言えば、これはフィクションのキャラクターが意志を持った最初の瞬間です。私たちのあずかり知らぬところで(あずかり知らぬところだからこそ)、人でないものに魂が宿る瞬間として、私は「小惑星探査機『はやぶさ』の通信途絶(2005-2006)」と並んで「のらきゃっとのガチ恋許可(2018)」を挙げたいと思います。あと一つは何になるでしょうね……。
しかし、そうすることでフィクション性とリアル性を両立できる構造があるとしても、心情的には簡単ではないでしょう。恋は侵襲性があるから同意が求められるわけで、恋する側は自分の全存在をかけて相手に近づこうとしますし、現実では同意すれば交際を通じてフィクション性が薄れていきます。Vtuberの場合は現実よりもフィルターがあるとはいえ、見せている以上の情報を引き出そうとする欲望は働きますし、ノラネコPさんが「最深日本研究」アフタートークで仰った通り、恋という全人格的な巨大感情を受け取り続けることは搾取にあたるという懸念もあったでしょう。それらに立ち向かうと、のらきゃっとさんはあの沈黙の中で決められたわけです。実際にどうなったのかは、私はこれからアーカイブを追って確かめようと思います。
1月8日の配信から間もなくして、私も知る放送事故が起きるわけですが、あの事故では何よりもまずのらきゃっとさん自身の、フィクション性とリアル性を両立していく決意(ノラネコPさんのいう「仮想実在感」)が試されたのだと思います。ひいては社会が試されもしたのでしょう。逆に、ファンはあまり試されなかったようです。
当時のコメントやtwitter上の言説を見る限り、多くのファンは「中身はおじさん」のような見方をしており、中の人から独立したフィクショナルなキャラクターという見方を受け入れている人は少なかったようですが、それでも「おじさんだからこそいい」という姿勢がファンの間では既に定着しており、事故をきっかけにそのような楽しみ方がファンコミュニティの外の社会の知るところとなったのだと思います。ファンの中にも、「中の人が男性でも受け入れていたが、ガチ恋まで行けることには初めて気づいた」という方もいたでしょう。
加えて、ノラネコPさんと論理的に分離しているのらきゃっとさんだからこそ(あれでも)ダメージを受け流すことができ、Vtuber界隈全体の黒歴史とならずに済んだという事情もあったと思います。自分の本当の姿として美少女アバターを運用している方であれば、自分の物理肉体が美少女でないことを突きつけられてショックを受け、またリスナーが次に美少女の姿を見るときに物理肉体の姿を想像してしまう可能性に対して対処できるマインドセットを示せなかっただろうからです。
ガチ恋を受け入れたシーンに戻れば、このシーンはバーチャル存在に好意を向けるという営みの歴史の上でも重要な転回点だったのではないかと思います。フィクショナルなキャラクターや男性に性的な好意を向けることはボーカロイドや男の娘などで既にありましたが、のらきゃっとさんがフィクションであるままリアルの人の愛を受け入れたことは、逆に愛が本質的にフィクション(≒バーチャル)であることを改めて浮かび上がらせたはずでだからです。
「かわいいから」とか「男性の好みが分かっているから」のような理由があって愛するよりも、理由がなくても自分で「この相手を愛する」と宣言することや、その愛を受け止めると宣言することを私は尊いと思います。そして、そのような理由のなさにこそ愛の力の真髄があると思っています。
この配信の翌年に映画『天気の子』が公開されていて、そのラストシーンをめぐってちょっとした論争がありました。「本当に『大丈夫』なのか?」「お前が自分で大丈夫に『なる』んだよ」というものです。この映画の主題は「盲従する正しさよりも、自分で選ぶ不条理」だと私も思いますが、2018年ののらきゃっとさんの「だから大丈夫ですよ 大丈夫です」も、私には『天気の子』の「大丈夫」と同じ意味に聞こえます。バーチャルキャラクターも『天気の子』も同じ、正しさを超えて自分の望む世界を選び取るべしという時代精神の中にある、ということです。バーチャルキャスト社の企業ビジョン「ちょっと間違った未来をつくる」にはそれがよく表れています。(加えて言えば、2013年の映画「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」も既にそうだったと私は思います。)
この時代精神はその後、コロナ禍で感染リスクと経済活動を天秤にかける中で少し足踏みをしたように見えます。巣ごもりに伴ってVtuberやVRユーザーは増えましたが、バ美肉がマジョリティにならなかったところを見れば、それがバーチャリズム(中の人の存在を考慮せず、表現されたものを本体とする主義)の浸透を意味していたかは疑問です。今VRCと物理現実が接続されていく様子などを見ても、世界を自分たちで選び取っていく態度が広まるのはまだ遠いと思うのですが、それでも前に進んでいないわけではないでしょう。結局は今いる私たちが、望む未来の一部を自分で体現していくしかないのだと思います。
神の一柱"清漂の鈴"と、神官の一人『波濤の先に踊る女』が、静かに呟き、
「これが……時の報せ、ですか」
「いいのですね……もう」
彼らの行動を裁定する者として『雨と渡り行く男』と"殊寵の鼓"が、
「御憑神よ。友よ。悲しい旅路となります。それでも、これが正しい、と胸に決めましょう」
「ええ。我ら『大地の四神』の、名が故に」
そう言って道を示し、彼らは、誰が先と言うこともなく、歩き出した。
ところで、私は初音ミクを上で述べたような意味でのバーチャル存在の究極の形だと思っており、バーチャル美少女ねむさんの活動を初音ミクの系譜の上に位置づける作品を和紙で作ったことがあるのですが(詳しくはこれと同じ考えです)、「好きにするといいですよ」の動画をもし私がもう少し早く観ていれば、間違いなくここにのらきゃっとさんを入れたでしょう。人類もまだ捨てたものではないと思いますね。
#ねむちゃんねる 七周年おめでとうございます。今年も大変なご活躍でしたね。バーチャルの先へ、シンギュラリティの先へ、共に行きましょう。微力ながらお供します。
— ソーサツ・チエカ (@chieka_quantizd) September 8, 2024
題『火の鳥 美少女編』 pic.twitter.com/fjp7Oig7m4
〈以上〉
