VR残虐体験は私たちの人間性を回復するか―いとよワールド群を例にして
概要:VRChatのいとよワールド群には、ユーザーの行動を強く制限し、物語性を伴った特定の動作を強制する傾向がある。これは規範に抑圧されていたユーザーの情動や身体性を回復する可能性があり、没入体験型不道徳コンテンツ一般が持つ価値の典型的な表れとみることができる。
おねがいがあります
2023年8月5日、VRChatのワールド「おすシ-DEAD SUSHI-」(作者:いとよ(ITOYO))が公開されました。ホラーを意図して作られたこのワールドには、「残虐・不愉快表現があります」という注意書きがあり、そしてユーザー自身の操作によって残虐・不愉快表現を進行させる演出があります。これについて私は思うところがありました。
VRChatは――ヘビーユーザーは決してそうは感じていませんが――サービスの形式的にはゲームです。ゲームプラットフォームであるSteamで配信されており、また「余暇」以上のものに発展するための経済性は大多数のユーザーにとってはまだありません。ひとたびVRChatをゲームとして捉えたなら、ゲームにまつわる古典的な懸念がここでも浮かび上がってくるのは明白です。
「暴力的なゲームをすると暴力的な人間になるのか?」
もちろん、事実はノーです。日本において窃盗を除いた刑法犯(窃盗を含めても)の認知件数は平成15年以降減少傾向にありますし、国ごとの犯罪統計を見ても、暴力的・性的なコンテンツの流通状況と、それに対応するとされる犯罪の認知件数の間に有意な正の相関はないと解釈できます。ましてや、コンテンツと犯罪の間の因果関係を証明することはできません。
しかし、表現を実際に規制したり子供から遠ざけたりする現場において、データがいかに無力であるか、私は知っているつもりです。家庭→議会→企業→家庭のループの中では、定量的なデータよりも「害がある“かもしれない”」という恐れを煽る物語の方が強いことは驚くに値しません。VRでは従来のゲームに比べて没入感があるので、同じ懸念がより強力に蒸し返され、法令やガイドラインによって強い規制が敷かれる可能性があります。その規制は暴力的・性的なコンテンツにとどまらず、ユーザー同士のインタラクション全般や、強く情動を動かすコンテンツ全般に及ぶこともありえます。私はそれを望みません。望まないだけでなく、規制をしない方が正義に適うと考える理由も持っています。
ですので、私はここで定性的な、その代わりに希望のある、お話をしたいと思います。VRに没入して不道徳な体験をすることに、ポジティブな意義を見出せないか。それを考える上で、いとよさんのワールド群はよい題材だと思います。
以下では、いとよワールドの傾向を簡単に分析して、それがユーザーにどのような心理的効果を及ぼすのかを考えます。そして、議論を他のワールド一般に拡張し、暴力的・性的コンテンツがVRに増えてきたときに何が起こるのかを予想します。皆さんが物理現実または仮想現実で大切に守りたいと思うものができた時に、私の考えがお役に立てば幸いです。
いとよワールドの傾向
第一、第二の傾向:閉所と能動的操作
いとよさんのアップロードされたワールドは2023年8月12日時点で11作あります。更新日の古い順に列挙しましょう。
昆虫の逆襲~Insect Cage~ (以下「昆虫」)
竹取物語~Princess KAGUYA~ (以下「竹取物語」)
仮想裁判所 (以下「裁判所」)
流鏑馬~Archer Training~ (以下「流鏑馬」)
放課後のロッカー (以下「ロッカー」)
囚人のジレンマ~Prisoner's dilemma~ (以下「囚人」)
BostonTeaParty (以下「ボストン」)
Aztec Temple~アステカの神殿~ (以下「アステカ」)
仮想山 観心寺 The Japan Temple (以下「観心寺」)
The Blender~桔梗ちゃんにミキサーで粉々にされるワールド~ (以下「ミキサー」)
おすシ-DEAD SUSHI- (以下「おすシ」)
一通り回った所感として、私はこれらのワールドには一貫した傾向があると感じています。それは、一つにはユーザーの動ける空間が極めて狭く限定されており、ワールドの提供したい体験が明確であること。もう一つは、各ワールドのテーマに関わる核心的な演出が、ユーザーの能動的な操作を要求しているということです。後で述べるように、この二つは互いに関係しています。
一つ目の、ユーザーの動ける空間が極めて狭いという傾向は、昆虫、ロッカー、ミキサー、おすシに顕著にみられます。他のワールドにしても、アステカと観心寺以外は、探索するというほどの広さ(例えばSpace Colony "Island-4"のような)を持っていません。これは手抜きと考えるべきではなく、またワールドの価値を広さや複雑さのみで測るべきでもなく、ワールドの表現したいことに集中してもらうためにあえてユーザーの自由度を絞っている、表現の一部であるはずです。例えばロッカーは、動けるスペースがないこと自体がワールドのコンセプトであることが明らかです。
二つ目の、ユーザーの能動的な操作を要求するということについては、まずそうでないワールドの例を挙げた方が分かりやすいでしょう。「Beyond A Bit - 想像のちょっと先へ」(作者:EstyOctober)では、ユーザーはパーティクルライブを再生するために最初に宝箱のボタンを押すだけです。初めてこのパーティクルライブを見るユーザーの場合、ボタンを押す時点では、どのような演出が始まるのか分かりません。
対して、例えばミキサーでは、ユーザーはミキサーのスイッチを自分で押さなければなりません。スイッチを押せばミキサーの刃が回ること、それが「桔梗ちゃんがミキサーを回して中の自分を粉々にする」という意味合いの演出であることは事前に理解できます。そして、この演出がワールドのコンセプトの核心であることもまた明らかです。このように、「ユーザーが引き金を引かなければワールドのコンセプトが完結しない」という条件には、流鏑馬、ボストン、ミキサー、おすシが該当します。観心寺はやや変則的ですが、ユーザーが申し込んだお墓によって成り立っているという意味では、該当すると言ってもいいでしょう。ロッカーはもはや何らの動作も必要とせず、二人でワールドに入った瞬間に完結します。
第三の傾向:野蛮さと物語性
つまりいとよワールドには、ユーザーの行動を強く制限する傾向と、特定の動作へと向かわせる傾向のいずれかまたは両方があります。これらはゲーム全般に共通する特徴ではありますが、いとよワールドにはさらに、これに続く第三の傾向があります。――その「特定の動作」なるものが、暴力的・不道徳的な動作に偏っており、しかも物語性を帯びた文脈の中に置かれているということです。ボストン、ミキサー、おすシが該当しますが、アステカもこれに含めるべきでしょう。
ボストンのワールドは、本来2022年12月16日に行われた「ボストン・ティーパーティー」イベントのために作られたものだといいます。同じように、アステカは2023年5月13日の「アステカの祭り」イベントのために作られたものです。ここでいとよさんは、ワールドとイベントがモデルとした歴史上の具体的な出来事を明示しています。そのため、ユーザーにはこれらのワールドの背景にある文脈を「察しない」ことは許されていません。歴史の中で、確かにこれらの野蛮な行為の主役となった人々がいたということを理解しながら、ユーザーはそれをなぞることを強制されます。
これらの野蛮な行為は、現代の目から見て嗤うべきものでしょうか。そうかもしれません。しかしいとよワールドは、それとは別の感情をユーザーに引き起こします。なぜなら、第一の特徴として挙げたように、ユーザーにはその動作を行う以外の選択肢がないからです。
「当時の人々も、他にやりようがなかったのではないか?」
これは必ずしも、より穏当な手段をとれなかった人々への哀れみのみを引き起こすわけではありません。一旦「こうするしかない」という目で事態を見、自分の身体を動かしていると、状況に適応するためか、どこか開き直りにも似た楽天的な感情が生じてくるのではないでしょうか。
例えばボストンで茶葉の木箱を次々に海に投げ入れていくと、最初は器物損壊や食べ物を粗末にすることへの罪悪感があったものが、徐々に「このような野蛮な手段をとってでも成し遂げる価値のあることに従事している」「浪費したものに見合うだけの何かを得られる気がする」「単純に楽しい」という気持ちが芽生えてきます。一つのワールドで要求される動作が一種類のみ、場合によっては一回のみであることも、高揚感や捨て鉢の感覚を生むのに寄与しているでしょう。
また、私は参加できませんでしたが「アステカの祭り」においても、事前の告知画像にあった「残虐という薄っぺらい言葉のはるかその先にある『何か』の探求を目指す」というテキストと呼応するように、残虐さへの非難とは別の感情を抱いた参加者が少なからずいたそうです。アステカの祭りでは、生贄の心臓を取り出すギミックは神官役しか操作しないことになっており、多くの参加者は市民として儀式を盛り上げるだけでしたが、この「盛り上げる」という行為が能動的な操作の代用になったはずです。
【告知】
— いとよ(バーチャル僧侶)@VRChat (@itoyo_monk) May 6, 2023
アステカ太陽暦第5の月、トシュカトルの祭りを開催します。
最高神テスカトリポカ様に、宝土蓮華さん(@RengeHoudo)をお捧げします。
祭りの詳細や参加方法、注意事項等はリプの画像をご覧ください。
※若干センシティブな内容を含むため閲覧注意#VRChat #アステカの祭り pic.twitter.com/5bAnaQcUWv
アステカの民と一番シンクロできたのは、過去の勝利を讃え今年の勝利を祈願するところで「今年も景気よく生贄捧げてバリバリ戦うぜ!」って気分に!
— ノシメ Noshimé (@Plodia_i) May 14, 2023
一方、蓮華さんが実際に心臓を抉り出されているときは一体どんな気分で見守ればいいのか気持ちが迷子に…。「頑張れー」とか適当な声援をかけたり。
昨日のぶいちゃ濃密すぎた。AI模擬裁判対話からのアステカの祭、人類の生み出してきた最先端のものから原始的なものへと遡る旅のようだった。通底する、生きるということの止むに止まれぬ叫びみたいなものを感じて、今この時代にいる幸運や、過去未来それぞれの先に果てなく伸びる営みの帯を想った。
— 小林くん/NeedForest@VRChat (@koba_in_forest) May 14, 2023
このような、秩序を逸脱したところで生じる高揚感は、社会制度や技術を整備する理性の働きに劣らず、歴史の原動力の一つではなかったでしょうか?
歴史を見る時、「他の道はなかったのだろうか」という見方がマクロな因果関係の側からの見方だとすれば、反対側に「この道に踏み込んでしまったなら、人は何を考えどう動くだろうか」というミクロな人情の側からの見方があるでしょう。現代の私たちは、物事を客観的・俯瞰的に眺めることを美徳とするあまり、人の不条理な衝動によって世界が動く側面を忘れがちです。忘れさせられている、とすら言えるかもしれません。ボストン・ティーパーティ―やアステカの祭りの参加者たちは、個々の感情がどのようなものであったにせよ、そもそもの「私たちには感情がある」ということをこそ、イベントで強く感じたのではないかと私は想像しています。
同じことが、歴史上の出来事をモデルにしたものでないミキサーやおすシにも言えます。ミキサーに閉じ込められて粉砕されるのは私を除く多くの皆さんにとって受け入れ難い体験だと思いますが、「そうするしかない」という状況でスイッチをこれ見よがしに見せられると、この状況に何とかポジティブな意味を見出そうとする思考が働くのではないでしょうか。巨大な桔梗ちゃんもその呼び水として機能します。これは皆さんがどう言い繕おうともマゾヒズムの一端であり、自分の中にそのような屈折した反応があることを知る機会としてたいへん貴重なものです。由緒ある性癖、サイズフェチ(シュリ)の世界へようこそ。
おすシはどうでしょうか。注意書きにある残虐シーンの物語上の意味がユーザーに正確に伝わるかは五分五分だと思うのですが、伝われば「しょうがないわな」とか「悪く思うな」といった免罪の言葉を唱えてギミックを操作するかもしれませんし、伝わらなければ「自分もわけが分からないんだ、こうするしかないんだ」と唱えて、やはりギミックを操作するでしょう。恐らくは、不自然に大きく振りかぶって、少しでも深刻さを軽減しようとして。
このように、やむにやまれぬ状況に置かれた人の心が、決してお行儀のよい道徳には支配されていないことを、いとよワールドは思い出させます。この観点から見れば、ここまで取り上げなかったワールドも同じ傾向に貫かれていることが分かります。昆虫はミキサーと同じマゾヒスティックなフェティシズムの系列に属しますし、裁判所は被疑者に対する嗜虐心を表に出させ、囚人は確率に賭けるやけっぱちさを要求します。ロッカーもまた、「狭いんだから仕方ない」という言い訳が人に何をさせるかを見られるワールドでしょう。竹取物語と流鏑馬も、ifのない歴史への眼差しから生まれたものだというのは、私の考えすぎでしょうか。
そして、それら全てへの罪滅ぼしとして、観心寺があります。しかし神仏に手を合わせるというのも要するに、自分にはどうすることもできないことの存在を認めることに他ならないでしょう。ミキサーのスイッチを押す瞬間の心と、観心寺にお参りする時の心は地続きです。
いとよさんはアステカの祭りの後、「次は日本版ボストンティーパーティーをする」と予告されており、モチーフとなる日本史上の出来事がいくつか予想されています。何の出来事を再現するにせよ、ボストンティーパーティーに類する出来事が日本にもあるという指摘自体が、祝祭的な衝動によって動くのが歴史の普遍的な性質であるという見方の表れであり、またそれをVRで再現するという宣言は、当事者の目線で衝動を体験することで私たちが歴史の流れの一員であることを再確認したいという願いの表れであるように私には思えます。
次回は日本史体験ワールドを予定しています。
— いとよ(バーチャル僧侶)@VRChat (@itoyo_monk) May 14, 2023
日本版ボストンティーパーティー的なものです。
ワールド単体で楽しめますが、一応記念イベントは開催する予定です。
VR残虐体験は増えるべきか
私は、人間の中にある不条理の部分、秩序やシステムに抑圧されている情動や欲望や身体性を思い出すという点で、実在の他者に危害を加えることないVR不道徳体験に大きな意義を感じています。それは現代においては、人間性を回復する行いとすら言えるものです。
それでも、このようなVRコンテンツが増えることへの懸念はあるでしょう。確かに、VRでの体験が残虐コンテンツに偏るなら、それは危険だと私も思います。情動に浸るだけでは、社会秩序とのバランスが取れないからです。しかし、実際にはそうはならないでしょう。VRには多様な趣味嗜好を持ったユーザーがおり、彼らとの関わり合いや彼らが作るコンテンツを通して、どんな趣味や欲望も数ある中の一つ、相対的なものにすぎないと知る機会があるに違いないからです。
xRの発展は「自分の見たいものだけを見る」方向に進むと予測されることが多いですが、私はこの理念が完全に達成されることはないと思います。メーカーやプラットフォームが用意したコンテンツフィルターに頼るなら、そこには他者の物の見方が必ず入ってきますし、自分で一から世界の見方を設計するとしても、そもそも人は自分の望むものを完全には把握していないからです。そのため、世界が自分の思い通りにならない、自分ではないように見えるものがいる、という不自由の感覚は決してなくなることはないはずです。
残虐コンテンツや不道徳コンテンツが増えること、それ自体には良いも悪いもありません。目指すべきは、それらが他のコンテンツと並んで対等な形で流通し、論評され、ネタにされることで、道徳的・規範的なコンテンツを相対化しながら、自らもまた相対化されていくという状況です。私たちが、人の中にロジカルな理性も言葉にならない衝動もあると知り、それらに普段から親しんでおくことができれば、必要な時に必要な方を必要な分だけ使うこともできるようになるでしょう。そして、それが新たに歴史を切り拓いていく営みの両輪になるでしょう。これはVRに限らない私の確信です。
一方で、悪影響とは別の懸念、即ち「見たくないのに見せられると不快」という意見もあります。結論から言えば、ワールド説明や入口に注意書きを書く、苦手な人を騙して連れ込まない、というマナーを浸透させる他に解決策はないのですが、これは見かけほど万々歳な解決策ではなく、またマナー以上の規則にしてしまうのは憚られるところでもあります。
その最大の理由は、意外性はエンターテインメントの重要な要素であるということです。単純な例はホラーで暗がりから何かが突然出てくることですが、他にも、例えば全く予測されていなかったところに残虐描写が始まることが、作品のテーマのために不可欠である場合があります(私は『がっこうぐらし!』を履修していないので、ここでは『魔法少女まどか☆マギカ』を挙げるに留めます)。
事前の説明と同意をどこまで徹底できるか(また、しようとしてよいか)という問題は、コンテンツ受容に限らず、近年では社会の多くの局面で浮かび上がっています。最も典型的なものが性的同意の法制化に関する議論です。2023年7月13日に施行された不同意性交等罪をめぐっては、改正慎重派から「性行為にはっきりした同意がある場合の方がむしろ珍しい」という主張がなされました。これは単に慣習としてそうなっているという以上に理由のあることです。性行為が事務的な生殖作業でなくロマンスの一環である場合、言葉や予測を超えた出来事として演出されることが期待されるからです。また、たとえ同意が取れたとしても、「同意を強要・捏造するのではないか」「同意を事後的に撤回することがまかり通るのではないか」という批判もあります。
仮に、意外性よりもユーザーの不快感の方を重く見て、残虐・不道徳描写があるワールドにはワールド説明や入口に注意書きをつけるとしましょう。これが暗黙のマナーに留まるならいいのですが、プラットフォームがこれを一律のルールとして定めると新しい問題が生じます。何が残虐で不道徳であるかをプラットフォームが決めることになるからです。その基準はプラットフォームを提供する企業のガイドラインか、その所在国の法律に従うことになります。多くの国にユーザーを持つサービスでは、ユーザーの文化とガイドラインが嚙み合わないことがあり、一国の法律や倫理観が巨大企業を通じて他国の文化活動を支配することへの懸念もあります。VR関連では、これから覇権を獲りにくるであろうMeta Horizonが実名との紐付けを要求するのか、アバターのデザインをどこまで自由にするのか、といったことが懸念されています。ホラーに関わるところでは、宗教施設をモチーフにしたワールドや、児童が被害者であるストーリー、中絶、死者の復活の扱いなども国によって温度差が異なるかもしれません。
ですので、不道徳コンテンツについては、私は無難なコンテンツと同程度にはあっていいと思いますし、そのためにはプラットフォームには寛容であってもらい、ユーザーの自治も具体的な健康被害や権利侵害がない限りは謙抑的にするのがよいと思います。もちろん、そんな理想的な状況はユーザー数の増加とともに崩壊していくのがインターネットの歴史の教訓ですが、メタバースではそれがどう変わるのでしょうか。
おわりに
ソーシャルVRに親しみのない方は、VRと聞くと綺麗な景色を見るような受け身の体験を思い浮かべることが多いようです。しかし、自分から世界に対して働きかけることができてこそ「本当にそこにいるような体験」ということができ、既にVRではある程度複雑な動作ができるようになっています。物理現実では実現できない環境に能動的に干渉する体験が人間に何をもたらすのかということについて、多くのワールド製作者、イベント主催者、そして遊びに貪欲な人たちが試行錯誤しているところです。いとよワールドもその一つだといえるでしょう。見たり空想したりすることと「する」ことの間に深い隔絶のある残虐行為だからこそ、VRで「する」ことに意味があるのだと思います。
桔梗ミキサーについてさらに2,3のこと
以下はミキサーについての私の感想の備忘録です。私が過去にツイートした内容を一部含みます。
ミキサーには、物に裂け目を入れること、それを硬質で高出力な装置で行うこと、さらにそれを誰かにやってもらう体裁を取ること、という三つの要素があります。私は、およそ性癖というものの一般理論を打ち立てたいと思っているのですが、この三つのポイントはどれも性癖の普遍的な要素です。
物に裂け目を入れることは世界の秩序を破ることで、突き詰めれば自分をそこに投げ込んで無に帰することであり、私はこれがあらゆる欲望の基礎だと考えています。電動や油圧の無慈悲な装置はその秩序侵犯の感覚をより強め、誰かにそれをやってもらえば秩序侵犯の意思さえも放棄することができます。秩序侵犯の意思さえも放棄するというのは、「自分が秩序や規範によって隠しているものをさらけ出したいが、それには相手の方から興味を持って暴いてもらう方が、迷惑をかけたり嫌われるリスクを負わずに済む」という免責の感覚だと思えば分かりやすく、これは普通のSMでも働いている欲望です。
同じ流血を伴う暴力でも、殴られるのと刃物で切られるのは感覚が違うでしょう。刃物で切られることには独特のぞくぞくする感覚があります。これは快感と呼んでも差し支えないもので、ただ命にかかわるのでそれに耽ることが生理的・社会的に阻まれているだけのものです。リストカットが典型例です。そして、誰かに見守られながらリストカットをすることには、快感や痛みを感じている姿、つまり「身体を持った私」を受け入れてもらっているという安心感があるのではないでしょうか。
ミキサーに入って美少女にスイッチを押してもらうことは、誰かに見守られながらリストカットをすることに似ていると思います。誰かを粉々にするワールドと、一人で粉々になるワールドと、美少女に粉々にされるワールドとはすべて全く異なる欲望に訴えるものです。
人をミキサーにかけるといえば、会田誠の『ジューサーミキサー』という絵が有名ですが、これは少し趣を異にしています。『ジューサーミキサー』ではミキサーの中身が多すぎるので、鑑賞者と美少女との間に一対一の投影や対峙は起きず、むしろ「美少女として描かれているものに、実は美少女である必然性がない」ということが印象的になっているように私には思えます。
言い換えると、画題選択のミスマッチ――それを実現できる唯一の位置に、ふたりの美少女が「代入」されている。日本画に約束された静謐美を痙攣させるためだけに美少女が活用される――これが少女の代用価値ということだ。
(中略)
この『ジューサーミキサー』は少女を大量殺戮する願望を描いたものなのか――違うとおもう。瞬間定着が作品の第一の眼目にあって、第二の眼目はユダヤ人大量虐殺の暗示にある。そうした着眼を実現できる位置に、やはり少女たちが無差別に「代入」されている。
とはいえ、実際に行ってみるとコライダーやBGMの関係で、想像したような「刃物」の感覚はあまりありません。しかし、大きな美少女に機械的に翻弄されるだけでも十分によろしく、後は想像力があれば楽しみを増幅できます。当のいとよさんはミキサーを「みんなでキャッキャするぐらいの狙いしかなく」と仰っていますが、これだけの性癖ミックスジュースをわざとやっているなら人が悪いし、わざとでないなら深淵を覗いている自覚がなさすぎます。私はむしろ、ここはみんなでキャッキャするより、一人で入って瞑想でもするのに適したワールドだと思います。
私はみんなでキャッキャするぐらいの狙いしかなく、「えっち」という感想はいまいち?でしたが、そういう見方があるのかぁと
— いとよ(バーチャル僧侶)@VRChat (@itoyo_monk) July 16, 2023
部分的には上でも述べましたが、桔梗ちゃんにミキサーに粉々にされるワールドと銘打っていながら、スイッチは自分で押さなければならないというのも業の深いポイントです。スイッチを押す瞬間、ユーザーは粉々にされる肉であり、同時に粉々にする桔梗ちゃんでもあるという重ね合わせ状態になります。スイッチを押すまでの過程で、「粉々にされちゃう」という立場通りの視点と「粉々にしてやろう」という俯瞰視点の間を超高速で往復し、押した瞬間に全ての緊張が虚脱の笑いへと変わります。押す前の過程はマゾヒズムとサディズムが同居している過程と呼ぶこともでき、実はこの二つが紙一重であることに気づかせるものです。

ちなみに、ミキサーの内壁ギリギリに立って内側を向きOVRで姿勢を下げると、下半身がミキサーの外に出て体が刃に接触しなくなり、スイッチを押しても生存できるようになります。もう一回遊べますね。今度は桔梗ちゃんが念入りにミキサーをトントンして、中身に偏りがないようにしてから、もう一度スイッチを押すところを想像して楽しみましょう。
OVRで視点だけミキサーの外に脱出して、桔梗ちゃんを下から眺めたり家の外に出たりすることもできます。ですが、桔梗ちゃんに見つからないように気をつけてください。アバターから抜け出した魂の状態で捕まることが何を意味するか、お分かりですよね。
〈以上〉
