結局は知識の問題なのか―ルポルタージュ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』感想
ルポルタージュ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を電子版で読みました。著者は石井光太さんです。VRChatで私のフレンドの小林くんにお薦めいただいて読みました。
昨夜はぽこ堂にて『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太 著)のレビューを居合わせた皆さまにお見舞いしておりました。その後の議論では新しい視点をたくさん頂けて非常にありがたかったです。一緒に考えてくださった皆さま、どうもありがとうございました!!🧸📚✨
— 小林くん/NeedForest@VRChat (@koba_in_forest) June 5, 2023
全体を通して、子供の言語能力を伸ばすための学校やフリースクールの取り組みの紹介としては有意義だと思います。しかし、議論の前提になっている「子供の国語力が危機的状況にある」という事実の認定については、起きていることは言語能力そのものの低下というよりも、社会に広く共有される知識(文脈)の変化による読解の不一致と考える立場を私はとります。言語能力は社会的な慣習への理解も含みますからこの二つは究極的には同じものですが、広い意味での知識の問題と捉えるかどうかで対策も変わってくるはずです。
序章
本書の序章では小学校の国語の『ごんぎつね』の授業が例に出され、葬儀で人々が何かを鍋で煮ている場面について、児童たちが「遺体を消毒あるいは解体するために煮ている」と解釈したことが語られます。著者や教員はこれを「現実の常識に照らし合わせれば間違った解釈だと分かるのに、読解力や想像力や批判的思考の欠如によって、自分の回答がおかしいと思えないのだろう」と分析しています。しかし、私はこの例の誤読は知識の不足で説明のつくものだと思います。遺体の消毒や解体という発想は、現代の衛生観念や土地事情を踏まえてはおり、火葬を知らないなりに手持ちの知識をもとに考えた結果ではあるように見えます。それを「常識的におかしい」として自ら却下しないのは、現代では死が人々の目から隠されているために、死をめぐる場面ではどんな異様なことが行われても不思議ではないと思うからではないでしょうか。昔の葬儀であればなおさらです。
もう一つの例として挙げられた、『一つの花』で出征する父親が娘に花を与えた理由についての誤読(花を増やして売るために盗んできた・騒いだ罰として食べさせようとした)も同様です。同じ世代の間でも価値観が細分化している今では、昔と今とで人情は変わらないという感覚を持つことも簡単ではなく、知識として学ばない限りは教師の期待する回答に辿り着くことができないのも無理はないのではないでしょうか。
本書ではたびたび、「読解力の低下以前に、人の気持ちを想像する力の欠如」という形で問題提起がされますが、これも結局のところは生活や価値観が多様化し、自分と他人との間に共通の価値観があると想定することが難しくなったために起きていることではないかと私は思います。そのため、これらの問題は知識をつけることによって解決できる、またそれ以外の方法では解決が難しいはずです。ここで言う知識とは常識とほとんど同じ意味で、文科省が国語力の構成要素として定義する「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」「国語の知識」「教養・価値観・感性等」のうち、本書序章で唯一触れられていない「教養・価値観・感性等」に属するものだと思います。
序章にはこの後、引きこもりになって自分の事情を言語化できない子供について「教員の側も、家族の側も、問題解決の糸口がつかめないので、どうやって働きかければいいのかわからない」とありますが、この事態もまた、問題が知識の不足に由来していることを示しています。読解力や想像力があるはずの教員や家族でさえ、共通の感覚という知識がなければ、引きこもるという表現だけからは子供の心情を想像できないことを意味しているからです。子供が昔の習俗を知らないために『ごんぎつね』を誤読するのと同様に、大人は子供世代の価値観や構造的な問題を知らないために引きこもりを読解できない、と言えるでしょう。
とはいえ、結果として起きているコミュニケーションの断絶、正確には断絶を修復する可能性が断絶そのものによって狭められていることは私の体感と一致するところですし、望ましくないことだと私も思います。その原因が知識(常識)を学習する機会がなかったり効率が著しく悪かったりすることにあるなら、是正されるべきでしょう。本書で議論されていることの全ては結局、その教育コスト(金銭に限らない「手間」全般)を誰が負担するのか、加齢によって複利で積み重なったコミュニケーション能力負債をどのように効率よく返済するのか、ということだと言い換えられるように思います。
第一章
第一章に語られる家庭格差については、親が障害を持つ場合や親と子の母語が異なる場合はもちろんのこと、そうでなくても、家庭での教育に労力をかけようとしない親が増えるのは現代では避けられないことだと思います。人間が一人前とみなされるために身につけるべき技能が高度化し、それが身につく年齢も遅くなっている上、承認や自己実現という新たな悩みも生まれている一方で、子供をもうける年齢は必ずしもそれに合わせて高くならない(むしろ、一人前とみなされることや承認の不足を埋めようとして子供をもうける場合も多い)からです。
これを解決するためにすぐに思いつく方法は、一つは親権を弱めて国が子供を親元から引き離して教育すること、一つは育児支援スタッフや育児ロボットの普及ですが、どちらも全体主義に繋がる危険があるため、具体的な制度設計は簡単ではないでしょう。そもそもコミュニケーションの不全を個々人の能力の差によるものとみなし、さらに疾患のように矯正・予防するものとみなすこと自体が、一定の全体主義や能力差別を許容する考え方です。私はロボットを導入した上で、そのロボットが教育する内容については国民が監視するのが無難というやや楽天的な立場です。過渡期には人間の支援スタッフもいいと思いますが、福祉産業従事者の待遇がよほど改善しない限り日本では難しいでしょう。
ただし、元教員へのインタビュー中にある「今の子はライトノベルやお笑い芸人のエッセイのように背伸びしなくてもわかる本を選ぶ傾向にあるので」という言葉は、ライトノベル読者としては気になります。昔の子供が背伸びして難しい本を読んでいたというのは恐らく上位層の話で、本を読むという行為自体の裾野はむしろライトノベルの登場によって広がったのではないでしょうか。私は『灼眼のシャナ』は人生だと思っていますが、より新しい時代のライトノベルの中にも優れた文学はあるでしょう。一時期(2010年代後半)にはライトノベルの想定読者層が低年齢化し、高校生向けの文芸が手薄になったという印象も持っていましたが、今では電撃の新文芸などの試みによってそれも改善されつつあると思います。
第二章
第二章では、社会から求められる能力が高度化したことが述べられており、私もそれは事実だと思いますし、「多種多様な新しい教育を詰め込まれることによって国語力を磨く余裕がなくなる」という主張にも同意します。習い事や総合的な学習は、既にある程度の知識や思考の習慣を持っている子供にとってはそれらの能力をさらに伸ばすことが期待できますが、それらの能力を持っていない子供にとってはメリット(多様な分野の存在を知ることができる)よりもデメリット(基礎的な知識や思考の型を学ぶ時間がなくなる)の方が大きいものです。同じ理由で私は早期バイリンガル教育にも批判的な立場です。一人一人に合わせて異なる目標や指導方針を設定すれば、総合的な学習の中で基礎的な思考の型を身につけることもできると思いますが、学習指導要領があり生徒数も多い学校という制度の中では難しいのでしょう。
ゆとり教育については、私は必要な知識を教えたり論理的な思考の型を紹介したりすることなくいきなり放任的な調べ学習などをさせたことと、反復練習という愚直な手段で新しいことを覚えられるという成功体験を与えることを軽視したこと(電卓の使用など)に問題があると思っています。教育政策については本書にもあるようにたびたび、エリートはできない人の事情が分からないのだと言われることが多いですが、私はむしろ、言語能力に自信を持つ人というのは万人に自分と同じ能力を期待するのが難しいことをよく分かっているものだという感覚を持っています。しかしもしかすると、ゆとり教育の導入された時期の官僚はそのようなことを知る機会が本当になかったのかもしれません。だとすれば、私が官僚の実態(?)に反してそう思った理由の一つは、SNSでさまざまな人々による議論のすれ違いを多く見るようになったからでしょう。そうであれば、SNSネイティブ世代が制度を設計するときにはもう少し基礎的な学習が重視されるようになる可能性があります。
第三章
第三章ではSNSの影響が述べられています。私自身も、SNSでは相手が生身の人間であるという感覚が薄れて暴言や言葉足らずになりがちというのは否定できませんし、長文を読む意欲が人々から失われているという体感はなくもありません。しかし、社会に向けて語る言葉を持たなかった人々がその手段を得たという点では、短文のサービスであっても価値のあるものです。それらの人々からアクセスできるところに、長く、かつ整理された文章もあるという状況であれば、言語能力が損なわれたとしても回復する希望はあると思います。著者の提案する、ゲームやSNS内で乱暴な言葉を規制するというアイデアには私は批判的ですし、SNSの言語空間が「二次元の世界」と表現されている箇所はネットで育まれてきたキャラクター文化に不利益をもたらす印象操作のように見えます。
LINEやInstagramで起こるいじめの例は、SNSというよりモバイルな端末によるコミュニケーションの問題ではないかと思います。スマホにより学校内と学校外の人間関係の切り替えが難しくなることがいじめの被害が深刻になる原因の中心であり、言語能力に対してはせいぜい、人々がそれまで持っていた欠如が温存されるという程度の役割しか果たしていません。私はやはり、プラットフォームによる規制よりも、人々が文字媒体上で距離感を測る技術を自発的に身につけて広めていくことに期待したいと思います。生身の人間が口で何かを言うことは神によって規制されてはいないわけですから(いるかもしれませんが……)。
ちなみに、「SNSは議論に向かない」とよく言われますが、私はむしろ雑談に向かないと思っています。議論に140字では足りないというならツリーを使えばいいですし、文脈を追わない人を責める大義名分もあります。しかし雑談では、あまり考えずにメッセージを打つ「雑談のノリ」というものがそもそも、あまり親しくない相手に対してオープンな場で話す仕方として相性が悪く、ましてやそれが誰にも誤読されないでほしいというのは無茶な要求です。
この章では「クローズドなネット空間」の例としてメタバースもちらりと言及されていますが、私たちのようなメタバース住民はよく知るように、ソーシャルVRは人との間に空間的な距離感があり、不特定多数の匿名の人々から誹謗されることが起こりづらい場所なので、SNSの問題をそのまま適用することはできません(匿名でないと言えるのは、ユーザー名・姿・声・動作・話す内容という多くの情報を伴うので、メタバース内での人の同一性を隠しづらいからです)。
第四章
フリースクールの取り組みは全体的によいものだと思います。特に「子供たちの会話に交じり、そのズレを一つひとつ修正していく。相手が求めていることを説明したり、この発言をしたら相手がどう思うかを教えたりする」というのは最も重要なことだと思いますし、たぶん私はこれが得意なのではないかと思うことが時々あります。
また、普段書き出しておいた「やりたいことリスト」の中からみんなで何かの活動をすることを通じて自分の感情に向き合うというのは、本来は習い事や総合的な学習などが担うべき役割そのものだと思いますが、家庭や学校がそれをしても言語能力の回復に繋がらないのは、形のある達成目標を掲げてしまったり、あるいは何の方針もなく進めてしまうからでしょう。
第五章
この章にはゲームに対する著者の敵愾心が色濃く出ています。「ゲーム脳」「スマホやゲーム機を取り上げるだけでなく」「ゲームを物理的に奪うだけでなく」といった表現は、ゲームを気晴らしに留まらない一つの文化ないしコミュニケーションのメディアとして捉える立場からは出てき難いものです。規制をするなら必要最低限であるのが望ましく、加えて経済的損失の補償案や産業従事者の名誉への配慮が伴うべきだと思います(提案者と制度設計者は別であることが多いですが、誰かが制度設計者にバランスを考えるよう念を押す必要があります)。また、もしも年齢制限を考えているなら、子供に訴求することができなくなった文化は新規層を得られず衰退します。
私はゲームに関連して生じる社会生活への支障についても、言語能力の欠如の原因ではなく結果だという立場をとります。また、私はWHOによる疾病認定にも当時から批判的なので、「ゲーム依存」という言葉は避けます。依存が依存とみなされることは社会的文脈にも左右され、例えば私たちのようなメタバース住民は「VRゲーム依存患者」から「新しい生活空間の開拓者」への過渡期にあります。(が、本書の著者は「二次元のゲームの世界」という表現も使っており、本来批判したいのはゲームではなくネットのキャラクターカルチャーのうち特に性的な要素の絡む領域ではないかという疑いも強くあります。それはメタバースも射程に含むものです)。
既に生い立ちによって知識やメタ認知能力を伸ばす機会を損なわれている子供が、ゲームによってそれを回復する見込みが低いのは確かです。回復のためには、ゲーム依存とされた子供たちに施される治療プログラムの内容は効果的だと思いますが、それはゲーム依存というより言語能力の遅れ全般に対する対処として、病院以外の場所でも行われるべきものです。そして、予防策としてゲームそのものに制約を課すことは、プレイヤーが自分を律することができるかどうかにかかわらず、表現の自由の保障という観点から望ましくないと私は考えています。私が依存症の防止よりも表現の自由を優先するのは、たとえ有害とみなされるような表現でも、公開・記録・論評されることによって、それに影響される人間自身の性質を知ることに深く繋がるからです。
五感を飽和させる光や音の演出、射幸心を煽るガチャ、継続的なプレイを促すログインボーナスなどは、確かにゲームに多く含まれているものですが、それ以外のものにも含まれます。最も注意するべきは、政府もこれらの技法をプロパガンダに使うことができ、法規制が行われた場合には規制を運用する政府がこれらの技法を独占することになるということです。人の習慣や行動に影響を与える技術は、それに対抗する技術も含めて、民主化されている方がいいと私は考えます。
第六章
この章では非行少年の言語能力の低さが語られています。例として出てくる人々は、客観的に見ればかわいそうではあるのですが、自分が不幸であるとも悪いことをしているとも思っていないらしいので、本当に矯正することが本人のためなのかということを考えざるを得ません。むしろ、社会秩序のために本人の内面世界を無視するという傲慢を引き受けて矯正に臨むべきもののように思います。
少年院で少女が書いた詩だという文章は、中身は大いに大人の顔色を窺ったものですが、全くのゼロからここまでの長文を書けるようになったなら立派なことです。借り物の言葉を組み合わせてTPOに合わせるというのが書く・話す力の大部分で、自分だけの特色ある比喩や文体といったものは求められる機会の少ないオプションにすぎません。
ちなみに、言語能力が周囲から飛び抜けて高い場合にも非行に走りやすくなると私は思っています。その代表的な例が神戸児童連続殺傷事件の少年A(酒鬼薔薇聖斗)です。
第七章・第八章
第七章では私立小学校の、第八章では中学校・高校の取り組みが紹介されます。既にある程度の言語能力や自己肯定感があり高葛藤家庭出身でもない子供をさらに伸ばすにはこれでいいのですが(座学の得意な子供には少しつらい環境ですが)、実際にはこれ以前の章で紹介されたフリースクールや少年院に近い取り組みが必要な学校の方が多いのではないでしょうか?
私がVRChatで「哲学カフェ 芳紅堂」によくいることから、哲学対話についても触れるなら、哲学対話はほとんどの場合次のような仕方によって展開します。――お題の中にある語の定義を確認し合うこと、お題の中にある語から連想を広げること、お題がなぜその文言で問われているかの背景を考えること、他の参加者の出した意見が成り立たなくなる条件を探すこと、その条件のもとでも成り立つより広い一般原則を探すこと。これらは一つの言葉により多くの情報を結びつける訓練になりますし、他の人の発言に応じて解こうとする問いを変えることは自分の目の前にないことにまで考えを巡らせる想像力を鍛えることになります。加えて言えば、自分が話しているときに割り込まれないというのも言葉を使うことへの安心感を育むでしょう(あまり長々と話すなら適宜ファシリテーターが要約して他の人に話を振るべきですが)。教育としては効果的ですが、これが哲学かというと、より正確には哲学をするための基礎的な技能を訓練していると言った方がいいと思います。リアルタイムの会話は哲学的な問いのきっかけにはなっても、問いに答えようとする一貫した理論の体系やそれを表すための言葉は一人で考え抜く他ないのではないかと私は感じています。
終わりに
国語力について扱った本の感想で、一貫した流れを持った作文ではなく各章へのとりとめのないコメントばかりになるのは恐縮ですが、私は常に「汝自身を知れ」ということを指針にしているので、本書への感想も全てその指針から出たものです。人の助けを借りてでも、自分の感情や欲求を認知して表現してみること、それを人に伝えてフィードバックを得ること、その繰り返しが言葉を使う習慣とそれに必要な知識を養うのだということには全面的に同意しますし、各境遇に応じた具体的な実践例を知るためには本書は役に立つと思います。
ちなみに私は、自分の感情に向き合う機会として最も強力なものは性表現(ポルノグラフィ)を読むことだと思っています。何かを性的に欲望することの中にも、細かく見れば心理的な違いが無数にありますが、成人でもそのような違いを意識していない方は多いのではないでしょうか? しかし性にまつわる感情こそ、円滑な社会生活のために最も精確に表し分けるべきものではないでしょうか? それらを赤裸々に描いて名前までつけてくれているのが性表現です。子供が堂々とその力を利用できるようになるのはもう少し先の未来でしょうが、私はいつもそのことを考えています。
〈以上〉
