言葉の重みが、人間の格を映し出す
人と会話を重ねる中で、筆者のセンサーが最も敏感に反応するのが「言葉の重み」である。語彙の多寡でも、雄弁さでもない。発せられた一言が、どれほど思考と配慮を伴っているか。その一点に、人柄は如実に表れる。
たとえば、静岡に住む親友とのメールや電話のやり取りでは、常に最短・最速・最適の言葉が返ってくる。そこにあるのは自論の披瀝ではなく、相手の立場を踏まえた熟慮の痕跡である。だからこそ、その言葉には密度があり、他者とは一線を画す「重み」が宿る。
一方で、誰とは言わないが、会話を終えた瞬間に「無味乾燥」という四文字だけが残る人物も少なくない。言葉が軽く、自然体を欠き、演出過多の自論展開に酔っている様は、稚拙としか言いようがない。
前者は、第三者の誹謗や揶揄に話題を逸らすことはない。今この瞬間に向き合っている相手との対話を尊び、二者間の言葉の往復に集中している。対して後者は、根拠の曖昧な噂話や他人事を持ち出し、聞き手を疲弊させる。内容は散漫で、責任の所在も不明確である。
興味深いのは、大衆受けするのが後者である点だ。耳障りの良い言葉を連発し、場を取り繕う術に長けているため、迎合する人は多い。だが、軽い言葉に引き寄せられる者が、同様に軽い言葉を発するのは必然である。ゆえに「烏合の衆」と揶揄されるのであろう。
実際、後者と交わした約束が守られた試しは一度もない。反故にする際の常套句は、「その時はそう思ったが」である。無責任な約束を正当化する言い逃れが常態化しており、そこに言葉への覚悟は微塵も感じられない。その繰り返しの末、筆者は対話の価値なしと判断するのだ。今や、スマホの向こうに浮かぶのは、薄笑いを浮かべた軽薄な表情だけである。
そのような人物が、某団体の理事長を務めている現実には、失笑を禁じ得ない。「なるほど、その程度か」という評価に尽きる。言葉の軽い者を長に据えれば、後進もまた右へ倣えで同じ轍を踏む。悪循環が断ち切られぬのは、「言葉の軽さ」を武器とする人物が、それだけ多いという証左であろうかと。
一度きりの人生において、関わるべきは「言葉の重み」を備えた人格者である。裏表のある猫撫で声と、責任を伴わぬ軽い言葉の持ち主は、どこにでも存在する。しかしながら、こちらから接点を持つ理由は、どこにもない。


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