私が私たちから離れるとき : マーガレット・ギルバートの共同行為論(2)(西洋近代と日本語人 第3期 その19)
1.はじめに
973. 前回は、マーガレット・ギルバートの共同意図の説明の概要を紹介し、検討しました。今回は、ギルバートの共同意図論のなかの興味深い論点をひとつ紹介します。簡潔にいうと、それは、ある共同意図を共有し、人々との共同のコミットメントが成立して、現に共同行為に携わっている人物が、それでもなお、共同意図に背く私的な意図をもつことがありうる、という指摘です。
974. この指摘は、逆説的に聞こえますが、そういうことがあるという事実そのものは、特筆すべきことではありません。共同作業は参加者がいやいややっていることがある、という日常的にいくらも生じる事実の指摘にすぎない。しかし、この平凡な事実の指摘は、私がここまで問題にしてきた近代社会とは何かという主題と結びつけると、にわかに興味深いものとなります。人が共同行為にたずさわりつつ共同意図から離反する私的な意図をもちうることは、近代社会の本質と深く結びついています。
2.日本語人と近代文明のかかわり
975. これまでにも折にふれて確認してきましたが、私は、近代化を通じて日本語人はどういう体験をしてきたのか、ということに関心があります(3の1:2、3の12:587)。日本語人は明治期まで絶対という概念を必要としていなかった。しかし、明治日本の憧憬の的だった西洋近代文明は、神 God という絶対を意識することで成り立っていた。絶対への関心を元来もたない日本語人が、近代化と西洋化を試みて、いったい何が起きたのか。(2の15:585)
976. 起きたことを知るためには、日本語人が取り入れたいと思った近代文明の諸要素と、取り入れたいと思わなかった近代文明の諸要素をともに視野におさめる必要があります。とくに、取り入れたいと思わなかった要素に着目すると、日本の近代化の偏りや歪みがわかるはずです。
977. 日本語人が取り入れたいと願った近代文明の所産は、まずは科学技術と軍事体制でした。もちろんそれだけでなく、法体系、政治制度、経済組織、学術・教育体制、さらに藝術、思想から衣食住の様式にいたるまで、取り入れたいと願い、ある程度まで取り入れてきました。
978. 日本語人が取り入れたいと思わなかった近代文明の所産には、取り入れることを少しは試みたものの結局取り入れなかったものと、最初から眼中になく、取り入れる試みが行なわれなかったものが含まれます。
979. このうちの前者、日本語人が少し試みて結局取り入れなかったものの代表は、キリスト教の教え、つまり宗教としてのキリスト教です。令和6年の調べでは、日本のキリスト教の信者数は、キリスト教系とされる宗教法人の信者数をすべて足し合わせても、全宗教の総信者数の0.7%(124万6742人)にすぎません*。
注*: 令和6年 宗教統計調査の主な結果(文化庁 https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/index.html )この調査では、全宗教の総信者数は1億7千223万2847人となっている。これは日本の全人口を越えます。複数の宗教に重複して帰属する人が相当数いることがわかります。
980. そして後者、最初から日本語人の眼中になかったもの、取り入れることを思いつきもしなかったものが何かというと、それはキリスト教的な社会組織の原理です。このことは、近頃浮かんだ思いつきで、私としてもわかりやすく説明できるだけの見とおしをまだ得ているわけではありません。そもそも「キリスト教的な社会組織の原理」とは何なのか。大まかにいうと、宗教改革以降のキリスト教が西洋の伝統社会を作りかえて新しい社会を作りだす、そのときに形成された社会のあり方、というほどのことです。
981. そのあり方は、表層の制度や思想として抽出すれば、代議制民主政体、人権思想と憲法、個人主義、等々、既知のものにすぎません。日本語人もよく知っていて、取り入れてきたものも多い。しかし、ある単純な作法のようなものがこれらの根底に共通の原理として横たわっていて、それは今でも日本語人の視野に入っていない。意識からこぼれ落ちている。冒頭で述べたマーガレット・ギルバートの共同行為論の興味深い論点は、ここに関係してきます。というわけで、とにかくギルバートの論文を紹介しましょう。
3.ティナとリーナは一緒に歩く
3.1 書誌情報
982. 今回紹介するのは、1997年の「我々が意図するとはどういうことか(What It Is for Us to Intend?)」という論文です。この論文を引用または参照するときは、「我々が意図するとは」と略記します。引用箇所のページ付けは、初出の学術書ではなく、この論文を収録したギルバートの論文集Gilbert, M. (2000). Sociality and Responsibility. Rowman and Littlefield. のページ数を記します。
983. 中心になるのは、ティナとリーナという二人の人物が一緒に歩く、という例です。前回は1990年の「一緒に歩く」という論文*から、スーとジャックが一緒に散歩するという例を解説しました。ギルバートは、再度、二人の人物が一緒に歩く例を分析します。論点の多くは「一緒に歩く」と重なりますが、整理されてわかりやすくなっています。新しい論点は、冒頭でふれた共同意図に背く私的意図の考察です。以下、前回の内容の復習も含めて、「我々が意図するとは」の内容を紹介します。
注*: 原題は、「Walking Together: A Paradigmatic Social Phenomenon(一緒に歩くこと:典型的な社会的現象のひとつ)」 この論文は、Gilbert, M. (1996). Living Together. Rowman and Littlefield. に収録されています。
3.2 ティナとリーナ:30分間一緒に歩く
984. ティナとリーナは30分ぐらい一緒に歩こうと思い立ち、そのように合意しました。スーとジャックの例との違いは、ティナとリーナのあいだには合意があることです。前回の「一緒に歩く」は、二人の人物間に一緒に散歩するという合意がない状態から説き起こして、共同意図をもつためには合意、ないし共同コミットメントが必要になる所以を論じたものでした(3の18:963)。「我々が意図するとは」では、必要な合意がすでにあるところから考察が始まります。
985. ティナとリーナの二人は30分間一緒に歩くという共同意図を持っている。これは、二人で歩くという合意の下で、それぞれが以下の(1)から(4)のような意図と共通知識をもっている状態です。
(1)ティナは30分間リーナと一緒に歩く意図を、有している。
(2)リーナは30分間ティナと一緒に歩く意図を、有している。
(3)ティナは、30分間お互いと一緒に歩く意図をリーナが自分(ティナ)と共に有していることを、知っている。
(4)リーナは、30分間お互いと一緒に歩く意図をティナが自分(リーナ)と共に有していることを、知っている。 (ギルバート「我々が意図するとは」p.16)
986. 用語について一言述べておくと、「共同意図」を表すのに、英語では、論者によって「joint intention」「shared intention」「collective intention」など異なる語句が使われています。ギルバートは1990年の「一緒に歩くこと」では「joint intention」を使っていますが、1997年の「我々が意図するとは」や、2009年の「共同意図の二つのとらえ方」*では(以下、「二つのとらえ方」)、「shared intention」を使っています。「二つのとらえ方」で、「shared intention」、「joint intention」、「collective intention」の三つは、基本的に同じ意味だと注記しています(「二つのとらえ方」p.96注12)。ですから、よほどの必要性を感じないかぎり、今後ともこれらはすべて「共同意図」と訳します。
注*: 原題は「Two Approaches to Shared Intention」 この論文は、Gilbert, M. (2014). Joint Commitment: How We Make the Social World. Rowman and Littlefield. に収録されています。引用等のページ付けは、この論文集によります。
987. さて、前回も述べた通り(1)と(2)の条件だけでは、意図を共有しているという事態が成立するには不足です。その理由は、相手が自分と同じ意図を有していることを、お互いにまったく知らなかった場合を想像してみればわかります。
988. 前回は結婚の意志を例にして説明しました(3の18:917)。AさんとBさんは、それぞれ相手と結婚したいと心中ひそかに思っている。だが、お互いに、相手が自分と結婚する意志をもっているとは知らない。この場合、二人は結婚しないでしょう。相手が自分と同じ意図をもっていることを〝お互いに知っている〟のでないと、共同行為は成立しない。(3)と(4)は必須です。この〝お互いに知っている〟状態を、意図の共有が「共通知識(common knowledge)」になっている、といいます(3の18:922)。
989. ティナとリーナの例は、参加者二人の最小限の共同行為の例です。ギルバートは、二人以上の人物がかかわる共同行為も、二人による共同行為の自然な拡張として扱うことができる、と考えています(ギルバート「一緒に歩く」p.178)。私としては、拡張の手順をよく調べる必要があると思いますが、基本的にはこれに同意します。参加者が二人だけでも、共同意図と共同行為の本質的特徴を取り出すのには足りる、という見方を受け入れておきます。
リーナの離脱
990. こうして、二人は一緒に歩き始めます。ところが、15分ほどたったころ、リーナが立ち止まり、ひとことも言わずに、踵を返して戻りはじめます。ティナは驚いて、「なにしてるの? 私たち、30分歩くって計画したじゃない!」と言います。(ギルバート「我々が意図するとは」p.16)
991. リーナが途中でいやになって帰るという流れは、まあ、ありうると思われます。そして、ティナがちょっと腹を立ててリーナに抗議するのは、誰でもそう言いたくなるだろうなと感じられます。共同意図をもって共同行為にたずさわっているとき、関係者のそれぞれは、共同意図に反しないように行為する義務を負っている。生硬にいえば、こういうことです。(3の18:928)
992. この義務は、仮に共同意図に反する行為が行われた場合、違反者以外の共同行為者に、違反者を非難し抗議する権利を与えます。共同意図をもって共同行為にたずさわるとき、参加者は、たがいに特別の義務と権利の関係に立つことになる。これはギルバートが強調するところです。
リーナの弁明
993. ティナに非難されて、リーナは、「帰ることにしたの、私は疲れたの」と弁明したとします。ティナはこれにどう応ずるか。一緒に歩くくらいのことだったら、何も言わないで受け入れるかもしれません。しかし、原則として、この弁明に対しては、こう応ずることができるように思われます。
「十分な理由があるにしても、あなたはただ単に帰ると決めることはできない。あなたは、私の同意または許可なしに、ただ離脱することはできない。」(ギルバート「我々が意図するとは」p.17)
994. 事業をするとか、結婚するとか、そういう重大な共同行為の場合、参加者の一人が黙って勝手に自分だけ離脱するのは許されない。これはわかります。そこまで重大ではなくて、たとえば草野球でも、片方のチームが試合の途中で唐突にもうやめると言い始めたら、それはない、と抗議されるでしょう。一緒に30分歩く場合でも、理屈としては同じです。
995. さらに言うと、踵を返す前に、リーナが「もういやになった」とはっきり言ったとしても、そう言うだけでそのまま離脱することはできない感じがします。こういった事情を一般的にいうと、以下のようになります。
「共同意図の共有者は、明言しようがしまいが、自分の気が変わったからといって単独で共同意図の拘束力を取りのぞくことはできない立場に自分がいることを理解している」(ギルバート「我々が意図するとは」p.17)
共同意図は、自分の一存で無効にすることはできない。この点は、共同意図が各人に及ぼす力を考えるとき重要になります。
996. 以上をまとめると、共同意図の下で共同の行為が遂行されているときには、参加者のそれぞれに、(ア)共同意図に反しないように行為する義務が生じ、したがって(イ)その義務に反した場合は他の参加者に非難と抗議の権利が生じ、かつ、(ウ)どの参加者も自分独りの判断で共同行為から離脱することは許されない。この(ア)(イ)(ウ)は、共同意図と共同行為に関して、現生人類に共通の普遍的な特徴であると考えられます*。
注*: マイケル・トマセロの研究グループは、いくつかの実験を通じて、3歳児が共同意図の拘束力を理解している――共同コミットメントのある共同作業と、それのない共同作業を区別している――ことを確かめています。(マイケル・トマセロ『道徳の自然誌』中尾央訳、勁草書房2020、pp.105-108)
意外な展開
997. さて、ここからが「我々が意図するとは」の新しい論点です。いまティナの非難を受けて、リーナがはっきり「私は歩く意図はない」と言ったとします。原文は「I don't intend to go.」です。自然に訳すなら「もう歩くつもりはない」くらいでしょう。しかし「意図」という語がないと、後の議論につながりにくいので、あえて直訳しておきます。
998. 普通は、ティナもそれなら仕方がないと受け入れて、「じゃあ、私ひとりで歩く」とか「それならもう帰ろう」などと応ずるでしょう。こうして当初の共同意図の破棄が合意される、あるいは、破棄に加えて一緒に帰るという新しい共同意図が形成される。こういった結末になるのが普通です。
999. とはいえ、ここで意外な展開もあり得る。ティナも少しほっとした様子で、「私もこんなに歩く意図はなかった(I didn't intend to go on that long either)」と応ずる可能性もなくはない。ティナもひそかに歩くのはいやになっていたわけです。(「我々が意図するとは」p.18)
1000. 整理すると、歩き始めて15分後にリーナが立ち止まり、「私は歩く意図はない」と宣言する。それを聞いてティナも「私もこんなに歩く意図はなかった」と応ずる。もちろんその瞬間までティナもリーナも歩いていたのです。でも、本人たちの私的な意図としては、ある時点以降、歩く意図はなくなっている。つまり、私的な意図は共同意図から離反している。
1001. 「私的な意図」は、「personal intention」の訳です。「個人的な意図」の方が日本語としては自然です。しかし、ギルバートは「individual(個人的)」という語を、正反対の文脈で――共同意図に適合した役割を各人が果たすという文脈で――使用することがあるので、「personal」は「私的」と訳すことにします。
1002. 歩くという私的な意図をそれぞれが失くしてから、リーナの宣言が行なわれるまで、ティナもリーナも自分自身の私的意図〝以外の〟決定によって歩いていたことになります。この決定は、30分一緒に歩くという当初の共同意図からくる決定にほかならない。つまり、二人は自分の意図に従ってではなく、それぞれ〝自分たち〟の意図に従って歩いていたわけです。
1003. この展開は多少意外なところはあっても、よくあることです。なにかを一緒にやると決めて、皆で取りかかるけれど、しばらく経つと内心もういやになってしまった人が出てくる。共同意図を前提して各人を見ると、内心いやになっているのは見えません。だから、ほんとはいやだったのだと聞くと意外に感じるのですが、実際のところ、多くの共同行為は、潜在的な離脱者をかかえこんで進行していると思います。
1004. この共同意図と私的意図の離反という現象は、人間の共同的な存在様態の、もっとも厄介なこんがらかった部分の現れです。この離反の現象を掘り下げていくと、複雑に絡まった幾つもの問題が現れてくるはずですが、その全貌はさておいて、すぐ目につく問題を考えます。
4. 共同意図と私的意図
共同意図は私的意図と独立に存続する
1005. いったい共同意図と私的意図のあいだの関係はどういう関係なのか。ギルバートは、この問いに、次のように答えます。まず、ティナとリーナの例に即していうと、こうなる。
「参加者の誰も、自分の行動(behavior)を共同意図に一致させるよう私的には意図していないのだが、しかじかのことを行なうという共同意図は存在しうるように見える」(ギルバート「我々が意図するとは」p.18)
ティナとリーナの例は、共同意図があり、共同行為も遂行されているが、その行動をしようという私的意図は参加者の誰にもないような場合がありうる、ということを示しているわけです。
1006. 共同意図と私的意図の関係として一般化すると、以下のとおり。
「私の主張の核心は、共同意図が現に在るとき、これに呼応する私的意図が欠落しているということが、あきらかに原則として可能である、ということだ」(ギルバート「我々が意図するとは」p.18)
言いかえれば、人々が一緒になって何かを行なっているけれど、本人としてはそのことをやりたいと少しも思っていない人がそのなかにいる。極端な場合は、全員がやりたいと思っていない。こういうことが原理上可能である、というのです。
1007. ちょっと復習すると、共同意図論の基本的な着想として、共同意図は個人意図の集まりに分解できない、とするジョン・サールの考え方がありました(3の17:859、864)。ギルバートは一歩進んで、分解できないだけでなく、共同意図をもつとき、人々は権利や義務の関係で束縛されると主張します(3の17:881、本稿996)。これに対し、マイケル・ブラットマンは、サールやギルバートとは違って、共同意図は個人意図のすり合わせから生まれる一つの状態に過ぎない(権利と義務は後から付け加わる)と考えます(3の17:885、890)。
1008. ギルバートは、今、以前より強い主張を述べています。対応する私的意図なしに共同意図が存在することが可能だ、というのです。これは、共同意図は各人の意図に分解できないだけでなく、各人の意図と独立に存在しうるという強い主張です。共同意図は、各人の意図とは異なる水準に存在しており、原理上は、誰一人その共同意図を支持していなくても、各人を拘束力を発揮することが可能だ、というのです。
共同意図の力
1009. 上のギルバートの考え方を、少し違う角度から見なおすと、当人の私的意図が共同意図から離反してもなお、共同意図は、その下にある各人に命令を下して共同行為が遂行されるように各人を動かすことができる、ということです。「リーナの宣言が行なわれるまで、ティナもリーナも自分自身の私的意図〝以外の〟決定によって歩いていた」(1002)というのは、このことを表しています。しかし、なぜそんなことになるのか。
1010. その理由は、共同意図とは〝私たち〟の行為を規定する意図であって、〝私〟は〝私たち〟の一員になっているからです。〝私〟が〝私たち〟の一員となるとは、〝私〟が〝私たち〟に服従するということです(3の18:968)。では、いつ〝私〟は〝私たち〟に服従するようになったのか。
1011. ギルバートは、複数の個人がそれぞれ自分の目標について決意表明するだけでは、たとえそれが共通の目標だったとしても、共同意図の下で共同行為をしていることにはならないとします(3の18:955)。自分はこうする意図があると宣言するだけでは、そうしなかったからといって他人には文句を付ける権利は生じない。これでは、共同でことを行なうときの義務と権利の関係(996)にまでは至っていない。だから、私的な決意表明のみによって共同意図を形成することはできない。ギルバートはそう考えます。
1012. 共同意図とは、ある目標を自分の目標として個別に追求することではなく、「当事者のそれぞれが、問題の目標を自分と相手が共同で(jointly)受けいれて、進んで実現する気持ちがあることを明瞭に表明すること」(「一緒に歩く」p.184)なのだと指摘しています(3の18:963)。この表明が共同コミットメントです。
1013. 共同コミットメントによって複数型主体つまり〝私たち〟が成立します(3の18:966)。そして、その複数型主体の一員であるかぎりにおいて、各人には当該の共同意図に沿った行動をする義務があり、他のメンバーの許可なく勝手に共同行為から離脱することはできない(996)。だから、リーナもティナも、もう歩くのはいやになっていたのにしばらく歩き続けたわけです。
共同意図と演技的行為
1014. しかし、自分としてはそうする意図はないのに、自分の身体はその共同意図を実現するように動いている。そんなことがどうして起こるのか。たいへん不思議です。共同意図の課す義務と権利によって各個人が束縛されるのが事実だとしても、身体を実際に動かす心的機構はどう説明できるのか。ギルバートは、私の知るかぎり、この問いについて特に回答していません。
1015. 私の考えでは、その答えは、人間には非現実をあたかも現実であるかのように提示する能力がある、ということに求めるほかありません。「真似をする」「演技する」「何かのふりをする」「嘘をつく」「物語を作る」といった行為はこの能力の発現です。
1016. 支持していない共同意図に沿って行動することは、非現実のコミットメントを現実のコミットメントであるかのように表現することです。これはまぎれもなく一種の演技であり、真似、ふり、嘘、物語る行為などと通底しています。
1017. 人間は、虚構を生きる能力をもっている。「虚構 fiction」とは、作られたものということです*。作られているからといって、必ずしも虚偽であるとはかぎりません。たとえば、作られたものの中を生きる能力は、社会制度を成り立たせる根底にある。政治権力(例、王権)や経済制度(例、通貨)は、虚構を設定しその中で生きる能力によって成り立っています。王はただの人間で、お札は紙切れにすぎない。それが、ある虚構の中で、王となり、貨幣となる。これと同じ仕組みが、演劇、映画、絵画、神話、小説など藝術全般を成立させていることは言うまでもありません。
注*: 「虚構」は由緒正しい漢語であり、また英語「fiction」の訳語でもあります。「fiction」は、ラテン語の名詞「fictiō(形づくること)」から動詞「fingō(形づくる)」に遡る。「fingō」には「形づくる」のほかに「捏造する、偽装する」といった意味もある。「形づくる」ことは「虚構」の「構」に対応しており、「捏造する、偽装する」は「虚」に対応する。というわけで、「虚構」は、漢語としても訳語としても「形づくられたものであり、ときには偽なるものでもある」という含みをもっています。(清塚邦彦『フィクションの哲学〔改訂版〕』2017勁草書房、pp.1-2)
1018. 共同意図の下で共同で行為することは、〝私たち〟という作られたものの中で生きることです。作られたものの中で生きるとは、いったい何をどうすることなのか。これはすぐに浮かぶ問いですが、根本的すぎてすぐには答えようがない。今はこの問いには立ち入らず、共同行為において共同意図と私的意図は離反する場合があること、そしてまた、人は虚構の中で行為する能力があることを前提にして議論します*。
注*: 以下は自著の宣伝です。『自己犠牲とは何か』は、虚構の中で演技的に行為する能力という観点から、アジア・太平洋戦争における日本人戦犯の行為をとらえ、さらに自己犠牲的行為全般を分析したものです。虚構の中の行為という現象に興味をもった方は覗いてみてください。
私的意図の離反が示すこと
1019. 共同意図と私的意図の離反現象を描写したことによって、ギルバートは、この現象の二つの側面を同時に示した形になっています。一つは、上に述べたことです。共同意図は、それを肯定する私的意図が当人から失われても、複数型主体の一員を動かす力をもつということ。もう一つは、複数型主体〝私たち〟の一員である〝私〟は、それにもかかわらず、〝私たち〟から離れて単独の〝私〟にもどることができる、ということ。
1020. この二つのうちで近代社会の本質と深く結びついているのは、〝私〟が〝私たち〟から離れて単独の〝私〟にもどことができるという側面です。近代社会は、共同意図の力から離反して単独の私にもどった人間を、社会の正当なメンバーとして肯定するという構造を含んでいるからです。
1021. 内心もう歩きたくないと思い始めたとき、リーナは、ティナと二人で作り上げた複数型主体から、もはや気持ちが離れています。リーナは、共同意図の下にいる私(〝私たち〟の一員としての〝私〟)から、共同意図を離れた私にもどっている。共同意図の下の私が〝演技する私〟だとすれば、共同意図を離れる瞬間の私は〝演技していない私〟です。そして、近代社会は〝演技していない私〟によって構成される社会でした。この点を、ギルバートの論点と重ね合わせて確認しましょう
5. 近代社会と〝私〟
近代社会の二つの条件
1022. 先に、近代社会を生む条件として、「第一に、相手の言ったことに対して、会話のどの段階で、どんな疑いを表明してもかまわない。第二に、会話を維持しなければならない。」(3の13:668)という二つの条件を挙げました。
1023. この二つの条件はどういう議論から導かれたのかというと、まず、現生人類の認知と行動の機構は、どんな時代のどんな社会でも基本的に共通であると考えてよい。とすると、その基本的な機構のどこにどういう〝ひねり〟つまり特別の条件を加えると、近代社会が生まれるのか。こういう問いが成り立ちます(3の13:665)。これへの回答として、上の二つの条件が提案されたわけです。疑いの許容と対話の維持が、問題の〝ひねり〟だというわけです。
1024. 議論をもう一段さかのぼると、人間の認知と行動の基本的機構として設定されたのは、自分と話し相手と対象という三者関係における会話でした。自分と対象がにらめっこのように対面する二者関係ではなく、自分と相手が対象をはさんで会話する三者関係のなかで、そのものが何であるか、またそれに向けてどのような行動を起こせばよいのかがわかってくる(3の13:640)。この三者関係が重要であることは、幼児の発達過程から裏付けられます(同:658-665)。
1025. 議論をさらにもう一段さかのぼると、近代社会が生まれるについては、近代文明全体が懐疑論と個人主義から生まれたという歴史*が関係します。近代文明は、懐疑を表明する行動様式を、広く社会全体に組み込むこと(懐疑論を社会に実装すること)によって生まれた。懐疑論を社会に実装することが個人主義をもたらすからです。
注*: 近代文明と懐疑論および個人主義の関係については、3の2の46-48 に短く述べてあります。
1026. すると、人類の基本的な認知行動機構である三者関係の会話の構造に、懐疑論と個人主義を成り立たせる仕掛けを組み込めば、その構造と仕掛けによって近代社会の生まれる母体ができる。こういうことになります。そして、その仕掛けが上述(1022)の二つの条件だ、というわけです。
1027. 第一の条件からは、二つの帰結が導かれました。一つ目は、「会話のどの段階で、どんな疑いを表明してもかまわない」のなら、会話を通じた探究は果てしなく続き得ることになり、これは、人間の有限性を越えて絶対的なものを探究する試みになりうる、ということ(3の13:670、674-684)。
1028. 二つ目は、「会話のどの段階で、どんな疑いを表明してもかまわない」のだから、どんな疑問や反論を提示しても探究者は咎められない。いいかえれば、探究者がまわりの意見に決して同意せず、完全に孤立したとしても、全体集団のなかの正当な一員として認められるということ。(3の14:700-715)
1029. 第二の条件が、どんな帰結をもたらすのかは、まだ論じていません。そこにギルバートの議論がかかわってきます。
ギルバートの共同意図論と近代社会の成立条件
1030. 共同意図から私的意図が離反することがあるというギルバートの指摘する事実は、この近代社会の成立の二つの条件と、いったいどのようにかかわるのか。ギルバートの指摘は、とりわけ第二の条件「会話を維持しなければならない」と結びついて、興味深い帰結をもたらします。
1031. 帰結は、具体的に考えればごく簡単なことです。リーナが「私は歩く意図はない」と宣言した後でも、ティナは会話を維持しなければならない。これだけのことです。ただし、近代社会の成立条件に合わせるためには、ティナは第一の条件も同時に満たさなければならない。すると、二人で歩くことだけでなく、二人の間にあった他の共同意図をリーナがことごとく拒絶するようになったとしても、ティナは対話する間柄を維持しなければならない。こうなります。
1032. これは、論理的には可能ですが、現実にはかなり困難でしょう。普通は、それまでの合意をなにもかも拒絶するような相手とは付き合っていられない。でも、そこにはちょっと目をつむって、共同意図から私的意図が離反しうるという指摘と、近代社会を生む二つの条件との関係を、一般的に考えてみます。
1033. そのためには、あらかじめ、共同的な心的態度を、意図以外にも拡張しておく方が考えやすい。共同意図(shared intention)だけでなく、共同信念(shared belief)や共同原理(shared principle)といったものを考えることにします*。なお、共同信念とは、複数人が共有している事実認識のこと、共同原理とは、複数人が共有している慣習や規則や信条など方法論的な原理のことです。
注*: このような拡張が可能であり必要でもあることは、ギルバートも認めています(「一緒に歩く」p.188)。
1034. 共同意図から私的意図が離反しうるという指摘は、共同信念から私的信念が離反することがあり、共同原理から私的原理が離反することがある、というように拡張されます。平たくいえば、こういうことです。皆で何かしようと決めた後で、自分は降りるという人が現れることはあるし、皆がこうだと信じていることを、あえて信じないという人が現れることもあり、皆がこうすべきだと思っていることに、異を唱える人が現れることもある。
1035. 共同的な意図、信念、原理から、私的な意図、信念、原理が離反しうるという拡張されたギルバート的な観察は、要するに、共同的な心的態度からの離反はいつでもどこでも生じ得る、という指摘であることがわかります。この指摘を近代社会を生む二つの条件と重ね合わせるとどうなるのか。
1036. 第一の条件と内容が重なることは自明です。「会話のどの段階で、どんな疑いを表明してもかまわない」ということは、共同的な心的態度からの離反はいつでもどこでも生じ得る、ということの積極的な容認です。
1037. 第二の条件とはどのように重なるか。共同的な心的態度からの離反はいつでもどこでも生じ得るというギルバート的な観察は、近代社会を成立させる第二の条件「会話を維持しなければならない」と結びつけると、〝共同的な心的態度をすべて拒否する人物に対しても会話を維持しなければならない〟という命令をもたらします。
1038. つまり、皆が受け入れている行動方針(意図)や、事実認識(信念)や、方法論(原理)にあえて背くことを選び、まったくの孤立を選びとった人物に対しても、会話を維持しなければならない。端的にいえば、共同体に反逆する人物も、共同体の一員として遇さねばならない、ということです。
キリスト教的な社会組織の原理
1039. すでにずいぶん長くなったので、少し端折りたい。「共同体に反逆する人物も、共同体の一員として遇さねばならない」という命令は、キリスト教的な社会組織の原理といってよいものです。この命令は、「汝の敵を愛せ」とほぼ同義だからです。
1040. ずいぶん前ですが、以下の定式によって「アガペー的な人間関係」という概念を提示したことがあります。
〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける〉(2の23:917)
この定式は、私が組み立てたものにすぎませんが、的外れではないはずです。イエスの教えに従って愛(アガペー)に生きようとするなら、「よきサマリア人の譬え」(ルカ10:30-37)が示すように、どんな相手に対しても、相手の善を願って自発的にはたらきかけなければならない(3の6:293)。
1041. 「共同体に反逆する人物を、共同体の一員として遇さねばならない」とは、アガペー的な人間関係において生きよ、ということなのです。
5.むすび
1042. あっちへ行ったりこっちへ行ったり、かけ離れたものを結びつける突飛な議論を展開したという自覚がなくはない。私の頭の中がどうなっているのか、最後に整理しておきます。ほんとうのところは、ここまで書いて、はじめて整理が可能になったのですが。
1043. (1)懐疑論と個人主義から近代文明が生まれた、という見方を取ることにしよう。
(2)自分と相手と対象の三者関係における対話が、人間の認知と行動の基本的な構造である、という立場を採用しよう。
(3)上の(1)の見方と(2)の立場を結びつけて、認知と行動の基本構造に、懐疑論と個人主義を生むような条件を追加してみよう。
(4)すると、二つの条件が提案できる。(1022)
(5)他方で、人間の共同行為のあり方を分析していくと、共同的な力は個体の心的状態とは別の水準にあることがわかる。(1008)
(6)上の(5)の事実から、逆に、個体は共同的な心的態度から離反することが可能だ、ということが浮かび上がる。(1019)
(7)上の(6)の可能性と(4)の条件を組み合わせると、「共同体に反逆する人物を、共同体の一員として遇さねばならない」という命令が帰結する。
(8)上の(7)の命令は、実質的に、「汝の敵を愛せ」というキリスト教的な社会組織の原理と同等である。
(9)以上から、「共同体に反逆する人物を、共同体の一員として遇する」というキリスト教的な社会組織の原理が、近代社会を作りだすためには必要であることがわかる。
(10)このキリスト教的な社会組織の原理は、富国強兵をめざした近代日本の視野からはこぼれ落ちたものである。
大体こういうことが言いたかったわけです。なお、(10)はまだちゃんと論じていません。
1044. 8月と9月は夏休みということにします。再開は10月11日の土曜日を予定します。夏休み中は、Substack の方に note の旧稿を転載する作業をするつもりです。
