繁体中文版『VTuber學』の感想
2024年9月に発売された書籍『VTuber学』(岡本健、山野弘樹、吉川慧編著)の繁体中国語版(葉門訳)が、2026年7月9日に台湾で出版されました。本記事はその一部を紹介するものです。台湾の動向の把握、中国語圏への発信、中国語の学習などのお役に立てば幸いです。
原書『VTuber学』についての私の感想は以下の記事にあります。
本記事中の漢字の字体については、繁体中文のフォントを正確に反映していないものがあります。ご了承ください。
なお、中国語学習者の方におかれましては、以下のサイトで漢字の語句や文章を入力すると、発音(ピンイン・四声)を文章単位で調べることができます。
繁体中文版の冒頭には、日本語版編著の岡本健さんの繁体中文版に寄せたコメント、國立清華大學台灣文學所副教授(准教授に相当)の王威智さんの解説、バーチャルカルチャーを扱うメディアのVchavchaによる推薦文、台湾のVTuberの悠白さんによる推薦文が収録されています。
それ以降の内容は基本的に日本語版と同じですので、ここでは私の特に関心のある話題、すなわち人と美少女が取り結ぶ関係の実情、すなわちバ美肉、すなわち第4章(バーチャル美少女ねむさん)・第7章(リュドミラ・ブレディキナさん)・第8章(池山草馬さん)に限定して、その中でも諸概念がどう中国語に訳されているかを中心に紹介したいと思います。
ただし、巻末の索引にはVTuberや団体の名前について、繁体中文訳と日本語が併記されていますので、これを見るだけでも楽しいです。
他の部分についてのご要望がもしあれば、引用箇所が大量でない限りはこの記事に追記する形で紹介できるかと思いますので、私までご連絡ください。
那個――,嗯――看得到我嗎?
嗯――,大家聽得到嗎?
初次見面,我的名字是絆愛!
請多多指教!
覺得「怎麼和一般YouTuber不一樣?」的你!
你很敏鋭喔!
繁體版序(岡本健)
原書の『VTuber学』が2024年に日本で出版されてからの出来事に触れています。すなわち、キズナアイさんの復活、VTuber市場の拡大、個人勢の増加、クリエイター経済の伸長、岡本さんが2025年に京大文学部で担当されたVTuberの講義、儒烏風亭らでんさん(多くの箇所で「儒風亭」と綴られていますが)が2026年に台湾のOU-EN CAFEと国立海洋科技博物館とコラボされたこと、岡本さんが2026年に台湾の研究会のACGCT2025でVTuberの研究を発表されて本書の推薦者の一人の王威智さんと知り合ったこと、が述べられています。
導讀 皮與魂之間:閲讀《VTuber學》(王威智)
「解説 ガワと魂の間:《VTuber學》を読む」とでも訳すべきものです。VTuberは中国語圏でも既によく観られているものの、学術的な議論はまだほとんどなされていないと述べた後で、各章の内容を要約して紹介しています。
その後、一般の読者にとって身近な切り口であるアイデンティティとジェンダーについて述べている章(ねむさん・ミラさん・関根さん・草野さん)をまとめて紹介し、第3部の理論編を概観してから、本書が「VTuberとはこういうものだ」と断言する性格のものではないこと、およびVTuber文化の記録としても機能していることを評価しています。なお、ここでは「他」と「她」が私たちから見て正しく使い分けられています。
最後に、日本の状況を扱った学術書が中国語圏の読者にとって持つ意義について述べています。本書で挙げられている事例(にじさんじ、ホロライブ、バ美肉、VRChat)は日本のものでも、研究の方法論と哲学的分析は普遍的であり、台湾のような他の地域のVTuber文化を研究するための出発点としてふさわしい、と主張しています。本書がカバーしていない台湾独自の事情として、転生や卒業が話題になりやすいこと(本書の篠崎さんや本間さんの論考はこの問題を論じきれていない、と評しています)、(日本の?)VTuberの模倣、そして台湾ローカルのVTuberやプラットフォームを挙げています。
推薦序 歡迎來到無所不在的VTuber超人氣時代!(Vchavcha)
直訳すると「推薦者によるまえがき 至るところでVTuberが超人気な時代へようこそ!」となるでしょうか。
台湾でもVTuberが人気であり、本書が多角的な視点からVTuberに光を当てていることを述べて、VTuber文化を「日本のインターネット文化の総結節点」と呼んでいます。また、本書がメタバースにかなりの紙幅を割いていることに注目し、誰もがアバターを通して自分の考えや才能を表現できる世界を「『超時空輝耀姫!』のような美しい世界」と呼んでもいます。
そして、Vchavchaがバーチャルエンターテインメントのセルフメディア(個人メディアというくらいの意味?)としてVTuber市場に注目しており、設立から二年で大手企業の海外進出、業界を跨いだコラボレーション、ビジネスモデルの革新、個人勢や小規模スタジオによる制作、卒業、企業の解散などを見てきたと語ります。最後に、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を引いて、VTuberの世界も同じだと述べています。
この世界はあまりに新しく、多くのものがまだ名前を持たず、代わりに指差さねばならなかった。
推薦序 VTuber通識課本格派概論書(悠白)
「推薦者によるまえがき VTuberの一般教養課程のための本格派概論書」です。本書第1部を歴史編とみなし、特に第2章(吉川さん)をVTuber団体の運営者に向けて、第4章(ねむさん)を「自分の心境や考え方が色々な面で変わってきたように感じるが、これはおかしなことだろうか?」「自分の思ったような道を歩けているだろうか?」と悩むVTuberに向けて薦めています。分人主義に寄せて、悠白さん自身の実感として、「このバーチャル世界では一つ一つの側面が全て自分であり、それぞれ異なる顔をファンは愛してくれている」という実感があると述べています。
第2部の研究編では、特に第5章(岡本さん)と第6章(関根さん)に共感し、ジェンダー論の観点からの批判のような問題を提起するものとして高く評価しているようです。
第3部の理論編については、「身体と魂」モデルがバーチャルカルチャーにも適用できること、物語アイデンティティがバーチャルカルチャーの興味深い側面であることを述べています。
第4章 當全部都成為V 解放人類靈魂的VTuber現象(虛擬美少女Nem)
以降は、繁体中文訳に伴って現れた面白い言い回しや原書からのニュアンスのずれを紹介することにします。ルビは特に断りのない限り日本語版原文の当該箇所からの引用です。
台湾の通販書店である博客來の商品紹介文では、第4章のタイトルと著者名は「一切都往虛擬前進——現役VTuber的現場觀察/虛擬美少女涅姆」となっています。中文訳が確定する前の暫定的な情報がそのまま掲載されているのかもしれません。名前の「涅」は個人の解体と解釈すればねむさんの活動に合わなくもないですが、「姆」は少し落ち着きがありすぎるような気もします。
本書全体を通じて、日本語の書籍やwebサイトを出典として参照している箇所では、その出典の日本語タイトル(『メタバース進化論』など)が中国語訳されずそのまま表記されています。日本語版(電子版)では章の最後にまとめられている註は、繁体中文版では各註のついたページの下に配置されています。
1 現實終結,V甦醒
「你是誰……?」
虛擬化身。顕示在我眼前螢幕上的,是一名動畫風格的黑髮年幼美少女。
變聲器/音高/共振峰
「我是……Nem……」
2 確立「虛擬創作者」概念的代表人物
この節タイトルは直訳すると「『バーチャルクリエイター』の概念を確立した代表的な人物」です。
VTuber的三項定義
虛擬化身活動:利用虛擬化身技術,以虛擬角色進行影片,直播或圖片等内容發布。(如後文所述,我認為没有必要將活動平台限定在YouTube來進行討論)
互動性:透過直播或社群平台(多是透過X〔舊稱推特〕)等以虛擬化身身分與觀眾進行雙向交流。
自我同一性:以統一的角色設定和名稱持續活動,並非以中之人(聲優),而是以虛擬角色如同真實存在般運作。
このVTuber3要件は少し長いですが、単なる実在の人間にかぶせるガワではない日本の(バーチャル美少女派の)VTuber観が中国語圏に輸出された記念すべき瞬間ですので紹介します。
3 世界上最早的個人勢VTuber眼中的「VTuber熱潮」
虛擬YouTuber精選合集
虛擬YouTuber界的最終頭目
虛擬口癖蘿莉狐YouTuber大叔(「のじゃ」の表現は無理でしたか……)
「這世道太艱難了啊――!」
被掐住脖子的哈姆太郎/Strong Zero擬人化/巴恰魯
hololive/彩虹社
この節で引用されている、圖表4.2の「草創期的虛擬VTuber人氣排行榜」の画像の中の日本語は全て中国語訳されずに原書のまま掲載されています。
4 「VTuber」這個詞的確立,使V走向普及化
太初有道,道與神同在,道就是神。
これは「中文標準譯本」版の新約聖書の約翰福音の冒頭からの引用です。ギリシャ語のλόγος、ラテン語のVerbumを、日本の新共同訳では「言」と訳していますが、この中文標準譯本では「道」と訳しています。日本でも中国語版の影響を受けて「道」と訳されていた時期があり、より古くは「カシコキモノ」と訳されていたようです。ここでの「道」は、道教のタオではなく今日一般に言う意味での「道理」を擬人化したものと解釈するのがより適切だと思います。
(参考: https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/2008248/files/nagujj_76_144.pdf )
さはな/みゅみゅ(Nemだけは英語にするように申し入れたのでしょうか?)
世界最古老的個人系虛擬YouTuber
5 雙頭普羅透斯效應
6 「元宇宙」,V們所居住的世界
可以度過人生的虛擬空間/也就是各位所生活,受物理法則支配的既有現實世界
圖表4.3 元宇宙定義七要件
空間性:具有三次元延展性的世界。
自我同一性:能以投射自身認同,獨一無二且自由的化身姿態存在的世界。
大規模同時連線性:大量使用者能够即時聚集於同一場所的世界。
創造性:不僅由平台提供内容,使用者也能自由帯入或創造内容的世界。
經濟性:使用者之間可以交換内容,服務與金錢,並能如同現實一般進行經濟活動並維持生活的世界。
存取性:可依目的選擇智慧型手機、電脳、AR/VR等最適合的存取方式,使物理現實與虛擬現實無縫連結的世界。
沉浸性:提供AR/VR等沉浸手段,使人能够獲得彷彿實際身處該世界般的沉浸感與充實體驗。
このメタバース7要件も、日本美少女界隈が東アジアのバーチャル文化のイニシアチブをとるにあたり記念すべき一歩ですので全文を紹介しました。個人的にはその次の図表、「圖表4.4 以多樣化身度過人生的VTuber與元宇宙居民――VRChat」も、よく見る方たちが一挙に台湾にお出しされた瞬間で感慨深いです。
バーチャルキャスト/VR頭盔
7 元宇宙居民的身分認同――根據≪社交VR生活型態調査≫
この節で紹介されているソーシャルVRライフスタイル調査2023の集計結果の図表は、図中の日本語が全て中国語に翻訳されています。
幻覺感知Nem/帆立優希/麥納爾
無論男女多是使用女性型虛擬化身
亞人類/雙聲類
8 將身分認同「角色扮演化」
以理想中的自己活下去/想成為的自己
分人:我,究竟是什麼?
9 來自新世界
この節ではありませんが、巻末の執筆者紹介によれば、虛擬美少女奇點/元宇宙進化論です。
第7章 傾聽當事者的聲音 針對「八美肉」實踐者的問巻及訪談調査(柳徳米拉・布列季基納)
まず目を引くのは「八美肉」でしょう。スラングとして短縮された形を維持した上で、「バーチャル」部分は意味よりも音と字面を再現することを優先し、「美肉」は字面で意味が伝わると期待しての、よいバランスだと思います。
1 「八美肉」的研究
八美肉:虛擬表演背後的事物――透過科技與日本戲劇對性別規範的對抗
反串(日本語通り「異性装」表記の箇所も)
2 線上社群的調査方法
受訪者
「想成為美少女」的欲望
厚實描述
3 預備性田野調査
4 倫理考量的必要性
渉及敏感議題
知情同意/暱稱
5 進行問巻調査
顕示八美肉實踐者並非正面對抗性別規範,而是以某種方式暫時「巧妙回避」社會所期待的覇權男性氣質
この文の後半は直訳すると、「ある種の方法によって~うまく避けることを示すことができた」になると思います。
滾雪球抽樣法
この節の最後の文の「質問項目に問題がないか、調査のプロセスが上手くいっているかに気を配りながら」の部分はほぼ中国語に訳出されていません。
6 後續訪談
半結構化訪談
例如,筆者相當希望能針對試圖完全體現虛擬美少女角色的個人進行提問。
7 問巻調査與訪談調査的功能
關於元宇宙中的騒擾調査
元宇宙原生世代
成為虛擬小可愛――日本的數位異性装
「バーチャルキューティー」は私たちからすると違和感のある言葉ですが、これは英語の論文の原題が「Becoming a Virtual Cutie」なので、やむを得ません。
李克特量表
我無法將自己作為虛擬美少女的一面告訴家人或朋友
由此,我們得以従量化角度證明「成為美少女能帯來個人満足感」這一假設。(改めて読むとパワーワードですね……)
成為虛擬美少女如何影響自我認知
成為美少女,同時也可能是一種逃避社會對男性期待義務的理由。
8 結語
筆者研究八美肉的特點在於其西方人、女性,以及採取女性主義觀點。此外,筆者亦為喜女性萌系角色與中世男性角色的御宅族。
二番目の文は直訳すると「女性の~中性的な~を愛好するオタクでもある」となるでしょう。台湾では2025年に『推活讓世界更寬廣!』という語学本が出ているので、「推し」の概念がないわけではないと思うのですが……。
高度女性化的辣妹風格(個人的に本記事最大のパワーワード)
筆者對VTuber與八美肉的看方,與部分強烈批判的女性主義者不同。
第8章 交織重疊的虛擬化身們 VRChat中的虛擬分身/使用者關係之面向(池山草馬)
1 前言
甲賀流忍者!ぽんぽこ與花生君所打造的「PokoPeaLand」
野良貓(じゃあ、「ノラネコP」はどう表記するの……?)(別の箇所では「野貓」)
2 虛擬世界的定義與發展歴程
哈比塔特/子午線59/網路創世記/魔獸世界/模擬市民線上版/第二人生/ROBLOX/要塞英雄/Rec Room
3 虛擬世界與虛擬化身的先行研究
在社交VR研究中,關於化身的討論往往過度集中於透過化身進行的自我表達與自我建構,同時也容易落入技術決定論的框架。
可能將人們在各個虛擬世界中生活與實踐所形性的多樣經驗,簡化並還原為技術或系統設計問題。
這些研究皆指出,試圖將透過角色或媒介進行互動的主體,還原為「人」來理解的傾向,具有危險性。
なお、この註13で言及されている松浦(2022)の二次元セクシュアリティ研究は台湾大学のオタク研究会を通して既に台湾に紹介されています。
4 VRChat、推特、Discord中的參與觀察與訪談
5 VRChat中的虛擬化身經驗樣貌
虛擬實境感覺/幻肢感
化身本身似乎擁有與使用者分離的自身名稱。
龍膽/薄荷醤
當彼此尚未熟識,也就是不清楚可以談到多深入的情況下,與對方之間最「安全」的話題,往往就是關於化身的内容。(「清楚」の正しい使い方)
這個化身好可愛呢
化身聚會
この節で紹介されている、「圖表8.1 性格很差的薄荷醤 第④話」の画像中の台詞は日本語のままです。
香草市集
量産型野貓(通稱「量産貓」)
經過自己改造的「量産貓」,是他使用時間最長,也最有熟悉感的化身。
網路迷因/生命光輝集會
多邊形數量/Quest相容性/嵌合型虛擬化身
「圖表8.3 VRChat中虛擬形象透過與多元行動者連結,變形並跨越平台所構成之「生命週期」流程」の画像中のテキストは全て繁体中文に翻訳されています。
6 虛擬化身與使用者的關係
也就是説,虛擬化身對使用者而言,一方面是作為自我與身體的延伸,同時又是不可被完全還原為自我的創作物,並且也是在集體互動中逐漸被賦与人格的角色。
但若仍可能形成類似「另一個自我」般的身分建構,那麼這樣的生成究竟依賴何種條件?
感想
本記事で見た範囲では、対応する概念が中国語圏にないなどの理由で訳せなかったり、詳細な追加説明を必要としたりする箇所はないようでした。参考文献や固有名詞が原語そのままになっている箇所も多く、必要とあらば外来の言葉を漢字化せずそのまま受け入れることはできるのだと思います(これは必ずしも柔軟性を意味しないのですが)。ただし、第1章では「ゆっくりボイス」を説明するのを諦めて「扁平緩慢的合成音」としている箇所があります。
細かい点ですが、本書に一貫して現れる「虛擬」という言葉、これの字義は「にせ」ではなく「虚構+模擬」なのですが、日本語でいう「バーチャル」と「仮想」の両方にこれが使われています。「virtualは『仮想』か『実質』か?」という論争も、外来の技術としての「バーチャル」と自国に取り込んだ思考様式としての「仮想」(そして、さらに新しい世代の地生えの文化としての「V」)の使い分けも、中国語圏では起きていないのかもしれません。
訳しづらい箇所を本当に探したいと思うなら、むしろ第3部(理論編)で挙げられているような実験的事例の記述の訳し方を見るべきでしょう。また、論証の流れを見ることで、バーチャルカルチャーに留まらない言語の構造や思考の流れの違いを推し量ることもできるかもしれません。
次は、これらの議論が中国語圏の一般の読者にどう受け止められるかを調べる番だと思います。本の奥付には新台湾元と共に香港ドルの価格も書かれており、香港でも販売されている可能性があります。
私の印象では、台湾では「美少女にでもならなければやってられない」という感覚は日本ほど切実なものとして広まっておらず、特にボイスチェンジャーの使用者を見かけたことはありません(ただし男の娘にあたる「偽娘」の概念はあります)。これには住宅事情やプライバシーの感覚の違いも関わっているかもしれません。Twitterがあまり普及していないため、「現場の声」は主にBBSで交わされているようで、正確な状況を知るのが難しいところです。同じ理由により本の宣伝も日本のようにはいかないでしょう。
とはいえ、岡本さんから渡りがついて出版にこぎつけたのは喜ばしいことだと思います。それ以前にねむさんが出版社に打診しなかったはずはないのですが、結局は地道に現地と交流していくのが突破口になるのでしょう。これを足掛かりに日本的美少女観を、コンテンツだけでなくそこに込められた心も併せて輸出していきたいと私は思っています。
〈以上〉
