【小説】VR小説『Aleph』
この作品は、「言ノ葉の集い Advent Calendar 2023」の12月20日分の作品であるべきだったものです。
この作品はフィクションです。物理現実ならびに仮想現実の実在の人物・団体・サービス・ワールド等とは一切関係ありません。
この作品は、noteとTalesの「創作大賞2025」ホラー小説部門に応募しました。
【応募用あらすじ】
――狂気とはその眼に映る美少女が非可算無限であることを云う
VR空間には「言霊風俗」の噂があった。音声入力された言葉をAIで擬人化し、3Dのキャラクターとして生成するシステム。
社畜VRユーザー、ハンドルネーム「なにさま蛙」は、人間嫌いの仲間たちと「言霊風俗」に足を踏み入れる。狂気の光景からログアウトしたその夜を境に、彼はあらゆるものが美少女に見えるようになった。道端の鳥居、通勤客の塊、会社――膨大な数の美少女が語りかける中、なにさま蛙は想像から逃げるためにVRに入り浸り、やがて事態の真相を語る「魔女」と出会う。
情報と精神と美少女の真実を告げる、バーチャル時代の人類が乗り越えるべき物語。
いつもの帰り道。最寄り駅から十分、川とも呼び難い細い水路に沿った夜道を歩いて帰る。商店街のある方とは反対側の、マンションとスーパーとコンビニしかない住宅地。暗く、道は細く、遠くで時々聞こえる車の音が通り過ぎると、下の水路からかすかに這い昇ってくる水音だけが後をついてくる。
私は歩きながら後ろを振り返り、誰もいないのを確認し、そして正面に向き直って、私の前に向かって伸びていく水路の曲がるあたりを見た。街灯もまばらな細い道では、前から誰かが来ていてもよほど近くまで来なければ気付かないに違いない。
夜の九時半である。
マンションとスーパーとコンビニこそはこの住宅地の全てであり、それ以外のものは何もいらない。一つでも欠ければ私は帰りが遅くなった日にひもじい夜を過ごすことになる。さもなくば、毎食カップラーメンで体を壊すか、駅の反対側の商店街で毎晩外食することになり、退勤後にさえ赤の他人との不毛な会話に神経をすり減らして早晩心療内科のお世話になるだろう。今もスーパーの袋を右手に提げ、なかなかに健康的であると自負している夕飯の材料を買って帰るところだ。
道に沿っている水路はいくらか行ったところで左に折れ、そこからすぐに暗渠に入っている。私はそこに差しかかる。左手には水路、右手にはこの地区の古い住人の家々、そしていよいよ道が水路と共に折れるというところにそれがある。私はなるべくそちらを見ないようにして通り過ぎようとする。
背の低い鳥居の立った、小さな祠である。
それ以上の詳細の描写は差し控える。私としてはまじまじと見ていたくはない。低いとは言っても人がくぐれる程度の大きさはあり、犬小屋くらいは置けるほどの空間がそこにはある。家と家の間に空いた空白。怖いのとも気味が悪いのとも違う、言い表すならそう、気まずいものをふと思い出してしまうような感覚を、私は毎晩ここを通る度に覚えるのだ。
何か仕掛けが隠れているような――――
誰かがそこに立っているような――――
ここに住み始めた頃はそんなことは思いもしなかった。奇妙な思い込みを植えつけられたのは、きっとVRのせいなのだ。
◆
六畳間。スーパーの袋を下ろし、なかなかに健康的であると自負している夕飯を――作らない。時間がギリギリなのだ。十時を前に、私はエアコンをつけ、パソコンの電源を入れ、使い込んだゴーグルをかぶり、両目のレンズに映るメニューにコントローラを向けて起動ボタンを押した。
短いロード画面を経て、私の前にホームワールドであるツリーハウスの一室が広がる。何もない部屋だが、ほぼ全てのワールドに共通してあるものだけはここにもしっかりとある。鏡だ。皮膚や筋肉の感覚を再現できないVRにおいて、自分がどう見えているかを確認する方法は人に聞くか鏡を見るかしかない。不便に思いつつも日課として、大きな鏡に自分のアバターの姿を映してみる。
人間大の、直立する蛙である。
頭と前足が動くことを鏡で確認してから、知り合いとして登録したユーザーの一覧を開く。一人から数人のグループが、数十のインスタンスに散らばっているのが見える。インスタンスとはボタン一つで作れる「使い捨ての部屋」のようなもので、ここに豪邸でも宇宙でも何でもいい、既製のVR空間のデザインデータ(ワールドと呼ぶ)を展開することで、ユーザーが中に入れる空間となる。そしてこの今、午後十時から午前一時の間こそはVR世界のゴールデンタイムであり、仕事や夕食を終えた日本人が続々とネットの仮想空間に集まって遊び始めるのだ。私が同僚の恨みがましい視線を尻目に意地で九時に退社するのも、この時間帯の活気に身を投じるためだ。そういう奴はこの世界には決して珍しくない。
知り合いの数人が固まっている場所、「人外境」という名前のインスタンスを選び、参加する。
画面の暗転の後、周囲は木造の町屋が並ぶ京の大路に変わった。夜で、祭りでもない普通の日で、大路に面した町屋の格子戸はグラフィックの負荷を下げるために全て締め切られている。私は迷わず左手のコントローラを操作して大路を突き進み、何度も来た経験を頼りに突然曲がる。何屋とも分からない二階建ての町屋の間に、人が一人通れるくらいの隙間があるのだ。この隙間の幅は見かけだけのもので、両脇の建物には接触判定がなく、体の大きなアバターでも通れるようになっている。細い隙間の突き当たりには小さな鳥居がある。その鳥居の向こうに、ワールド内のどこか別の場所へ繋がるワープゾーンの薄青い光が見え、
耳が、
次の瞬間には、先客はワープゾーンの中に姿を消した。一瞬見えた姿は知らない顔ではない。このワールドでよく会う、体に包帯を巻きつけた狐のアバターを使っている奴。名もない神社を棲処にするのがやり過ぎなほど似合う一本だけの尻尾。
私はしばし鳥居の前に立って奥歯を嚙んだ。
VRでは、こういうことはよくある。つまり、神社に狐などというありきたり過ぎる取り合わせは、ありきたりであるが故にVRの華として繰り返し繰り返し私の前に現れる。このワールド「人外境」にしたところで、鳥居をその入り口にすることには何の目新しさもない。仮想空間がお伽話を題材にするのは不思議なことではない。
しかし現実は違う。
鳥居に狐はいない。
VRで何の不思議もなく受け入れていることも、現実でも起きる気がするようになっては困るのだ。
私は包帯狐の後に続き、ワープゾーンに踏み込んだ。
途端、周囲は一転して深い森に囲まれた渓谷に変わった。そこにひしめいて好き勝手に話し込んでいる数十の参加者が、近い方から順にゴーグルの液晶に描画されていく。
「どうもどうも、なにさま蛙さん。一昨日ぶりですねえ」
私の到着に気付いて声をかけてきた奴がいる。何とかいう古代魚の、嫌にリアルな姿をしたアバターを使っている、私がVRを始めて間もない頃からの知り合いだ。わざわざ生物学の論文から古代魚の3Dモデルを起こして自分でこの不気味なアバターを作っているのは理解に苦しむが、社会に馴染めないという一点において私と気が合った。
私は古代魚に体を向け、現実の部屋の座布団に腰を下ろした。頭の位置が下がったのでVRでは四つん這いのような姿勢になるが、元より蛙のアバターであるから違和感はない。
「一昨日……? いや、あの時はもう日付が変わっていたから、昨日のことだ」
「そうそう、昨日ぶりですねえ。どうですか、あれから何か面白いことありましたか」
「あるわけないだろう。労働だぞ。新規顧客の開拓と言うがな、そんなものが今時どこにいる。今ついてるジジババから搾れるだけ搾るしかないんだよ。上も分かってるはずなんだが」
「大変ですねえ。僕はねえ、またちょっと同居人が暴れまして、まあまた警察呼んで預かってもらったんですけど、帰ってくるまでのしばしの平穏ですねえ」
「またか。大変だな」
「いえいえ、僕はなんやかんや一人相手にするだけで済んでますから、なにさま蛙さんみたいな社畜生活は想像もつかないですねえ」
「そうだな……」
「ですねえ……」
「…………」
「…………」
古代魚が沈黙してしまったので、ここで読者諸賢に若干の身の上話をしよう。
私がVRを始めた頃は、ちょうど立体映像技術への投資が始まった時期で、世界の再創造だの理想の自分だのという謳い文句が連日ネットに飛び交ってはあの手この手で高い機材を売りつけようとしていた。当時の私はまだ若かったので、連中の宣伝にまんまと引っかかってパソコンとVRゴーグル一式を揃えてしまった。そのこと自体には後悔していないが、連中の掲げた理想が誇大広告だったことだけは今ならはっきりと言える。似たような境遇の奴らと傷を舐め合うことの他には、私たちの生活の苦しみはVRによって何も解決しなかった。
誰が言ったか「ソーシャルVR」。だが結局は、VRもゲームに過ぎなかったということだ。
この「人外境」、不定期に開かれている非人間型アバターの集会には、そういう人間社会に安住できない連中が集まる。外見を選ぶことのできるVRでは、アバターはそのまま自分のスタンスの表明になる。人型のアバターを使うことは、人の世界の慣習を持ち込むという表明に。人でないアバターを使うことは、人のルールから外れることの表明に。しかし私に言わせれば、人外のアバターを使える連中はまだ恵まれている方だ。決して多数派ではない動物や怪物や無生物のアバターを自分で3Dモデリングソフトで作り、あるいは人の作ったものを買ってきて個性を出すように改変できるだけの、根気と暇のある連中。何より、ネットで情報を集め、なくて死ぬわけでもないのに五桁のVR機材を買い揃えられるだけの頭と金のある連中。本当に生活に困窮している奴はVRなどに来ない。
古代魚も既婚者だ。奴が「同居人」という言い方をしていなかったなら、私は奴とも付き合っていなかっただろうと思う。
「――そういえばですねえ、あれ聞きました? 『言霊風俗』の話」
「はあ?」
「僕はSNSで聞いたんですけどねえ、なんかAIで、文章だけから人間型のアバターを作れるワールドがあるって。いや、別に風俗には興味ないですけど、そういうのがあったら人間に偽装するときに便利かなあって」
「そんなもの高が知れてるだろう。どうせ服の柄を変えられるだけじゃないのか?」
「それがなんか、顔とか体型とかも入力によって違うらしいですよ」
「3Dモデルを作れるってことか? できるのかもしれんが……俺は何も作りたいものなんかないぞ」
事実だ。今使っている蛙のアバターにこだわりはないが、理想の自分と言われたところで思いつくイメージもない。自分の個性やら好みやらを明確に持つこと自体、既に贅沢な生き方だ。もしかすると私にも昔はそういうものがあったのかもしれないが、現実を生きていくためには邪魔になる。
それに、ここの住民の理想がいかに凡庸で自堕落な代物か、三ヶ月も遊べば嫌でも分かろうというものだった。VRが世に出る前と同じように美少女キャラクターに逃避し、プロの芸能プロダクションが乗り込んでくればひとたまりもない猿芸を有難がり、何もしなくても褒めてくれる相手に囲まれる生活。私に言わせれば、奴らの言う「仮想空間がもたらす自由」は井の中の蛙であり続ける自由だ。奴らの同類であるなどと認めたくない。
私を誘いたかったらしい古代魚が諦めてくれたと思った矢先、横合いから話に割り込んできた奴がいる。顔まで金色の毛に覆われた直立する狐。冬毛をあふれさせる包帯。先ほどワープゾーンで見た奴だ。近くで私たちの話を聞いていたらしい。
「おっ、例の言霊風俗っすか。自分も気になってたんすよね、本当だったらシンギュラリティも近いと思いません? どうっすか、一緒に行きませんか」
包帯狐は私や古代魚と違い、肉球のついた両手を目まぐるしく動かしながら表情も動かし、アバターの頭・胸・腰・両脚の関節を滑らかに揺らしている。全身の関節にセンサーをつけ、現実の体の動きをそのまま反映しているのだ。身振りに自信のある人間。これもまた恵まれた側の人間だった。
「いや、俺はやめておく。人型なら俺には関係ない話だ」
「すいませんねえ、僕もお薬飲んじゃったんで、この後はちょっともたないと思います」
「あ、いいっすよいいっすよ、自分も今すぐってわけじゃないんで。また機会ある時に行きましょ」
包帯狐は手を振って離れた。話したいことだけ話して去っていく奴。断られるのに慣れるほど、人を巻き込む経験を積んできた奴。悪人ではないことは分かっているが、私はそういう奴とは距離を置くことにしている。
「さすがですねえなにさま蛙さん、やっぱ人間型は僕らには無縁な話ですよねえ」
「ああ、そうだな……猫になりたい。だが猫も似合わないんだ」
それからは、古代魚と他愛もない話をした。同居人の病気の話、睡眠薬の効きの話、親がはまっている陰謀論の話、奨学金の返済の話。岡目八目とはよく言ったもので、自分の境遇はどうにもできないくせに、互いに相手のことになるとあれやこれやと解決策が浮かんでくるのだ。そして相手の出してくれた案を、今日VRをログアウトした後に一つも実行しないであろうことも互いに分かっていた。
「人外境」の集会はいつもの通り一時間で終わった。普通、自分の容姿へのコンプレックスから解き放たれるとされるVRでは、人が集まれば必ずと言っていいほど集合写真を撮る。しかしこの集会にそれはない。以前、倒れたバイクの姿をした主催者に聞いてみたところでは、
『ああはい、それですか。自分はですね、自分の生きた証を残したくないんですよね。撮ること自体は禁止じゃないんで、各自で撮ってもらったら十分かなと』
私は自分自身にはそこまで絶望していないが、集合写真を撮りたいというほどでもない。古代魚が一足先に姿を消すと、私もメニューを開いてホームワールドに戻った。ワールドを去る時にはワープゾーンをくぐる必要はない。
ホームでゴーグルを脱ぎ、夕食の用意に取りかかった。
夕食を作った。五分で食べた。
シャワーを浴び、ウイスキーを瓶から飲んだ。
起動したままのVRに戻り、今夜の寝床を探す。知り合いのいくらかはまだログインしているが、今日は一人でいたい。用のある奴がいれば、寝ている間に書き置きを残しに来るだろう。私はメニューから新しいインスタンスを開き、人が勝手に入ってこられる設定にしてから、参加のボタンを押した。
暗転。
私が選んだのは夜の森を再現したワールドだ。蛙の姿のまま森の中の獣道を進んでいくと、崖の下に掘られた浅い洞穴に辿り着く。その入り口の、月明かりと暗がりの境目のあたりに寝転んで、現実の体も床の布団に横になる。横たわった姿勢では、人間の体でも蛙の体でも視点の高さはそう違わない。
私はこうして、VRの中で寝るのだ。
VR。ろくでもない世界だ。矮小な蛙の棲む井戸が果てしなく並んだ、現実逃避の世界。救いもない。食い扶持もない。こんな所にいても物事はよくならない。
それなのに、私はもう二年もここにいる。
夜な夜な井戸を渡り歩き、畸形の蛙を訪ねて回る楽しみを、振りほどくことができずにいる。
◆
家から職場までは一時間かかる。この一時間の間に私はSNSを見る。夜の間にVR住民たちが昨日の出来事を投稿するからだ。連中の多くは出社時刻の決まっていないご身分なので、私が寝た後にも遅くまで遊んでいる。今朝私が起きた時には書き置きはなく、今は朝の七時半である。
駅までの道は川とも呼び難い細い水路に沿っていて、水路と道の曲がるあたりにあの鳥居と祠がある。陽の光の下で見る鳥居はみすぼらしく、両隣の家の庭先からはみ出した木の枝に覆いかぶさられて、人の生活の中に存在感を埋もれさせている。出勤途中にこの鳥居を見るたびに私は、幽霊や妖怪などいないし、こんな場所を気にするのは馬鹿げていると改めて思う。よしんばそういうものがいたとしても、アバターを着たVR住民と大して変わらないと思えば怖がる理由もない。
ホームに電車が入ってくる。ドアが開く。一人も降りない。こういうことに慣れてしまえば人として終わりだと私は思っている。百人乗るなら百人降りるのが道理だろうと怒りを新たにし、決然と満員電車の中央に体をねじ入れる。閉じたドアと胸との間にある申し訳程度の隙間にスマホを差し入れ、手のトラッキングが途切れた奴のような格好でSNSを更新する。イベントの集合写真、内輪の集まりのワンシーン、アバターに着せる新しい服の販売告知、バグの報告、コミュニケーションの下手な奴への苦言、覗き見防止シートの面目躍如たるエロアバター自撮り、監視のためにフォローしたままのインフルエンサーのポエム、VRあるある動画、
「…………?」
古代魚だった。昨日の包帯狐とやり取りをしている。
『お誘いありがとうございます! 今夜だったら行けると思いますので、是非に!』
『よっしゃ、ありがとうございます! 了解です! 何時くらいがいいですか? 特に希望なければ今夜10時とか?』
『10時で大丈夫です! よろしくお願いします!』
『了解です! 10分前ぐらいから適当に開けときます!』
「…………」
こういう時に「俺も!」の一言で飛び込めるほどの尻軽であれば楽なのにと思う。私のキャラではない。だが今日の九時退社は決まった。言葉で参加を表明するのは性に合わなくても、現場に駆けつけることはできる。
「言霊風俗」である。
勘違いしてほしくないのだが、私は古代魚以外の知り合いがいないわけではないし、今さらネットの知り合いを束縛したがるような歳でもない。人間型アバターを使ったからといって裏切り者呼ばわりするわけもない。しかし古代魚の中にまだまっとうな人間並みの付き合いに惹かれるような気持ちがあるのなら、今後のために私はそれを知っておく必要がある。人と交われるに越したことはなく、ただ私がそうなれそうもないというだけなのだから。
職場の最寄り駅までの間にさらに何十人かが乗ってきて、ドアのところにいた私は車内の中ほどまで押し込まれた。日本の都会の通勤ラッシュは納豆とエロ漫画に次いで海外から見た汚点であるらしいが、私も同感だ。私の後に乗ってきた計何十人かの客は、ドアが閉まり電車が動き出した瞬間に「ひとり、ふたり……」と数えられる人間であることをやめて、電車になみなみと充填された流動体の一部となる。私もその一部になっていることが我慢ならない。そしてこれは電車を降りても続くのだ。プラットホームで、階段で、改札口で、「周りが歩いているから歩かないとぶつかる」というだけのパチンコ玉並みの思考で労働者どもが歩き続けている。その流れに乗ってようやく私も職場にたどり着くことができる。毎朝がそれの繰り返しだ。
何をする職場かって? いいじゃないかそんなことは。私もよく分かっていないのだ、私が今していることが何なのか。
夜の十時前、私は駅からの帰り道を歩いている。世の中堂々としていれば何とかなるもので、私が勢いよく席を立てば上司も同僚も声色以外には迷惑気分を表しはしない。特に今日は、絶対に十時までに帰らねばならない理由がある。「言霊風俗」がどういう所か、古代魚がどうするつもりなのかを見なければならない。街灯の少ない川沿いの道。水路から這い昇ってくる水音。寝静まりつつある住宅地。湾曲した路傍に立つカーブミラー。右手にある民家。鳥居。
包帯狐の声を思い出した。
『おっ、例の言霊風俗っすか』
馬鹿げた話だ。妄想ならもっと独創性のある妄想にするがいい。そして、私にそんな独創性はない。ないからといって、VR住人のような安直な現実逃避に逃げ始めたら終わりだ。
私は鳥居の方を一度も見ることなく道を曲がりきり、自宅のアパートにたどり着いた。エレベーターのボタンを叩き、七階から降りてくるのを待つ。
六階。
今日は帰りにスーパーに寄る時間もなかったが、野菜はまだいくらかあったはずだ。「言霊風俗」にどれくらい時間がかかるか分からないものの、明日も仕事があるから、VRの後で適当に茹でて食べることにしようと思う。
五階。
ウイスキーはあっただろうか。今飲んでいる瓶ではない、次に開けるストックのことだ。私は決して多く飲む方ではないが、ウイスキーだけはストックがないとなぜか不安になる。
四階。
いやにエレベーターが遅く感じる。十時まで時間はまだ少しあるが、それにしても遅い。エレベータのボタンを押したのが何分だったか確かめなかったのが少しばかり悔やまれる。……いや、いくら何でも数十秒のはずだ。私はそこまで焦っているのか? 古代魚のことでそこまで?
三階。
エレベーターが止まった。
「…………!!」
衝動的に頭に血が上った。咄嗟に押し殺した罵声がそれでも喉から漏れた。おおかた三階の住人が下に降りるためにエレベーターに乗ったのだろう。だがこの今乗るか。私が待っている時に、私の呼んだエレベーターを止めて、私より低い階に住んでいる奴がわざわざ乗るか。
だが、私は苛立ちを呑み込み、小さく悪態をつくことしかできなかった。住人に悪意がないのは分かっている。悪意があるとすれば、それは世界の巡り合わせのようなものにあるのだ。ブラック企業。満員電車。思えばいつも私だけがこんな目に遭っているような気がする。それでいて一番世界が狡猾なのは、私が本物の不幸になって出るところに訴え出ないように、こういう中途半端な嫌がらせに留めているところだ。
エレベーターが動き出した。二階。
私は文字盤を睨みつけていた顔を慌てて無表情に戻した。三階から乗ってきた住人にガンをつけるのは忍びない。この時間に子供の遊びでもあるまいが、赤ん坊でも連れた親なら愛想笑いをしてやるくらいはやぶさかではない。
一階。
エレベーターの扉が開いて、無人の中身を私に晒した。
「……………………」
きっちり六秒の間、私はその場に固まっていた。
エレベーターは「私が何かしましたか?」とでも言うようにするすると扉を閉め、そのまま一階で押し黙った。
「――――っっっおい!! ふざけんなよお前!!」
ボタンを拳で叩きのめして、他の部屋に聞こえていないかが一瞬気になり、そんなことを気にしたことがまた私の癇に障った。ワイヤーを切るくらいの勢いでエレベーターの床を踏みつけ、誅罰のつもりで四階のボタンを殴りつけて空間全体に向けて怒鳴った。
「黙っていれば要らんことばかりしやがって!! 何様のつもりだ、ええ!? 俺を差し置いてガキの悪戯なんぞに開けるな能無しが!!」
四階で開いた扉に肩をぶち当てながら、私は自分の部屋に一直線に向かった。走ると負けた気がするので歩いてだ。こういう時には他の物事も上手くいかないことを経験則で知っているので、自分の部屋の遙か手前から既にポケットに右手を突っ込んで鍵を探している。やや難儀して探し当て、恋敵ででもあるかのように鍵穴に突き刺し、怒りのままに開けて怒りのままに閉めた。
怒りのままに閉めたにしては、あまりに近所に配慮した音だった。
「――――はあ…………」
いっそ、本物の狂人であれば楽だったろうと思う。私の誇りであるはずの理性のせいで、世界の当たり前の不条理を馬鹿正直に受け止めてしまい、そのくせ怒るにしても怒り抜くことができない。私を辛うじて職場と社会に繋ぎ止めている、中途半端な要領のよさを幸運だとも思わない。一縷の望みを懸けたVRでも、尖ったところのない蛙アバターには書き置き一つつかない。だが、私はこういう生き方以外にやりようがないのだということもどこかで分かっていた。
古代魚が包帯狐と会っているはずだった。のろのろと玄関から身を起こし、パソコンを点けてVRゴーグルをかぶった。激昂したせいでうっすらと額にかいた汗が、ゴーグルのレンズを瞬く間に曇らせた。それでまた怒りが湧くのをぐっと抑えた。
◆
製作者は海外の誰かだった。音声認識と画像生成AIとアバター制作支援ツールとを組み合わせ、ユーザーが声に出した言葉を擬人化して立体キャラクターとして出現させるワールド。それが「言霊風俗」だった。アバターを作れるというのは言い過ぎで、ユーザーがそれを「着る」ことは流石にできないようだったが、それは大した問題ではなかった。今も昔もネットの新しいもの好きにとって「バカ」とは誉め言葉で、噂を聞いて見物に来た私たちも、その技術の高さと使い道のしょうもなさに口々にバカだバカだと呆れ合った。
古代魚と包帯狐もそこにいた。
「あ、こんばんわっす。やっぱり気になるっすよね、いらっしゃい」
「どうもどうも、なにさま蛙さん。ここに技術の解説があるんですけど、これ個人でやってるの凄すぎますねえ」
私たちの他にも、包帯狐の知り合いであるらしい幾人かが成り行きで同じインスタンスにいた。居合わせた猫耳球体関節人形は人間が全能の神となる時代の狼煙だと言い、三頭身の幼女はアイデアは陳腐だがVRでやったのが凄いと言った。私はワールド管理者のパソコンが負荷で爆発しないか心配したが、相手が道楽のために機材を惜しまないタイプのバカであることを願うしかなかった。
あからさまに夜の店を模した鏡張りのボックス席に、飾り気のなさが逆に馴染むタブレット型のUIが置いてある。最初に「指名」を言う役目を買って出たのは包帯狐だった。相変わらず、申し訳程度に体に巻きつけた包帯が局部だけを隠している。
包帯狐は言った。
「『利き手を骨折して入院したショタ、身長141センチ、日焼けしてる、隣のベッドのケモお姉さんのことが気になってたけどショタが先に退院して後で親に内緒でお見舞いに行ったらお姉さん死んでた』」
恐らく、密かに口上を準備してきたものと思われる。
テーブルに置かれたタブレットが、認識した音声を文字起こしした文章を表示した。見ているこちらが恥ずかしい。画面はすぐに「呼び出し中……」に変わり、やや重いアバターの読み込み時間程度の間を置いて、包帯狐の前にキャラクターの立体モデルが現れた。私たち全員にも見えた。
少年である。
「ん……? おお……? これは……うん……なるほどね……? そういう解釈……」
包帯狐は、自分の入力に応えて生成されたそのキャラクターを前後左右上下から眺め回してしきりに頷いている。確かに少年型で人気のある有名なアバターに似ているし、背も低く華奢で、半袖のTシャツからのぞく首筋や腕は夏休みに毎日サッカーでもしていればこうなるだろうという程度に日に焼けている。だが、手を骨折しているようには見えないし、お姉さん云々に至っては要素の影も形もない。さすがに外見ではない設定を含めるのは反則だろうと思う私たちの前で、包帯狐がふと彼(?)の一点に目を留めた。
「あ、これはヤバそうっすね。や、皆さんにはわかんないと思うけどね、この肩に掛けてるカバンなんすよ。ここに“魂”があるんす。この水筒とか着替えとかって感じじゃない、なんかこうコンパクトな膨らみ、でも遊びに持っていくには大きめで重そうじゃないっすか、AIじゃ理解できないんで偶然できた形だと思いますけど、これ何入ってると思います?」
包帯狐の質問に答えたのは私たちではなかった。包帯狐自身でもない。
少年キャラクターの頭上にテキストチャット用のボックスが出現し、人力ではあり得ない数秒のうちに長い台詞を表示した。
『えと……いや、本……。看護師さんから、オレにって。外国の本で、分かんねーけど、読めるようになりてーんだ。お姉さんが読んでた本だから……。』
「ウッヒョ――――――――!!!!!! これはこれはこれはこれはこれは、シ・ン・ギュ・ラ・リ・テ・ィ・だァ――――ッ!!!! あ、自分ちょっとプライベートで入り直していいっすか?」
「ダメだダメだやめろやめろって!! 早まるな!! お前ホントに入院して死ぬつもりだろ!! リアルのお前はそんなえちえちメスケモじゃねえんだぞ多分!!」
猫耳球体関節人形が即座に止めに入った。猫耳球体関節人形は右手に出した光線銃で包帯狐の視界を塞いで操作を妨害しながら、ふと思案顔になり、
「あれが通るんなら、これはどうだ……? 『要人護衛用に戦闘AIを搭載したメイドロボが、民間に払い下げられて中古市場を流れた後のを俺が落札して、軍人口調で昔のご主人様たちのことを聞かされながら銃とか突きつけられながら事務的にあまあまご奉仕されるやつ』」
まっとうな人間には覚えられない長文を「言霊風俗」は難なく受け付け、十数秒ほどして、眼帯をつけた金髪銀目の長身の女を出力した。猫耳球体関節人形は頭から足先まで一瞥、
「あっ、これはいかんなあ。お約束の赤目でもないし、メイド服も上だけジャケット型に改造されてんじゃねえか。前のオーナーの趣味か? いかん、いかんすぎるぞ。ヘッドドレスはそのままでよし、拳銃よし、球体関節よし、ミリタリーブーツの長さよし、いやー、いかん、実にいかん」
猫耳球体関節人形の呟きに、メイドロボが口をきいた。
『いつから私に指図をするほど偉くなった、ご主人? 無駄飯喰らいの役立たずが、黙って私の膝に頭を乗せろ。はあ……河合CEOは手ずから私に給油してくださったものだが、いや、半年も昔のことだ、愚図のご主人には何も期待せんよ。どうだ、私の下乳と太腿に挟まれて気持ちいいか? 返事をしろ、このウジ虫。』
「!! あ、はい、誠にお詫びのしようもございません、たいへん気持ちようございます。私めは何もできないサバゲーオタのミジンコのカスです。一生メイド様に甘えて暮らさせていただきます」
それからは大騒ぎだった。古代魚が何やら絶滅した生物の名前をいくつか言うと、「言霊風俗」はそれらを混ぜたエビのようなシルエットをした衣装の美少女を出し、古代魚は唸りながら論文を調べ始めてしまった。二人で一組になったパステルカラーの妖精は自分たちと同じ姿を出そうと四苦八苦している。猫耳球体関節人形は床で痙攣しており、包帯狐は少年を抱いて「ごめんね、ごめんね」と言って泣いている。濃い隈のある美青年が出した『世界の終わり』はドレスの裾が燃え続けている巨大な美少女で、「言霊風俗」の店内は瞬く間に火の海になった。
ワールドのあちこちで、読み込み中を示す半透明の人型の群れが立ち上がっていた。悪いことに、連続で言葉を入力しても前に出したキャラクターは消えず、手動で消さない限りいくらでも現れるようだった。人型の数は既に、ここにいる人間の数よりも明らかに多かった。『世界の終わり』の炎の中にちらつく人影たちは、頭上にネームプレートを表示していないただのオブジェクトでありながら、意志を持っているかのように揺れ、テキストチャットで口々に何かを主張しようとしていた。そのチャットボックスの点滅は人間たちの呻きのような呪文のような声と同期し、ソーシャルVRサービスそのものが振動しているかのような唸りを作り出していた。これだけの事が起きているのに、『言霊風俗』は一向に動作を止める気配を見せず、製作者がこの惨状を予期して作ったことはもはや明らかだった。
私は一人、業火と人影の中で周囲を見回した。古代魚の姿は見えない。炎の“あちら側”に行ってしまったのだろうか。
彼に釘を刺すためにここに来たはずだった。私自身は特に呼び出したいものがあったわけではない。しかし今、耐え難い混沌の中で、私は無性に誰かと話がしたかった。わけの分からないものを作る人間より、AIの応答の方がまだ筋が通っているかもしれない、そんな気さえした。タブレットはそこここに転がっている。私は床に落ちているタブレットの一つに近づいて拾い上げ、吹き込む言葉を考えながらもう一度私を囲む炎を見渡し、
そして、私はその女に気づいた。
「――『10センチの線』」
夜の店を模した店内のボックス席の陰にあって、その女は一人で尋常ならざる数の人型を生み出し続けていた。黒衣に黒い山高帽をかぶった、背の高い女だった。鏡張りの壁に唇を寄せるように向かい合って、身じろぎもせずに何かを唱えている。地獄の亡者が悶えているような騒ぎの片隅で、淡々としたその声を私も難なく聞き取ることができた。
「『9センチの線』」
「『9.9センチの線』」
「『9.8センチの線』」
「『9.89センチの線』」
「『9.889センチの線』」
「『9.888センチの線』」
「『9.8889センチの線』」
入力の短さに反して、キャラクターの生成には異様な時間がかかっていた。炎の中、読み込み中の人型たちが無秩序に重なっては互いに弾き飛ばしているのも意に介さず、黒衣の女はそれらの中心で表情一つ変えずに、番町皿屋敷をさらに悪趣味にしたパロディのように数字を呟き続けていた。
“魔女”――――
出で立ちと行動から言えば、そのような言葉になるだろう。しかしその形容から連想される達観や嘲笑の気配が、女の声からは全く欠落していた。喩えるなら買ってもらったばかりの積み木を慎重に積み上げる子供のような、何かを真剣に確かめようとする緊張とそれが隠しおおせない巨大な好奇心の片鱗が、硬く澄んだ声から零れ出そうとしていた。
その黒衣の女が、突然私を振り返った。
そのとき女の足元では、人型をした『10センチの線』『9センチの線』『9.9センチの線』『9.8センチの線』『9.89センチの線』『9.889センチの線』『9.888センチの線』『9.8889センチの線』が次々と立ち上がりつつあった。女の表情はそれらを背景にして声よりもなお平静に、しかし声よりも複雑に組織された何かの意味合いを帯びて私を見た。私はそれを正確に言葉に翻訳することができないが、一つ言えるとすれば、あれは蛙のアバターを着た『171.4センチの線』を見ている顔だったと思う。
私は恐れをなした。
反射的に女をブロックした。古代魚に声をかけていく余裕もなく、慌てふためいてそのインスタンスを去った。
ホームワールドで一人になっても、動悸がしばらく収まらなかった。今しがた見たもの、というより、今しがたいた場所にはちきれんばかりに満ちていた人間の欲望と、それを引き起こした製作者の悪意なき悪が、読み込み途中のワールドのように私の思考を圧迫し、どこから処理していいのか分からないでいた。初めてVRゴーグルをかぶってVRにログインした日の夜もそうだった。逃げ場のないVRの視界で慣れないものに接し、慣れない自分の姿を人に晒した興奮。しかし今日は、これから新しい世界が開けるという期待も、私を導くインフルエンサーの甘言もなく、ただ解釈不能な出来事の解釈不能な戸惑いだけがあった。
言霊風俗。欲望を具現化する。
欲望の具現化。VR住民のそれは美少女に偏る。
それだけだ。最新技術で何をするかと思えば、情けないほどに単純で動物的な人間の本能。しかし人の欲望を具現化した美少女の何を、私はそれほど恐れたのだろう。包帯狐たちの豹変か。キャラクターが乱造される異様な光景か。そうではないはずだ。
誰かと話がしたかった。話の通じる誰か、VRの住人ではない誰かと。特に用事も思いつかなかったが、コンビニに行くことにした。
エレベーターは三階にあった。四階に上がってくるまでの間に私を待たせることはない。私は脅迫するような目つきでエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し、階数表示の液晶を睨んだままエレベーターが降りていくのを待った。途中で止まらず一階の扉が開いた時、エレベーターが私の命令に応えて他の客を人払いした、という想像が意識をよぎった。
コンビニまでの道すがら、私は何度かスマホを取り出しかけて、しかしその度に気分が萎えてポケットに戻した。SNSなりチャットアプリなりで古代魚たちの様子を確かめたかった。しかし出てくるものがどうせまだ入り浸っている証の沈黙か、私のように事態に呑まれているゆえの絶句か、あれだけのものに居合わせて平然としていられる奴の軽口かのどれかであることを思うと、見ても仕方がないような厭らしさが胸にこみ上げるのだった。
スマホが震えた。
手首を返して、またポケットにしまったところだったそれを点けてみると、このごろ珍しくもないスパムメールだった。ハロー、私はドバイに住む未亡人で、夫の遺した資産が七百億ドルあります。私たちには子供がいません、ですから私は先進的なプロジェクトにこのお金を寄付することにしました。それで例の言霊風俗っすか、本当ならシンギュラリティも近いとあなたは理解するでしょう。その本質は人工知能でも嗜癖の充足でもなく、言葉とキャラクターを一対一で対応させることにあります。あらゆる言葉を強引にでもキャラクターに変換することができるなら、その逆、人型をしたあらゆるものは何らかの言葉の擬人化であるということも。その様式として美少女が選ばれたのは宇宙的な視座から見れば偶然で、今という時代から見れば必然だと言えるでしょう。ほら、
その時、私の視界の左隅のあたりに違和感を感じた。何か色合いの違うものがそこにある。スマホに落とした視線の左上の隅、わずかに顔を上げれば確かめられる位置、街灯のない真夜中の道に浮かぶように、あるいはひときわ沈み込むように、
小さな鳥居だった。
悲鳴すら上げられなかった。代わりに規則正しい指令を断ち切られた両足が、アスファルトを噛んで二本ともその場に硬直した。呼吸が浅い、今も視界の左隅のあたりにあるものを紛れもなく私は知っている。それは赤い鳥居であり、犬小屋ほどの空間であり、その奥にある小さな祠であり、私が毎晩見ないようにして前を通っている、川の曲がり角に向かって口を開けている、住宅の間にできた歴史の亀裂のようなポケットだ。名前は確か、いや、名前など知らない、どうして名前などが今気になるのだろう? 首がそちらに引っ張られていく。私の意思のはずなのにそれを止められない、鳥居の上には扁額があるのが普通であり、そこには神社の名前が書いてあるのが普通だ。
見ない方がいい。
駄目だ。理由なく湧いた「この神社の名前は?」は無視する理由もまたなく、既に動き出した首の筋肉を自分で止めることもできない。視線だけが辛うじてスマホに踏み止まろうとする。しかしそれすら、顔が持ち上がるにつれて引き剥がされつつある。
見ない方がいい。
なぜ。見てはならないものがそこにあるのか、それとも、今の私が路傍の神社ごときで動揺するような有様だとでもいうのか。私はまともだ。VRで現実逃避している連中よりも、時代の見えていない職場の連中よりも、冷静で、中立であり、物事を俯瞰し、虚妄に踊らされず、孤独に耐え、よって全てを暴いて直視する権利と能力がある。
見ない方がいい!
その時には既に、私の頭は神社の全容にまっすぐ向いていた。赤く塗られた粗末な木製の鳥居があった。赤い塗料は厚く塗られている割に、造りは丸太そのままを縦横に組んだような中途半端な粗末さであり、鳥居の上にあると思った扁額もないほどだった。私は安堵した。鳥居の奥には暗い空間があり、その隅に白く浮かび上がるものがあった。最初に感じた、違和感のある色合いは鳥居ではなくこれだった。鳥居の内側の空間に立てられた、小さな白木の看板だった。
『恋ヶ淵稲荷』
何かが、起動した。
看板にはこの神社の由来記が、数十行にわたって墨書されていた。夜闇の中、その文章は道路に佇む私の言語野にするするするするするするするすると滑り込み、分解と再構成を経てひとつながりの出来事のイメージを形作った。入力が通った。整形された意味の塊は視覚野に投げ返され、地上のいかなるコンピュータをも凌駕して人型イメージの処理に特化したシステムに入力された。読み込みの待ち時間はないに等しかった。『恋ヶ淵稲荷』が生成された。それは正確には『恋ヶ淵稲荷、古くは水神社と云い鎮座年は不明なるも昭和四十九年に町会一同を願主とし稲荷神を合祀して今に至る、口碑に曰く笹塚川の東へ曲がる処は深い淵となっており或る時近住の娘何某、隣郷へ嫁ぐのを嫌って淵へ入るもそれは私にとってもはや重要ではない、なぜなら全ての情報が一つに織り合わされて少女の形を成したものを、私は今ありありと見ているのだから。
恋ヶ淵稲荷は言った。
『あーあ、やっと声かけてくれたね』
私は言った。
「全くだ。すまんな」
『いいってことよ。もう怖くない?』
「怖くはない、ような気はするな。俺はついにおかしくなったのか?」
『さあね。そんなこと気にする方が変だと思うけどな。いいからほら、寄ってってよ。あなたよそから来た人でしょ? あなたみたいな人が通ってくれたらあたしも報われるってもんよ』
「あたしってのは、そこの川に身を投げた娘と間男のことか」
『いやあ、あたしはあたしよ。ささほら入った入った、手だけ合わせてくれればいいから』
私は首をすくめて鳥居をくぐり、祠の前で音を抑えた二礼二拍手一礼をした。普段神社にお参りする方でもないのに、長い間目を閉じていた。私の手を引いてきた恋ヶ淵稲荷はそのまま私の正面に座って、小さくなったわけでもないのになぜか祠の中に収まっている。目を閉じていてもその様子が見える。恋ヶ淵稲荷は私が手を合わせているのにも構わず話しかけてくる。
『あなたのことは知ってるよ。毎日ここ通るでしょ。お仕事? 大変だねえ、いや見ればわかるわかる。なんか思いつめた顔してるもん』
「否定はしないが、大きなお世話だ。あんたも知ってるだろうがな、生きた人間には色々あるんだよ」
『ふふん、うらやましいかい? ごめんねえ、今じゃしょぼい川でさ。もう死ねないよねえ』
「ナメるなよ。俺が労働ごときで死んだら世界の損失だろうが。神ならせいぜいそうならないように見守っておくんだな」
『神サマねえ、まあそういうことにしておこうかな。ほら、そろそろいいんじゃないの? 帰って寝たら?』
まったく自分勝手な奴だった。私は手を下ろし、後ろを向くような隙間もないので後ずさりをして鳥居を出た。当然のように道路には誰もおらず、通る車もなく、恋ヶ淵稲荷が祠の前から私に手を振っている。
『また明日ね』
「ああ、また明日」
手を振り返して、家への道を歩き始めた。人と話せたので満足していた。途中の道で、私はスマホを出さず、しかし何を考えるでもなく、表情も感情も抜け落ちた夢遊病者のような面持ちでただただまっすぐに足を動かした。
マンションに着くと私が出た時のまま、エレベーターが一階にいた。
「……少しは気が利くようになったか?」
『うるっさいな、お前のためじゃねーよクソ野郎……』
エレベーターは不機嫌な顔のまま扉を開け、私と一緒に四階へと上がっていった。「いつもそうしていればいいんだよ」『うるさい』エレベーターを出て、自分の部屋のドアを開け、六畳間へと一直線に繋がっている玄関に足を踏み入れた。私がこのマンションに越してきてから四年になる。健康には気をつけている方だが、その他の生活習慣は学生の頃からほとんど変わらず、服は脱ぎ散らかしているし食器は料理の前にしか洗わないしゴミは溜まらなければ出さない。人も呼ばない独身の一人暮らしならそれで困らないのだし、何より暇がないのだ。だから、私の部屋には恒常的に物が散乱していて、玄関からは散乱した物たちが一望のもとに見えた。
物が口をきいた。
「うっ…………!!」
左右離れた靴が、洗濯機の中の服が、台所のゴミ袋が、風呂場の前のマットが、冷蔵庫が、テーブルの上のショットグラスが、床のワイシャツが、通勤鞄が、床に敷いた布団が、枕元の腕時計が、窓のサッシに干した洗濯物が、ネットショッピングの空箱が、花粉症の薬が、照明のスイッチが、コルク抜きが、エアコンが、
『おーい、クモの巣張ってんですけどー』『毎日洗ってもらおうなんて贅沢ですよね……』『もう少しここにいていいってこと?』『男の足は嫌だなーとか、全然思ってないし?』『そろそろ強にしないと冷えないよ』『たまにはラッパ飲みじゃなくってさあ』『せめてハンガーにかけるくらいしなよ』『昔の書類とか詰め込みすぎ』『先週末には干すって言ってたよね?』『電池、大丈夫?』『あーあ、また生乾きですよ』『片付け、手伝ってやってもいいが?』『また飲み忘れたね』『もうちょっと頻繁に押してほしいんだよね』『最近安いウイスキーばっかだし、私いらないのかな』『この程度で冷房に頼るな、軟弱者』
目に見える部屋は静かだった。一人暮らしの部屋で、動くものは何もなく、エアコンの風が平坦な音を立てていた。しかし、言霊風俗と恋ヶ淵稲荷から帰ってきた私の視聴覚を通り抜けた瞬間、部屋を形作っていた数えきれない物たちは一斉に人のような“気配”を露わにし、譲り合いもせず私に向かって口々に言葉を発した。その“言”の奔流は生暖かいつむじ風のように私にぶつかり、私の頭の中で渦巻いてひしめいた。
「お、ぅわあああ何だちょっと待て!? やめろ! やめろ!」
私は床に手をついて叫んだ。物が視界から追い出されると、ある物たちは幾分かおとなしくなり、またある物たちはさらに大きな声で騒いだ。思考を圧迫され、酔っ払いが「酔ってない」と繰り返す時のように自分でも統制できない言葉を呟きながら、床を手探りして部屋の中へと這って進んだ。
「待て、待て、待ってくれ、だから待てって、いや待て、ちょっと待て、待て、待てよ、」
六畳間の中ほどに辿り着き、布団の端をつかんだ。布団が『何? 痛いんだけど』と言った。飛び退いて部屋の隅に転がり込むと、抜けた髪の毛と埃の渦巻いている床が『いい加減に掃除しなさい』と言った。ますます慌てふためいて、この声たちから距離を取れる場所を探した。テーブルの下、窓際、柱の陰、
「!!」
柱の陰には、パソコンがあった。
破れかぶれで飛び出した。布団を踏みつけ、服を押しやり、VRゴーグルに飛びついて引っつかんだ。ゴーグルは何も言わなかった。パソコンのスリープが解除され、私は無我夢中でVRを立ち上げた。視界がゴーグルによって遮断され、十数秒のロードの後には、鬱蒼とした夜の森のワールドに入れ替わった。
VRの森は、息をひそめていた。
この森は森全体が“一人”だった。私は息も絶え絶えに、いつも寝る時に使う崖の下の洞穴を探した。森はのろのろとそちらの方向を指差し、『朝には立ち去りなさい』とだけ言った。私は蛙の姿で獣道を進み、月の位置からの光線に照らされる洞穴に辿り着いた。手探りでコントローラに予備のバッテリーをつけ、月光と影の境目に横になった。床が何か言ったが、ひどく遠くに聞こえた。
ようやくの静寂だった。
横になった途端に疲労が襲いかかってきた。思えば長い一日だった――古代魚の件で朝から落ち着かなく過ごし、言霊風俗で悪いものを見せられ、気になっていた鳥居と話をし、挙句にこれだ。私の身に何が起きているのか考えたかったが、今は気力の限界だった。森が静かに佇んでいるのを遠目に、私はたちまちのうちに眠りに落ちた。
◆
スマホが遠くでアラームを鳴らした。それは私には『起きろ、起きれば、起きる時』と聞こえた。
体を起こして、ゴーグルを脱いだ。
カーテン越しにぼんやりとした光の射し込む、六畳間がそこにあった。私は布団で寝ておらず、片足はテーブルの脚に引っかかっておかしな角度で凝り固まっており、床から見上げた部屋はひどく静かに散らかっていた。
――誰の部屋だろう――
誰? その途端に部屋の静寂から声が浮かび上がってきた。部屋の隅からも真ん中からも、私の目についたものがことごとくそれで目が覚めたかのように、私に何かを伝え始めた。忘れたの? 私がいるでしょ、失礼なやつ、もう一緒にいてやらない――――
「待て待て待て! 待て、一旦落ち着いてくれ! 分かった、分かったから!」
私は思わず声に出して叫んだ。何に向かって話しかけているんだ、と一瞬思ったが、聞こえる気がしてしまうものは仕方がない。私に応えたものか、物たちの声は急にトーンを落とした。その隙に、私も私の気分をとりあえず声に出すことにした。
「そう一度に言われても困るし、全部には応えられん。最善は尽くすが、あまり期待しないでくれ。先に謝っておく」
これは正しい選択であったらしい。しばし、考え込むような気配があった。もしかするとそれは私自身が物たちの扱いについて考え込んでいる時間だったのかもしれないが、代表して答えたのは床のワイシャツだった。
『はいはい、分かったわよ。ともかく行く準備したら?』
川沿いの道を、駅に向かって歩いた。川の曲がるあたり、古い家と家の間には恋ヶ淵稲荷がある。以前はどことなく気味の悪さのあったこの場所も、今は通り過ぎざまに挨拶をすることさえできた。
「よう」
『……』
沈黙が返事だった。それで、寝ているのだと分かった。どうせ夜に通る時には起きているはずだ。両隣の家が『あらお友達?』『隅に置けないわねえ』と冷やかした。
駅に近づくにつれて、人間の姿が増えてきた。人間が周りにいる間は人間のことだけを考えていられた。しかしひとたび電柱や、ガードレールや、改札機に意識を向けると、それらはやはり“いて”、思い思いの何事かを私に話しかけてくるのだった。それは私がしている考え事に関係する内容であったり、全く関係ないことであったりした。しかしその内容は総じて不平であり、私に何かをするよう求めてくるものだった。
それも、電車に乗り込むと聞こえなくなった。通勤列車の車内はあまりにも人間で満たされており、他の物の声が聞こえるような余裕はとてもなかった。私はこの間に、自分に何が起きているのかを考えることにした。
昨日恋ヶ淵稲荷に寄ってから――正確には恋ヶ淵稲荷の由来記の看板を読んだ時から、私には人間ではない物たちが話しかけてくるような感じがしている。本当に音としての声が聞こえるのではなく、頭の中にメッセージを伝えられているような感覚であり、それが言葉のように明瞭に受け取れる時もある、ということだ。そのとき話しかけてくる物たちにはまるで人間のような感情があるかのように思え、ほとんどの場合は姿も声もあるわけではないのに、一昔前に流行った擬人化ゲームのキャラクターのように、全て少女であるという確信がなぜかある。そして、私はこれが私の頭の中だけで起きている幻聴の類であり、実際に物たちはそんなことを言っていないということを理解してもいる。ただ、「聞かねばならない」という強迫観念のようなものが、昨日からずっとあるのだ。
物が喋らないと、なぜ言える?
例えば知らない外国語で話しかけられた時、意味は分からなくても何かを伝えられているということは分かる。声のないテキストだけのメッセージでもそうだ。あるいは非常口のマークを見れば、そこが出入り口であることは察することができる。どういう意味に解釈するかはこちらの都合であるにしても、私たちは人に限らないあらゆるものから様々な形で情報を受け取っている。昨日私がエレベーターに怒鳴り散らしたのもそうだ。私の待っているエレベーターが意味もなく止められたのを見て、そこに悪意や怠惰が働いているような気分になった。ただ情報が伝わるだけでなく、その情報を意図を持って送り出した何者かが発信地点にいると考えるかどうか、それが今の私と他の人間たちを分けているものではないかと思う。
問題は、聞こえすぎると困るということだ。昨日の夜は特にひどかった。寝て落ち着いたのか、今朝はまだおとなしかったし、私の都合をはっきり言ってやるのもいいようだ。しかしいつもそうできるわけではない。上手いいなし方を見つけなければならない。つまるところこれは私の気のせいで、爪を噛む癖と同じようなものなのだから。
人間で埋め尽くされた車内は、それを考える数少ないチャンスだ。
そう思った。
電車がカーブに差しかかった。背中を向けている方向への遠心力が体にかかる。吊り革にありついている奴など一握りで、椅子に座れている奴のことは考えない。乗客どもは一斉に同じ方向へと傾く。流れに逆らわない、逆らっても疲れるだけだからだ。
電車はカーブを抜けつつある。
体にかかる力が逆向きになり、前後左右の乗客と一緒になって押し戻される。元いた位置を越えて扉側の客に押しつけられていく。さっきまで私の背中の下にいた連中が、今度は背中に覆いかぶさってくる。この時もやはり流れに逆らわない。
電車がカーブを抜けた。
体にかかる力が逆向きになり、扉側の客から圧力が玉突きのように跳ね返ってきた。それでようやく私は元の位置に戻る。僅かに通り過ぎた分の勢いが再び車内の客へと戻っていく。周りのろくに見えない隙間に挟まっていても、前と後ろから交互に伝わる圧力だけで、隣の客が、その隣の客が、車両の端の客がどうなっているのか手に取るように分かる。分かってしまう。それは液体と化した客どもの作る一塊の波であり、名付けるならば、
通勤サラリーマン波動。
『――楽しいね、あはは』
聞こえてしまった。
水槽を傾けたような波は車両の中を往復し、乗客一人一人の寄せ集めとは決して同じでない新しい“存在”として私の感覚の中に浮かび上がった。不用意にも私がつけてしまった名前を核に、少女の形を取った。少女の形を取った『通勤サラリーマン波動』は私に向かって声を発した。
『もっと揺れてほしくない? 止まるのはもったいないじゃんね』
喋る通勤サラリーマン波動の中の分子の一つとして、こうして声を聞く私がいる。わけが分からなかった。それ以上に私を戦慄させたのは、人間で満ちた電車の中にも全く安息はない、それどころか、人間からさえも新しく少女が立ち上がってくるという事態だった。硬直する私の周りで、ひしめく客のネクタイが、電光掲示板が、電車のそれぞれの車両が、少女の姿をとって口を開きつつあった。
今日は早く帰ることができた。七時を回ったあたりで部長が私に向かって「集中力を欠いているようだ」(実際よりも遵法的な表現でお届けしている)と言い出し、ややの押し問答を経て八時に退勤の運びとなった。
満身創痍だった。
取引先に電話をかけている時間が癒しになったのは初めてだった。オフィスにいる間中、机やらクリアファイルやら、周りにある細々したものがひっきりなしに私に話しかけ続け、その度に私は頭の中で「待て、待て、分かったから」と彼女たちを抑えねばならなかった。
私は川沿いの道をふらふらと歩き、恋ヶ淵稲荷に差しかかった。
『お、やっほー……ごめん、もしかして今日はヤバい?』
「……すまん、明日にしてくれ……」
気のない返事をして、またふらふらと歩いてマンションに辿り着いた。エレベータは三階にあったが、わざわざ一階で待っていられるよりも気を遣わずに済んだ。自分の部屋のドアを開けると、散乱した物たちが一斉に「ざわっ!!」という勢いで騒ぎ始めた。
「あーあーあーうるさいうるさい! やかましいぞお前ら! VRだVR! クソ!」
一日中「物の声」の相手をして、さらに分かってきたことがある。比較的おとなしい物というのがいて、それは例えばスマホ、パソコン、書類、本などだ。考えてみればこれらの共通点はすぐに思いつく。最初から明らかなメッセージを発しているもの、あるいはメッセージを一方からもう一方に伝えるために存在しているもの。そして、もう一つ注目に値するのがVRだった。昨日私が寝た森のことから察するに、VRの中で見るものはあまり喋らない。これはワールド単位で明確な名前がついていて、しかも作者が明らかになっているからではないかと思う。想像力が刺激されなければ声を聞こうという強迫も起こらないのだ。ともあれ私は静かな場所に行きたかった。そして今の私にとって、静かな場所とはVRの中にしかないのだった。
パソコンの電源を入れて、VRゴーグルをかぶった。
ホームワールドでメニューを開き、知り合いの一覧をざっと眺めた。古代魚が一人で宇宙船のワールドにいた。そのうち他の誰かが来るかもしれないが、今のような窮状を打ち明けられる相手は古代魚くらいしかいない。私は古代魚のいるワールドに入室した。探すまでもなく古代魚は宇宙船のブリッジにいて、地球の見える操縦席ではなく地べたの暗がりにいた。それがまた奴らしいと思った。
「あ、どうもどうも。なにさま蛙さん、最近よくログインしてますねえ。なんかありましたか」
「なんかも何も、ちょっと参っててな。聞きたいことがあるんだが、あんた、誰かと一緒に住んでるってのはどんな感じなんだ?」
古代魚は魚体を激しく左右に振って、
「ええっ、どうしたんですかそんなこと。どんな感じって、いやあ、こっちが聞きたいですよ。僕はまあ、ほとんど顔合わせることないですし? 玄関で音したら帰ってきたなとか、ゴミ出そうと思って玄関に置いといたら開けられて荒らされてるとか、お風呂場にチェーンかかってて僕入れないとか、そういうのでいるって分かるくらいで。どうしたんですかなにさま蛙さん、結婚願望ですか」
「いや俺は今すぐどうこうってわけじゃないが、あんたは結局、直接同居人サンと話したりせずに、お互い家の中の状況証拠から相手のことを察して暮らしてるんだろう? 見落としたりしないのか? どうやって上手いことやってる?」
「あ、いや、察してるのは僕だけだと思うんですけど、まあパターンがありますからねえ。例えばゴミ荒らされるのは、あれは分かるんですよ、ああやりかねないよなあって。要するに、あったものがなくなるとか場所が変わるっていうのが嫌なんですよね。自分のものが入ってるかもしれないと思ったらなおさら。結構それが理由ですね、家庭内別居になったのは。なんにも共有できないですからね」
古代魚の口調は普段と変わらず無感動だった。感情を抑えているのではなく、既に古代魚にとって当たり前の生活の一部になっていることを話しているだけなのだ。その凄絶さは私には及びもつかないが、今は私の側もただ聞いているだけではない。私自身の生活の危機を乗り切るために、できるだけ情報を引き出したいのだった。
「パターンか……どのくらいで分かるようになる?」
「僕は一緒に住み始めて半年経たないくらいですねえ、ああこの人は僕とは違うルールで生きてるんだなって。でも普通の家庭でも価値観が違うのは当たり前じゃないですか、だからもうどうにもできないですよねえ。それに、気がついたら単純なんですよ。診断とか、そりゃ何かしら出してもらうことはできると思いますけど、あの人実はめっちゃ単純なルールで生きてるんです。うん」
「そのパターンなりルールなりさえ分かれば、少しは楽になるということなのか? つまり、注意するべき場所が絞られていく、というのか……」
「そうですねえ、はい、そんな感じですねえ。うちの場合は、言い方はアレですけど、縄張りなんですよ。えーとですねえ、自分がこうって決めたものに人の手が入るのが許せないんだと思うんですね。だから、僕は同居人のものには絶対手つけませんし、共有のスペースで何か物が動いてたらそれは戻さないです。普段はそれで何とかなりますねえ。逆に、もうがっつり僕のものってなってるものには向こうは絶対手つけません」
「しかし、風呂場には鍵かけるんだろう?」
「あーまあ、それはお風呂場が縄張りになっちゃってるんですよね。ただそれは何週間かすると興味が離れて、逆に向こうがお風呂入らない時期っていうのが来ます」
離婚したらどうだ、とは言えなかった。古代魚自身がそれを考えなかったはずはない。それでもできない理由があるのだ。私は彼の事情を何とかしてやれる立場ではないし、それが分かってなお正論を投げかけるにはあまりに物分かりのよいキャラで生き過ぎていた。私たちはそれぞれの生活をそれぞれ戦うことでしか対等に共にあれないのだと思った。
古代魚の頭の上にはユーザー名のネームプレートが表示されていた。この名前を持つVRユーザーは、私が会う時にはほとんど常に古代魚のアバターを使っている。そのためだろう、彼のユーザー名を見て私に浮かんだのは同じ古代魚の姿で、その像は彼のアバターに重なるやぴたりとはまり込んで古代魚の声で喋った。
「なにさま蛙さん、大丈夫ですか。なんか悩みがあるんじゃないんですか」
「いやな、笑わないで聞いてほしいんだが、昨日『言霊風俗』に行っただろう。あれから、リアルの物が何でも俺に話しかけてくるように感じる」
「ああー、それで同居人の話ですか」
「話が早くて助かる。俺の気のせいというか、変なことを気にし過ぎてるのは分かるんだが、あいつらに感情があってそれを察しようという気になるのをやめられんのだ。いい塩梅で無視する方法があれば知りたいと思ったんだが……」
古代魚はいかつい頭を振り上げて考えるそぶりを見せたが、再び私の方を向くと、やはり魚体を左右に激しく振った。
「すいません、その感覚は分かると思ったんですけどやっぱり分からないですねえ。無視するのは、まあ慣れしかない……んじゃないですか。僕は確かに物で同居人とコミュニケーションしてるって言えばそうなんですけど、なんやかんや相手は一人ですからねえ」
「そうか……無理もないな。笑えんのは、あの言霊風俗のせいか、話しかけてくる物が全員美少女なんだ」
「ははは、よりにもよってなにさま蛙さんがですか。僕も美少女アバターになりましょうか」
「やめんか、そういうことじゃない」
苦笑しながらも、私はこうも思った。何かのメッセージを投げかけてきて、そこに耳を傾けざるを得ないような強制力が宿るのなら、可愛さでそれをする美少女と、付き合いの長さでそれをする古代魚アバターの間にどれほどの違いがあるのだろう――と。
「ああ、でもそれで一個納得がいきました」
「何だ」
「うちの同居人の、自分の縄張りのものを人に動かされたくないっていうの。あれ何でだろうと思ってたんですけど、そこにある物の声を聞いちゃってたんですねえ。自分自身のこだわりじゃなくって。お願いされてるんだ。だから融通利かないんだ。なるほどです」
「…………」
…………
……………………
…………………………………………
◆
トイレが、私を嫌がり始めた。
いよいよ来たかと思った。いずれこうなる予感はしていた。流石に病院には行ったが、本当のことは何一つ説明しなかった。どう説明してよいのか分からなかったし、説明できたとしても出される薬はそう変わらなかっただろう。何より、この状況を病気として扱うことに、恋ヶ淵稲荷をはじめ私の身の回りにある物たちが猛反対した。そのくせ彼女たちは私に不平を言うことはやめないので、私は用を足す時にも「待て! 待て! だから違うって! 許せ! 許せよ!」と声に出して窘めなければならなくなった。
職場では、三日で同僚から心配されるようになり、五日で仕事を回されなくなった。七日目に休職届を出した。私の職場に休職制度はあっても使った前例はないため、一悶着あるかと身構えたが、日増しに仕事ができなくなっていく様子を見せていたためか怖いほどにあっさりと通った。ただ、会社は私に向かって『ざこ♡ ざこ♡ 女の子にいっぱい耳元で囁かれただけで脳みそ壊されちゃって情けなさすぎ♡ こんなんで人生だめになっちゃうんだ♡』と言った。
私はVRに入り浸るしかなくなった。
VRは現実に比べれば過ごしやすかった。ここでは全ての物はあらかじめ名付けられていて、作者があり、私の想像力が無節操に美少女を生み出す余地はなかった。他のユーザーのアバターを見ても、名前と姿と話す内容は概ね紐付けられていたから、彼らが別のものに見えたり別のメッセージが聞こえたりすることはなかったのだ。
私は食事の時でさえVRゴーグルを外さず、用を足すために念入りに許可を取ったペットボトルをパソコンの脇に置いておくようにさえなっていた。人間こういうことには慣れるもので、ゴーグルをかぶったままでもほとんどの日常動作はできるようになってしまった。とはいえ、買い物に行く時だけはVRから出なければならない。出前を取るとチャイムの音があまりにもうるさいからだ。
私は重い腰を上げてVRゴーグルを外し、コンビニに足を向けた。ゴーグルを外した瞬間に、部屋が『やーっと戻ってきた』と言った。ゴーグルを机に置くと、机が『こういう時だけ当てにするんだよね』と言った。台所の手拭いが『帰ってきたら洗えよ』と言うのを無視して、ドアノブに手を伸ばし、
『あ、あは、どこ行くのかな、だめだよ、逃げられないからね、君はずっとここにいるの、どこにも行かなくていいんだから、』
「だーっ!! 分かったから!! すぐ戻ってくるからちょっと静かにしててくれよ!!」
夜で、暑気の和らぐ時期だった。この時間でなければ恋ヶ淵稲荷が起きてこないのだ。古い戦友のようになったエレベータを待って一階に降り(『ちょっと待っててよ、今立て込んでるんだよね』「ご苦労なことだ」)、住宅街に踏み出した。今の住宅街は私にとって、座り込む数メートルの巨大な美少女の群れと同じだ。
『あーっ、人間さんはっけーん』
『どうしよっかなー、食べちゃおっかなー、今日は見逃してやろーっと』
『でもー、地震が来たらちょーっと優しくしてあげられないなー?』
彼女たちの足元で暮らしていると、人間の暮らしがいかに破滅と隣り合わせであるかが分かる。地震、風水害、火事、あらゆる些細なきっかけで彼女たちは人間の敵になる。それは彼女たちが彼女たち自身のルールで生きているからだ。人間が友人を選ぶように、彼女たちはいざという時には長年の住人たる人間よりも酸化反応や重力の言うことを聞く。彼女たちが直接手を下すまでもない、彼女たちの中にいる冷蔵庫やテレビや箪笥もまた、人を殺すことに躊躇など持っていない。
それは、意思を持たない物体が落ちたり燃えたりするよりも、よほど恐ろしくて、寂しいことのように思える。
水音を聞きながら駅への道を歩く。かつては川だったという水路は、背泳ぎしながら私の後をどこまでもついてくる。水路が暗渠に入る頃には駅前の喧騒の中、即ち人里だ。スーパーは騒がしすぎるので、このごろの私は多少割高でもコンビニに行くしかない。
コンビニは基本的にはやる気のない場所だ。自動ドアがのろのろと開けばやっつけ仕事のような音楽を流し、棚に詰め込まれた缶詰や下着からは盛大な溜息が聞こえてくる。要冷蔵の食品のコーナーはさらに悲惨で、だらけたビニール包装の中に完全に人生を諦めきったようなサラダチキンやハンバーグ弁当が体育座りをして『こんなことのために死んだんじゃないんだけどなあー』とぼやく。私はその中から一つか二つだけを選んで助ける。何日かの分をまとめて買い溜めるとしても、せいぜい十個かそこらだ。それ以上は助けられない。
野菜と冷凍食品とウイスキーを人身売買して、来た道を戻る。コンビニまでの往復、距離にしてわずか一キロそこらが、今の私にはひどく疲れる。ちょうど家と駅の中間点に恋ヶ淵稲荷があるのがせめてもの救いだ。私は鳥居をくぐり、地べたの敷石に腰を下ろして今さっき買ったウイスキーをコンビニの袋から出した。ここなら周りのマンションたちも余計なことを言ってこない。
恋ヶ淵稲荷が祠からするりと出てきて、注連縄の下に座った。
『や、お疲れだねえ。でも会いに来てくれてえらいぞ』
「冗談じゃない。俺はどうなってしまうんだ?」
私はウイスキーを瓶のキャップに注ぎ、お供え代わりに祠の前に置いてやる。
『あなたはそればっかりだねえ。せっかくあたしとお話できるんだから、もっと楽しめばいいのに』
「限度があるだろう限度が。お前だけなら別に問題なかったんだよ。いくら俺でも、この世のもの全部の話を聞いてやるのは無理だぞ」
『全部? それは言いすぎだよ、あなたが会ってるのはまだまだほんのちょっとだと思うんだよね』
「それはそうだろうが。俺はもうろくに出歩くこともできん」
『そうじゃなくってね』
恋ヶ淵稲荷は祠の前でもぞもぞと座り直し、私に向かって身を乗り出した。
『まだほんのちょっとっていうのは、“細かさ”の話なんだよ。1、2、3……しか知らない子供と、小数を知ってる人とでは、同じ1から10まででも見え方が違うでしょ? 小数を使えば、無限に細かい世界が見えるよね』
――そういうことか。
「勘弁してくれ、俺は子供の数え方で間に合ってるんだ」
『つれないなあ。でも、小数を知ってる人の間にも差があるのは分かる?』
「大学で聞いたぞ。ルート……無理数やらを入れるかどうかで変わるんだろう。“無限”の、“濃さ”が」
恋ヶ淵稲荷は、私が知らないことは喋れない。彼女は私の妄想だからだ。だが、私の妄想が私の思い通りになるのならこんな苦労はしない。
それでも私は、彼女が私に何を伝えたいのかを、きっと知っている。
『そうそう。それで、その“濃さ”の違いを表すのに使う数学の記号が、“アレフ”』
恋ヶ淵稲荷は私に顔を寄せて囁き、私のウイスキーのキャップを取ってひとくち舐めた。水面が動き、中に注がれたウイスキーがだまし絵のように顔を変えた。
ある日、私はVRで数人の知り合いと話していた。そのうちのあるものは「人外境」で会ったことがある。昼間で、私はVR中に食べるためのおにぎりを手元に用意していた。つまり、この知り合いたちは自由業か、学生か、そうでなければ私のような社会落伍者ということだ。
そのうちの一人、セーラー服をゴシック調に改変した猫耳の少女が、「言霊風俗」を話題に出した。
「ちょっと前にSNSで話題になってましたよね。僕あれまだ行ってないんすよ。よかったら一緒に行ってもらえませんか?」
ジーンズにパーカーのショートヘアの女が、
「あ、俺そこ行ったわ。結構楽しかったよ。また行ってもいいけど」
浮遊する蛇口が、
「あそこセンシティブ設定してないって炎上してなかった? まあ名前からしてアレだけど」
「ワールド自体はセンシティブじゃないんじゃないか? 入力によってはそういうのも出るってだけで」
「出るんならダメなのでは? なにさま蛙さん、行ったことあります?」
ぼうっと話を聞いていた私は急に名前を呼ばれ、
「ん? ああ、俺はあるな。その時はセンシティブなのは出なかったが……あまりお薦めはしない」
「えー? そうなんですか? ちなみになんで?」
「……人の醜さが出る」
「いやどういう面子で行ったんだよそれ。じゃあ今から行ってみるか?」
言って、ショートヘアの女はワールドを移動するためのポータルを私たちの前に出した。セーラー服と蛇口は即座に飛び込む。私は躊躇った。今度は何を見せられるのか分かったものではない。だが、既に感覚が壊れてしまった私には、何が来てももはや大した驚きはないとも思った。
三人に続いて、ポータルをくぐった。
ロード画面があり、やがてそれが終わった。
以前見た、夜の店を模した鏡張りのフロアが、そこにあった。
しかし、先に入ったはずの三人の姿は見えなかった。店の奥の方にもおらず、隠し部屋らしきものも軽く調べた限りでは見当たらなかった。
サービス側のバグで、違うインスタンスが作られてしまったか。
私は彼らのいるインスタンスに移動しようとした。幸い三人とは以前から面識がある。居場所を辿ることはできるはずだった。
私はメニューを開き、彼らが本当にここにいないのか、ワールド内のユーザー一覧から探そうとした。
誰かいる。
私の他にもう一人だけ、このワールドにいるユーザーが表示されている。辺りを見回しても店内に人影はない。そのユーザーの名前を確認する前に、私の視界の端で何かが動いた。
店の一角のボックス席にあるタブレットが点灯して、「言霊風俗」に何かが入力されていた。
その間に、何者かはインスタンスから退出していた。知り合いでない以上、行き先を追うことはできない。召喚主のいなくなった「言霊風俗」は構わず半透明の人型をそこに配置し、生成と読み込みの処理を始めた。私はそれを呆然と見つめた。読み込みが終わって私の前に表示されたのは、全身を覆う黒衣に黒い山高帽をかぶった、背の高い色白の女だった。
『ソーサツ・チエカ』
タブレットの音声入力欄には、そうあった。
思い出した。私が最初に「言霊風俗」に来た時、平坦な声で大量の美少女を生成していた女だ。あの時私は恐れをなしてこの女をブロックした。今しがた同じインスタンスにいても見えなかったのはそのせいか。私に気付いて、ブロックされていても見える方法で自分の姿を見せてきたのか。何のために。そして、キャラクターの細部を言葉で調整できる「言霊風俗」で、だからこそ、あの短い入力でどうやって寸分違わぬ姿を出力できたのか。
女がテキストボックスで喋った。私が何かを言う前に。
『お久しぶりです、なにさま蛙さん。ソーサツ・チエカと申します』
女の頭の上に表示されたテキストボックスの文字を見て、しかし、私はかつてここで聞いたのと同じ硬質な声を思い出した。思い出してしまった。
『私がこのワールドの製作者だとお思いですか? いいえ、しかし私も興味は持っています』
「何の用だ?」
『あなたに、もう一歩を踏み出していただくために。見えていますよね? この世界を形作る“美少女”が』
女はそう言った。あれからこの女には会っていないし、お互い見えないまま同じワールドですれ違っていたということもないはずだ。にもかかわらず、女は私の今の状況を知っているかのように尋ねた。危険だ。まず疑うべきはストーカーの類だった。
「俺に関わるな。お前の協力も助言も必要ない」
『では、あなたのことではなく、私のことを。ソーサツ・チエカとして話す私を、既にあなたは私として見てくださっていますね? そう、受け取られる情報が同じなら、情報を発した者もまた同じ。送り手によって付け加わる仕草や文脈の情報まで同じなら、区別する手段はないでしょう。私たちは最初に情報を受け取って、そこから送り手の像を組み立てます。逆ではありません』
本当にストーカーなら迂闊に刺激するのは得策ではない。聞き流しながら様子を見るべきだ。私はゴーグルをかぶったままテーブルの上のおにぎりに手を伸ばし、音をたてないように静かにフィルムを剥がし始めた。
『ここVRの住人は、多かれ少なかれ自分自身の一部をここに持ち込んで表現します。しかし全部ではありません。とすれば、ここで表現された情報から物理現実の人物像の全体を知ることは、当然できませんよね。ですが、それは情報が不完全だという意味ではない。表現された情報を、もし全て言葉にして「言霊風俗」に入力したなら……部分なら部分なりの、一人の美少女を生み出すでしょう』
「…………」
『私は、『ソーサツ・チエカの擬人化』。この世界で出会う全ての方たちはそうなのです。生きて有限の情報を放射している全ての存在が、望むと望まざるとにかかわらず、“部分としての美少女”を絶えず抱えていくことになります。逆にいくつもの存在がひとまとめの情報として扱われるとき、そこにもやはり“総体としての美少女”が現れます。あなたはもうご存知ですよね?』
「…………」
知っている。電車の中で見た、通勤サラリーマン波動。そう思い返してしまうこと自体が、女の話に引き込まれてしまっていることの証だ。私はおにぎりから海苔を外し、音をたてないように静かに口に運んだ。私のゴーグルでは目と口の動きはリアルタイム検知されない。
『ましてや――ここVRにも、擬人化できないものなどありません。多少、作者のつけた名前の力が強いですけど――それも、隙間を縫っていくらでも――ほら、『言霊風俗のテーブル』――『言霊風俗のソファ』――『言霊風俗のミラーボール』――『言霊風俗ちゃん』――』
「……!! やめろ!」
女の声に応え、新たな人型が無数、私たちを囲んで立ち上がった。『言霊風俗のテーブル』は黒い光沢のあるレザースーツを着て、『言霊風俗のソファ』は胸が大きく、『言霊風俗のミラーボール』は銀のアクセサリーを過剰につけ、『言霊風俗ちゃん』は大きな鏡を盾のように構えていた。私は女をブロックしようとしてコントローラを向けた。コントローラは女をユーザーと認識せず、ポインターは空を切った。
女は『言霊風俗ちゃん』の手を引いた。頭の移動につられて『言霊風俗ちゃん』の足が動いた先は私の正面だった。
『ほら、なにさま蛙ちゃん。何が見えますか……?』
女が引くのと反対側の手に構えられた鏡に、蛙の姿をした私が映った。次の瞬間、私の姿に重なって『なにさま蛙ちゃん』が鏡の中に現れた。否、それは私の姿そのものだ。蛙と美少女が二重になった像を見て、箍の外れた私の脳の回路が、次の美少女をそこに浮かび上がらせた。それもまた『なにさま蛙ちゃん』だ。二人目と一人目を思わず見比べると、その二人がまとめて擬人化されて三人目が現れた。そして蛙と美少女と美少女と美少女で構成された『なにさま蛙ちゃん』がまた擬人化され、四人目が現れた。また、五人目。
「待て、やめろ!! やめろって言ってんだろ!! クソ、あいつらどこ行った!!」
私は狼狽し、おにぎりを食べかけのままインスタンスを退出しようとした。メニューを開くその頭越しに、女がぽつりと、
『――――『一粒のお米』――――』
「――――っっっ!? うぐ、む、ふぐうううううううううう――――――――――――!!」
瞬間――私の口の中にあったおにぎりの欠片が、まるで塊で産みつけられた虫の卵が一斉に孵化するように米粒の数だけの美少女に変わった。歯の間ですり潰された米粒から、『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』が生まれた。そのいくつかは勢いで私の喉に滑り込み、『私の消化管と一粒の米』の結合したものとして新しい美少女となった。彼女たちはやがて消化酵素によって莫大な量の糖鎖に分解される。美少女たちは私の中で口々に自分を主張して、私の右耳と左耳の内側で、数億人からなる恐ろしい不協和音の合唱を上げた。
『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』
相反する要求を叫ぶ米粒の美少女たちを吞み込むことも吐き出すこともできず、床を転げ回った。目を開ければ『言霊風俗ちゃん』の鏡が私を覗き込んでおり、鏡と私の網膜の間で美少女の情報がループして、一瞬のうちに膨大な数の美少女が生み出されて『なにさま蛙』を上書きした。
美少女は私の身体の中にも外にも無限に現れ続け、瞬く間に私の脳の容量を埋め尽くし、私が私として認識していた形を瞬く間に食い尽くした。
『――――――――』
その静かな狂乱を見下ろして、黒衣の女は静かに微笑んで、美少女で満ちた光景の中に佇んでいた。
その時から、VRにも現実にも、なにさま蛙の姿を見た者はいない。
〈『Aleph』終わり〉
