見出し画像

【小説】FM言ノ葉「第7回きっとあなたの1400字」投稿作品『Local mirror in the sky』

本作は、VRChat内のラジオ「FM言ノ葉」において2023年5月に開催された企画「第7回きっとあなたの1400字」に投稿した小説作品です。
お題は「兎」を選びました。表紙画像は「懐郷の秋澄む夜 -NOSTALGIC AUTUMN NIGHT」で撮影しました。
段落頭インデントはnote掲載に際して挿入したものです。


『Local mirror in the sky』 ソーサツ・チエカ


 電気の時代を、老人は辛うじて憶えている。

 夜も深いうちに目が覚めて、尿意を覚えて起き上がる。
 川に近い住宅地の外れ。廃墟同然のアパートの一室は老人一人が横たわるのがやっとで、壁も天井も松脂の煤にまみれ、農場に着ていく襤褸着の他には自分の物とてろくにない。壁の割れ目から漏れる蒼みが、拾い物の鏡の破片に照り返されている。夜の暗さにも、ここ何十年かで慣れてしまった。
 破れた戸を押して外に出る。アパートは荒れ放題の舗装路に面し、その向こうはもう下りの土手だ。川の音に紛れて時折、遠くで放歌の声が木霊する。この地区の住人は多くが農業従事者で、酒と歌の他には手の届く娯楽もない。老人が太陽電池実験区で働いていたのも昔、今では県有農場の配給暮らしだ。
 かつては、このあたりにも電気が来ていた。
 このあたり、というどころではない、地平の隅々までが照明され、全ての大陸が回線で繋がっていた時代を老人は憶えている。誰もが望むままに姿を変え、肉体の桎梏を超えた平和を夢見た時代を。あれからあらゆることが少しずつ変わってゆき、世界は今の形になった。今日ではもう原油埋蔵量を気にかける者さえいない。中東は今も燃えている。
 老人は罅割れた道路を家の並びの外れまで歩き、空き地に建てられた木造の汲み取り便所に入って用を足した。そして自分のねぐらへ引き返そうとして――ふと何かに呼ばれた気がして、土手を降りる階段に足を向けた。
 川面に注ぐ月は、満月だった。
 足は水際に向かいながら、老人の目は中天の月を追った。一歩、また一歩と進んでも、遠い月を見上げる角度はいささかも変わらない。今では遠くの物の方がよく見える。
 月には兎が棲むと言われていた。
 古い迷信の類だ。土地が変われば兎が蟹になり、女の横顔になった。電気の時代に確かめられた通り、それらは人の孤独が見せた幻以上のものではない。宇宙にひとりであることに耐えられず、自分たちを裁く者を求めて遂に得られなかった人類が、身を引き裂くように投げかけた己自身の影。そんなものを幾千年も、夜空の丸鏡の中に見続けている。
 水際で足を止める。視線を下げて緩やかな流れを眺める。ゆっくりと身を乗り出す。水の奥に映り込んだ夜空から手前の顔に焦点を移そうとして、一瞬ぼやけた目に、

 長い睫毛に飾られた大きな瞳の星が、
 憧れの速度で引かれた黒髪の流れが、

 何もあるはずがなかった。
 誰もいるはずがなかった。
 電気が消えた時代の、死んだ岩塊の反射に照らされたどぶ川の水面に、困苦と動乱に老いさらばえた自分の顔があるばかりだった。
 老人は憶えている。ただ憶えているだけだ。機械の加護を受け、この世ならざる幻に遊んだ日々は戻らない。その記憶の中で、老人は自分であって自分でない誰かだった。自分の理想と他人の寛容が合致した狭間に、それは確かに像を結んでいた。
 老人は水に背を向けた。土手を登り、廃墟同然の寝床へと戻っていく。川面には月だけが残されている。配電規制と共に世界は夢から覚めた。しかし、心の暗がりに残光のような何かがある。いや、それは遥かな昔より人と共にあって、電気の文明を見にちょっと顔を出しただけの、知性を棲処とする何者かだったのかもしれない。それと戯れた日々のあったことを老人は憶えている。暗い地球の夜の底、遠ざかるばかりの記憶の中で、彼女がいたことだけを鮮明に。

 覗く者のない川面で、月の兎が跳ねた。


いいなと思ったら応援しよう!