読書嫌いの者が書く本
※カバー画像は、DALL-Eで生成したもの
幼い頃を思い返すと、父が「日本文学全集」や「世界文学全集」といった全巻を揃えて書棚に置いてくれたことを覚えている。小学校にも図書館があり、多くの本が並んでいた光景も蘇る。
しかし当時の筆者は、剣道や野球、幼友達との遊びに夢中で、分厚い本を手に取って読みふけることは皆無であった。
一応、人並みに文豪の作品をかじった経験はあるものの、正直なところ、一瞬で結末に至る「紙芝居」の方がよほど楽しかった。絵が一枚ごとに変わるたび、次の展開をハラハラドキドキしながら見入ったものである。
そんな読書嫌いの筆者が、今になってエッセイやコラムを書き綴っている。何とも不思議な感覚だが、なぜ文豪の作品を読んでも心を打たれなかったのだろうか。
もちろん、文豪の作品の多くは言葉の選び方や流れが卓越しており、人間の知が凝縮されているに違いない。だが、筆者にはどうにも響かなかった。江戸川乱歩や菊池寛、遠藤周作などの作品には興味を持ったが、造語の天才と称される夏目漱石の作品には心を揺さぶられるものがなかった。芥川龍之介についても、有名作以外にはなかなか気が向かなかった。結局、体を動かして一日を終えることの方が性に合っていたのである。
中学一年のとき、当時まだ若かった検事の方から、転勤前にフョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』を贈られたことがある。その方は後に検事長を経て、最高検から最高裁判事にまで昇りつめた人物だった。
育ちというものは恐ろしいもので、親が将来を思って示してくれた道や、大先輩が期待を込めて言葉をかけてくれた意味は、後になって初めて理解できることが多い。あのときの「この本を読んで、立派な検事になってほしい」という言葉の重みを、今ようやく噛み締めている。
人の真似が嫌いで、常に我流で走ってきた筆者だが、振り返って気づくのは、相当に我儘に育ってきたという事実である。過去の出来事を思い浮かべるたび、苦笑せざるを得ない。
親を亡くして初めて、その偉大さに気づく。凡人の極みとも言える筆者の思考回路。父との会話は極めて少なかった幼少期。今思えば、当時の「日本文学全集」や「世界文学全集」、さらには大百科事典まで読み切っていれば、人生は大きく変わっていたに違いない。
一方で、筆者は数学や物理には強い興味を持っていた。難解な証明問題を、夢の中で解いた経験もある。日中に悩み抜いて結論に至らなかった問題が、夢の中で解けるとは、まさに不思議な体験である。
そんなことを思い出しながら、今は「魂の記録と埋め込み」としてエッセイやコラムを執筆している。何度読み返しても拙作ばかりだが、そこには一切のフィクションがなく、実際に起こった事象の検証が記されている。
人間というものは、あらゆる事象を知ってこそ、初めて「ピンからキリまで」を語れる存在である。ゆえに辛酸を舐めることが、自らの猛省へとつながり、遅ればせながらも半生を反省することで、ようやく軌道修正が可能になるのだろうと。
ただ、我儘に突っ走る生き方には、常に「誤解」が伴う。だからこそ重要なのは、自分の背中を客観的に見つめることだ。立ち位置を確かめ、他者からの提言や苦言の大切さを認識することに尽きる。
厳しい現実に直面しながら、果たして自分は的確にトラブルシューティングを行えてきたのか。その検証の結果が、いま筆者の書籍に収められている。いわば自己反省文の集大成であり、恥ずかしい限りである。(苦笑)
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