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感動・感激を失った瞬間から、人は老いる

 目の前で明らかに喜ばしい出来事が起きているにもかかわらず、当人からほとんど反応が返ってこない。こちらが言葉を投げかけ、ようやく戻ってくるのが「はあ、嬉しく思いました」の一言だけとなれば、むしろ聞かされた側の方が気まずさを覚えてしまう。感動や感激が薄れている状態とは、すなわち精神的老化が進行している証左にほかならない。

 後期高齢者で持病を抱えている人であれば、それもやむを得ない事情と言える。しかし、還暦前後でなお現役として仕事をしている人間が、この程度の反応しか示せないとなると、事態は深刻である。思考が停止しているのではないかと、むしろ心配になる。

 若者が一つの成果に対して歓声を上げ、全身で喜びを表現するのは自然なことである。ところが大人になると、「はしゃぐのは恥ずかしい」「騒ぐのはみっともない」といった妙な自制が働き始める。その時点で、すでに老化への入り口に足を踏み入れていると言ってよい。「感動・感激規制法」など、どこにも存在しないにもかかわらず、である。

 なぜ一部の人は、目の前の素晴らしい出来事を素直に受け止め、喜びを表現できなくなるのか。老化が進むと、まず顔の表情が硬直し、喜怒哀楽のグラデーションが乏しくなる。さらに進行すれば、身体の動きまでもがぎこちなくなっていく。

 祖父や父が後期高齢者となった頃を思い返すと、二人とも趣味に富み、思考は驚くほど柔軟で、日々を活動的に過ごしていた。喜怒哀楽も明確で、「老い」という言葉が似つかわしくないほど、生き生きとしていた。

 そのDNAを受け継いでいるせいか、筆者自身も心身ともに若いつもりでいるが、老化を意識する以前に、持病もなく、日々活力をもって仕事に向き合うことこそが、若さを保つ最大のカンフル剤であると考えている。

 「はあ、嬉しく思いました。」では、あまりにも味気ない。何のために仕事をしているのか。その成果として素晴らしい出来事が目の前に現れたのであれば、素直に喜べばよい。それができないのは、いったい何が原因なのか。

 結論は明白である。諄いようだが、それは老化である。しかも後期高齢者ではなく、まだ十分に若いにもかかわらず、そのような言動を取るのであれば、生きる楽しさはどこにあるのかと問い直したくなる。周囲が喜びに包まれている中で、本人の表情だけが動かない。その姿は、思考停止状態に陥っていると見なされても仕方がない。

 畢竟、年齢を重ね熟年となっても、表情だけは失ってはならない。特に愉快な瞬間における満面の笑みは、自らの生命力の証でもある。自分のリアクションを第三者の目で確認することはできないからこそ、日常的にモチベーションを高く保つ姿勢が、結果としてアンチエイジングにつながるのである。

 仏頂面を見て、愉快になる人などいない。その面構えは、世のため人のためにも、早々に改めた方が賢明であろう。

 最後に触れておきたいことがある。昨年、米海軍の空母上、トランプ大統領の横で飛び上がって喜びを表した高市総理の姿が、強く印象に残っている。「日本の政治家として恥ずかしい」「やりすぎだ」「みっともない」といった批判の声も少なくなかった。

 しかし、それこそが「老化」の典型的な評価レベルではないかと、筆者は考える。推察の域を出ないものの、米国の国民性を十分に理解した上での、高市総理のパフォーマンスであり、それは欧米諸国の人々には好意的に受け止められたに違いない。それを頭ごなしに誹謗中傷し、揶揄の言葉を投げる人間は、すでに老化に足を突っ込んでいるとしか思えないのである。

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