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音大生がイラストレーターになるまで

こんにちは、桜田です。今日は僕の経歴について少しお話しようかなと思います。

現在、僕はイラストレーターとして活動しています。絵を描く以外にもありがたいことにトークショーやサイン会を開催していただいたこともあるのですが、その際に掲載するプロフィールで僕の出身大学についてよく突っ込まれます。

僕は大阪芸術大学というところの出身なのですが、在籍していたのは美術やデザインの学科ではなく音楽学科なんですよね。作曲を学ぶような学科にいました。なので「音楽されてたんですか?」と言うことをよく聞かれます。そんなこともありまして今回は僕がそこからどういう経緯でイラストレーターになったのか、ざーっくりですがお話していこうと思います。


1.そもそもミュージシャンになりたかった

『芸術』という分野で一番最初に惹かれたのは音楽です。母がピアノの先生だったので幼少の頃からやらされているという感覚でピアノを習っていたのですが中3の頃にMr.Childrenに衝撃を受けて作詞作曲をしたいと思うようになります。当時、中二病の真っただ中にいた僕に桜井和寿の描く孤独とか再生とか愛とか生きる意味みたいなのがぶっ刺さります。そこから「芸術ってすげー!」となるわけです。ここで初めて自分から音楽をやりたいと思いました。ちなみに活動スタイルはピアノの弾き語りです。文化祭では友達とコブクロやスキマスイッチの歌をよく歌っていました。

ピアノ教室だったので自宅にグランドピアノがありました。
当時なんとも思ってなかったのですが今思うとすごい役得だなと思います。


2.絵は浪人中(18歳)から描き始めた

では絵はいつから始めたのかというと浪人している時です。僕は高校を卒業して大学に入るまで一浪しています。母はピアノの先生でもあるのですがマンガとアニメとタカラヅカが好きな結構なオタクだったのでその影響を受けまくって僕も結構なオタクでした。そういうこともあって絵は以前より描いてみたいと思っていたんですよね。浪人中は予備校に行ったりはせずにバイトしながら創作をするという自由な生活をしていたため、わりと時間もあったのでこのタイミングで絵を描き始めることにしました。

かくいう僕も一時期タカラヅカにハマってました。
雪組の男役が集まるAQUA5というグループが好きでした。

3.大学在学中は創作に没頭する

その後、無事に大学に合格します。大学の4年間はずっと何かしら作品を作っていたように思います。音楽に関してはオーディション受けたりデモテープを送ったりして、古本屋でバイトしている最中に出会った重松清の「流星ワゴン」を読んで小説を書きたくなり大学の文芸サークルに入ったりもしてました。作った音楽や小説はコミケやコミティアなどの同人即売会で発表していたのですが、絵があった方が売れたので下手なりに自分で絵も描いていました。大学は中学高校の時と違って周りがみんな何かしら作品を作る人ばっかりだったので友達同士で作っては見せては評価し合うみたいなことをずっとやってましたね。今思ってもとても充実した楽しい時間でした。

当時所属していた文芸サークルで作ってた部誌
音楽と絵と言葉が集まったような作品なんかも作ってました。
ポストカードの裏側にポエムがついている仕様です。


4.卒業間近で新海監督にハマる

大学4年の時に結構な失恋をしたのですがその時に見た秒速5センチメートルに心を射抜かれて新海監督にハマります。あの美しい世界を自分でも描いてみたい!こんな作品を自分でも作ってみたい!と強く思いました。この時期から絵の比重が活動の割合として大きくなったと思います。

新海作品は絵だけでなくデザインも好きで、それからというものグッズも買い漁っています。
「君の名は。」以降関連商品がめちゃ増えたのは嬉しい限りです。
デジタルとアナログの両方をやっていたのですが、デジタルで背景を描くスタイルになります
ちなみに当時描いてたアナログはこんな感じ。
キャラが中心で色鉛筆とか透明水彩を使ってました


5.大学卒業後、音楽をあきらめる

イラスト一本に活動を絞ったのは大学卒業後です。まず直面したのがお金の問題でした。在学中は練習室や機材など無料で使えるものが多かったのですが、卒業後はそれらも使えず、大阪市内でアルバイトしながら一人暮らしをしていました。壁が薄いアパートに住んでいたので自室で歌の練習もできなくてですね……カラオケやスタジオに行ってたのですがお金がかかるようになったでそこまで活動に重きを置けなくなってきたというのが理由のひとつです。あとは何よりオーディションなどの成果が出てないというのが現実でした。個人的な目標として20代前半ぐらいでデビューとまではいかなくても箸か棒ぐらいには引っかかっておきたかったのですが、そんなこともなくだんだんとフェードアウトしていった……という感じです。

6.どうしても書けない長編小説

そういう意味では絵と小説はまだ金銭的にもリーズナブルだし音もでなかったので壁の薄いアパートでも続けることができました。バイト先が印刷会社ということもあったので、かなり安くコピー本が作れたので月1回とかのペースで新刊を作って何らかしらの同人即売会に出ていました。バイトは13時~22時のシフトで入っていたので創作は夜中から朝にしていました。オールナイトニッポンを聞きながら作業するのが楽しかったです。

在学中~卒業して少しぐらいの間に作った作品

ただ小説に関しては長いお話がどうしても書けなかったんですよね。長編の新人賞って大体10万字ぐらいが応募の目安になるのですが、僕の場合書けて5万字とかだったので同人誌は作れても出版社の新人賞に応募することはできなかったんですよね。仮にもし10万字の作品が書けて運よくデビュー出来て売れたとしても、そこからそのレベルの作品を何作も作り続けなければいけない……みたいなことを考えると自分ではとても無理だと思ったのでその道も一旦諦めることにしました。

今は装画という形で小説に携わらせていただくことが多いのですが作家の先生方は本当にすごいなと思います。

7.絵だけはどんどん描けた

残った絵なのですがこれはどんどん描けました。こんな絵が描きたいという意欲が常にあったので、ずっと描いていたと思います。当時はPixivが全盛期だったということもあって投稿してからすぐ反応が見えるといったこともモチベーションに繋がったのだと思います。そんな感じでイラストの活動に一本化していったという感じです。

この絵は当時200位とかでPixivのランキングに入っていました。
嬉しかったのを覚えていますー。
この絵もランキングに入ってました。
当時から夜の絵は受けがよかったこともありよく描いていました。
ランキングには入っていませんでしたが、気に入っている絵です。
同人即売会ではポスターにもよく使っていました。


ここから商業デビューするまでまだ10年ぐらいあるのですが、こんな感じで音大出身の僕はイラストレーターを目指していきます。簡単にいうと描く意欲があって続けられそうな見込みがあったので残ったということだと思います。ただこのイラストでさえもプロになるのは一回諦めて会社員として生きていこうと思っていた時期もあるので、今こうして専業のイラストレーターとして活動出来ていると思うと感慨深いなと思うわけです。

8.結局、やりたがりなだけなのだと思う

こうして振り返ってみると自分は影響を受けやすいタイプなんだと思いますね。ミスチル聞いて音楽やって、重松先生見て小説書いて、新海監督見て絵を描くとか(そもそも母の影響を受けまくっているようにも思う)。色々出来てすごいですね、みたいなのも言われるのですが結局のところ、やりたがりなだけなんだと思います。

結果が出る出ないは確かにあったのですが、それでも作品を作ることは自体はどれも楽しいです。今でも同人誌という形で自分でお話を書いて文学フリマで売ったりしていますし、昨年新しくシンセサイザーも買ったのでまた音楽もやっていきたいなと思っています。

文フリでは短編小説も書いています
楽器は長い間持ってなかったのですが昨年シンセサイザーを買いました


ただ表現の方法は違えど、その根本の部分は音楽をやってた頃からあまり変わらないとも思います。ミスチルにしても重松先生にしても新海監督にしても共通して感じたのが孤独や寂しさ、再生、そして優しさだと思っていて、そういう作品にどうしようもなく惹かれてしまうんですよね。僕の作品がみなさんにどう思っていただけているかはわからないのですが、僕としてはそういうものを表現出来たらなと思って今後とも作品を作ってけたらと思います。

というわけで音大生がイラストレーターになるまでの経緯でした。今回はいつもよりだいぶ長かったのですが、最後まで読んでくださってありがとうございました!

出身校の大阪芸術大学とは音楽学科卒業生の
イラストレーターとしてとりあげてもらいました!

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