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〝私〟はいつ〝私たち〟になるのか?:マーガレット・ギルバートの共同行為論(西洋近代と日本語人 第3期 その18)


1.はじめに

895. 今回は、マーガレット・ギルバートの共同行為論を紹介します。前回は、主にジョン・サールの共同行為論を紹介しました。サールの議論から浮かび上がってきた最も本質的な問題は、人間が社会を形成し、共同で行為するとき、個人は「自分を全体の手段ないし部分として位置付けて、そのかぎりで、自分の個人行為を全体の共同行為に埋め込む必要がある」(3の17:870)ということでした。サールは、これを、二人が協力してオランデーズソースをつくる、という卑近な例で説明しています(同:865-870)。

896. この、個人が自発的に全体の部分となり、自分一人ではできないことをやってのける、という行動様式の成り立ちをどう説明するか。これが共同行為論の中心問題です。この問題の勘どころは、〈個人が自発的に全体の部分となる〉という現象を、どう説明するかということです。

897. ギルバートは、前回確認したように、複数人が共同して行動するとき、人間は、その複数人のあいだに自然に発生する社会的な権利や義務の関係のなかに組み込まれると考えます(3の17:881)。そして、この社会的な権利義務関係で結ばれた複数人から成る行為主体を、複数型主体(a plural subject)と呼びます(同882)。複数型主体は、参加する個人を拘束する社会的な力(これは必ずしも道徳的な力ではない)をそなえている。これがギルバートの考え方の骨子です(同884)。

898. 社会的な権利義務関係の自然な発生と、複数型主体の成立と、複数型主体の拘束力、という三つの論点は、〈個人が自発的に全体の部分となる〉という同一の現象を、少しずつ異なる視点から語ったものと言えます。順に、その現象の発生の機序、その現象の生成物、その生成物の機能、という語り方になっている。今回は、この三つの論点のうち、主に、社会的な権利義務関係の自然な発生の問題を取り上げます。そして、ギルバートの一種の思考実験を紹介し、検討していきます。

899. なお、前回は、ギルバートと並べてブラットマンの共同行為論もかんたんに確認しました。ギルバートとブラットマンは、ある意味で対極にある。その点について、少し補足しておきたいことがあります。

2.ギルバート vs ブラットマン――前回への補足

900. ギルバートとブラットマンの対立は、人間の社会性をどう考えるかをめぐる対立です。これには二つの考え方があります。

901. 一つは、個体の欲求や信念や意図、つまり一人ひとりの心的内容から出発し、複数の個体のあいだでそれらのすり合わせが続いている動的な均衡状態として、ヒトの集団形成を説明するやり方。ブラットマンは、こういう考え方をとっています。

902. もう一つは、個体から出発するけれども、ヒトの共同的な生活形式が個体の心的内容を左右する力を備えていることに着目して、そういう共同的な力とそれに応答する個体の関係を通じてヒトの集団形成を説明するやり方。ギルバートは、こちらの考え方をとります。

903. 一見すると、両者の見解は容易に接続できるように見えます。ブラットマンのいう動的な均衡状態が、ギルバートのいう共同的な力を生みだすと考えればよい。ところがギルバートはブラットマン的な発想を批判し、ブラットマンはギルバートとは違う道を行こうとする。この二人の見解は、相互に相容れないところがあるのです。

904. ブラットマンの動的な均衡状態は、相互に独立した個体の意思決定のあいだに成り立つものです。これに対し、ギルバートの共同的な力は、複数の個体を上から規定する力です。複数の対等な個体の〝あいだ〟になりたつなんらかの合意が、それらの個体よりも〝上にある〟力を生みだす。これは、私たちが日常の人間関係でいくらでも体験する現象です。

905. しかし、この現象は、個人と集団のあいだの裂け目を各個人が非論理的に跳び越える試みを含んでいる(後述)。跳躍の結果、個人の独立性は抑圧され、隠蔽される。ブラットマンは跳躍の前の個人の独立性にこだわっていて、ギルバートは跳躍の後の集団の力にこだわっている。だから、ブラットマンとギルバートの考え方を接続するのは難しいのです。非論理的な跳躍を明快に説明するという難問になる。

906. 今回は、ギルバートを取り上げて、ギルバートの議論の中で非論理的な跳躍の瞬間がどのように出現するか、見とどけたいと考えています。

3.マーガレット・ギルバートの論考から

3.1 まえおき――英語人の直観と日本語人の直観

907. 対等の関係から上位の権力が生まれることをどう説明するか、という難問は、共同意図と共同行為という問題そのものに由来する難しさです。この本来的な難しさだけでなく、これと並んで、論者のギルバートやブラットマンが英語人であり、私が日本語人だ、という別種の厄介さも存在します。

908. 打ち明けていえば、ギルバートやブラットマンの論文には、直観的にとてもよくわかる議論と、なかなかのみ込めない議論が混在しているのです。人間の社会性に関連して、私の日本語的な直観と、書き手の英語的な直観がうまく重なるところと、かなり違うところがあるからでしょう。これから検討する問題には、問題自体の難しさと、英語と日本語の違いに由来する厄介さがある。

909. 個人同士の交際から社会的な力が出現するという現象自体は、ヒト社会に共通のものです。しかし、言語が異なると、社会的な力のとらえ方が微妙に違ってくる。この微妙な違いを掘り下げると、日本語人としての自分の考え方の特徴に気づくことができます。

910. 今回、ギルバートの論考を細かく分析していく過程で、私は、相手の期待に自分が動かされることが人間の共同性を生みだすという考え方が、自分のなかにあることに気づかされました(後述957-960)。これは、ギルバートやブラットマンには見いだされない考え方です。相手の気持ちに自分が動かされることは、本居宣長の言葉遣いを借りれば、「物のあわれ」を知ることです(2の12:447)。私は、自分のなかに、人間の社会性にかんする宣長みたいなとらえ方*がひそんでいるとは予想もしていなかったので、これは大きな驚きでした。

注*: 人間の社会性の宣長的なとらえ方については「2の13:506」を、それに対する批判については、「2の13:508」を、それぞれ見てください。

3.2 「一緒に歩く」(1990)から

911. ギルバートの論文のうち、1990年の「一緒に歩くこと:典型的な社会的現象のひとつ(Walking Together: A Paradigmatic Social Phenomenon)」を取り上げます。この論文を引用または参照するとき、以下では、「一緒に歩く」と略記します。引用箇所のページ付けは、初出の学術誌ではなく、この論文を収録したギルバートの論文集 Gilbert, M. (1996).  Living Together. Rowman and Littlefield. のべージ数を記します。

912. 「一緒に歩く」では、スーとジャックという二人の人物が一緒に散歩するという共同意図をもつためには、どういう条件が満たされねばならないのか、という思考実験を行なっています。ギルバートは、個人としての意図のすり合わせだけでは共同意図に到達できない、ということをかなり紙幅をとって説明しています。その説明は、私にとって直観的によくわかる議論から、なかなかのみ込めない議論へ、なだらかに移っていきます。ギルバートの説明は、人類共通の基礎的な直観から出発して、英語人と日本語人の直観が分かれる段階へと進んでいるように見うけられます。

スーは散歩に出かけてジャックに会う

913. わかりやすい議論からのみ込みにくい議論への推移を読者にも感じてもらいたいので、あまり私の言葉で要約せずに、ギルバートの文章の一部を訳出し、説明を追加するやりかたで行きたいとおもいます。まず、最初の問題設定は次のとおり。

 「二人の人物が一緒に散歩に行く(to go for a walk together)とはどういうことなのだろうか。一人が単独で散歩に出かけるところからはじめて、最小限どんな条件を追加すれば、この人物と別の人物が一緒に散歩していると言ってよいことになるのかを見よう。」(「一緒に歩く」p.178)

 設定は明快です。一人で散歩に出かけた人物が、誰かとたまたま遭遇し、この遭遇の時点から二人で一緒に散歩していると言ってよい状態になるまでに、どんな条件の追加が必要なのかを見ていくわけです。

914. 始まりは次のように描写されています。

 「スー・ジョーンズが独りでホースバーン・ロードに散歩に出かけたと想像しよう。不意に、スーは誰か黒マントの男が、彼女のそば1フットくらいのところを歩き始めたのに気がつく。この男が物理的に近くにいるだけでは、二人が一緒に散歩していることを成り立たせるのに十分でないことは明らかである。男が近くにいることでスーは落ち着かない気持ちになるかもしれないのだ。それは二人が一緒に散歩しようとしているのではないからである。」(「一緒に歩く」p.179)

1フットは30センチメートルくらいですから、黒マントの男は非常に近くにいる。落ち着かないどころではない。誰だって急いで距離をとると思いますが、話はすこし別の展開を見せます。

915. 「もちろん、その男性がいるのをスーがうれしく思うこともありうる。スーは男性が誰なのかわかったのだ。ジャック・スミスである。スーはジャックのことを知りたいと思う。スーはジャックが何か言うのを待つ。ジャックは同じ歩調で歩いている。かくして、二人は、一緒に歩くのを続けたいと思いながら、隣りあって歩くことができるようになる。」(「一緒に歩く」p.179)

 黒マントの男は、ちょっと知っている人物だったわけです。のみならず、好感を抱いている相手だったらしい。相手の方も離れて行かないので、結局、並んで歩いている状態になったわけです。

916. 「一緒に並んで歩き続けるという目標をそれぞれがもっていることは、二人が一緒に散歩しているということを成り立たせるのに、論理的に十分だろうか? 私は十分でないと言いたい。」(「一緒に歩く」p.179)

 十分でないのは、「一緒に並んで歩き続けるという目標をそれぞれがもっている」ことを、お互いに知らない可能性があるからです。スーもジャックも一緒に歩きたいと思っているけれど、相手もそう思っていると知らない場合、二人で一緒に散歩しているとはいえない。散歩の場合、外形的に並んで歩いていさえすれば、一緒に散歩していると見られやすいので、ちょっととまどうところです。次のような例で考えてみれば、のみ込めるはずです。

917. AさんはBさんと結婚する意志を有している。また、Bさんの方もAさんと結婚する意志を有している。だが、残念なことに、二人は、お互いに相手が自分と結婚する意志を有しているとは知らない。この状態のままでいれば、二人が結婚に進むことはないでしょう。この二人は、結婚しようという共同意図をもつにはいたっていないのです。

918. スーとジャックがそれぞれ内心ひそかに一緒に歩きたいと思って並んで歩いている状態は、二人が一緒に散歩するという共同意図をもっている状態ではありません。AさんBさんの二人がそれぞれひそかに相手と結婚したいと思っているだけでは、結婚しようという共同意図をもつにはいたっていないのと同じです。

919. それぞれが同じ内容の個人意図をもっているだけでは、共同意図の成立条件としては弱すぎる。それだけでは、共同意図の下で共同行為(二人が一緒に散歩する、二人が結婚する、等)が遂行される状態にはならない。共同意図が形成され、共同行為が遂行されるには、もう一押しなにかが必要なわけです。

920. ギルバートは、もう一段階条件を強めることを提案します。それぞれが一緒に歩きたいと思っていることを〝お互いが知っている〟という条件を加える。これなら「二人が一緒に散歩している」ことを説明できそうに見えます。

921. AさんとBさんの例に戻って考えます。それぞれがひそかに相手と結婚したいと思っているだけではなくて、さらに、Aさんは、Bさんが自分(Aさん)と結婚したいと思っていることを知っている。そして、Bさんの方も、Aさんが自分(Bさん)と結婚したいと思っていることを知っている。この条件を付け加えると、それなら二人は結婚することになるだろう、と自然に推論できます。

922. お互いに相手が自分と同じ意図を有していることを〝知って〟いるならば、共同行為が実行できそうです。相手と自分が同じ意図を共に有していることを知っている状態を、意図の共有が「共通知識(common knowledge)」になっていると言います。

共通知識と共同意図の関係――ギルバートの見方

923. ギルバートは、しかし、複数人が同じ意図を共有しているのをお互いに知っている状態、つまり共通知識がある状態を、共同意図をもつことの必要条件ではあるが、十分条件ではないと見ています。念のために形式的に整理しておくと、以下のとおり。

共通知識がなければ、共同意図はない(即ち、共通知識は共同意図の必要条件である)。
 だが、
共通知識があっても、共同意図があることにはならない(即ち、共通知識は共同意図の十分条件ではない)。

924. さてここで、前回紹介し、冒頭でも確認したように、ギルバートは、複数人が共同意図の下で行動するとき、人々は、自然に発生する社会的な権利や義務の関係のなかに組み込まれると見ています。これは、すこし考えれば、ごく当り前のことです。

925. AさんとBさんが結婚しようという共同意図をもつにいたり、結婚式の日取りも決まったとします。この時点で、Aさんが式当日に一人旅の予定を入れていることが判明したら、BさんはAさんに抗議し非難する〝権利〟がある。また、Aさんは一人旅を取り止めにする〝義務〟がある。共同意図から導かれる義務と権利とは、このように、共同意図に従う共同の行為がうまく行くようにそれぞれが努める義務と、その義務に違反した者に対し、他の者が抗議し非難する権利にほかなりません。

926. このような義務と権利が生じていることは、その人々のあいだに共同意図が成立していることを示す特徴のひとつです。そこで、スーとジャックが、共通知識をもったとき、二人のあいだにはこの権利と義務が生じるだろうか。ギルバートは、この点の吟味に取りかかります。ギルバートの目的は、共通知識があるだけでは、この権利と義務は生じない、ということを論証することです。

スーとジャックが共通知識をもったなら

927. スーとジャックは、「二人は、一緒に歩くのを続けたいと思いながら、隣りあって歩くことができる」(915)段階に達していて、かつ、お互いがそう思っていることを知っている状態(共通知識が成立している状態)にあるとします。ところが、今、ジャックがすたすた先に歩いていってしまうとしましょう。

928. 仮に、一緒に散歩するという共同意図が確立されているとしたら、ジャックのこの行動は、共同意図に反しないよう振る舞う義務への違反になる。途中で自分だけ立ち去るのは、義務違反です。この場合、スーは「なんでそんな早く行くの、ちょっと待ちなよ」という権利がたしかにある。

929. しかし、いま考えているのは、スーはジャックとたまたま遭遇し、二人はそれぞれ一緒に歩くのを続けたいと思いながら隣りあって歩いており、かつまた、お互いにそう思っていることが(なぜか)わかっている、という状態です。お互いの気持ちがわかってはいるものの、気持ちをはっきり伝えあったわけではありません。なんとなくわかっているだけなのです。この状態で、ジャックがすたすた先に歩いていったとき、スーは「ちょっと待ちなよ」というだろうか。それは、スーのお人柄によるでしょう。スーが人間関係への踏み込みの強い人、遠慮のないたちの人なら、「ちょっと待ちなよ」と言うかもしれません。

930. でも、私の感覚だと、この段階で「ちょっと待ちなよ」は、やや早いかな、という気がします。ジャックは用事を思い出したのかもしれないし、ふと気が変わったのかもしれない。スーは、「あれ、行っちゃうの?」と、裏切られたような気持にはなるかもしれない。でも、「ちょっと待ちなよ」と言う〝権利〟があるとまではいえない(権利なんかなくても言う人は言うのですが)。そう思われます。関連する共通知識がある〝だけ〟の状態では、当該の行為を続ける義務があるとまでは言えない。したがって、それに反した人を非難する権利が他人に生じるとも言えないわけです。

931. ギルバートはどう言っているかというと、「〔関連する共通知識があると〕定義された状態で一緒に歩いていると想定される人々は、この想定を疑わしくすることなく、問題の義務と権利をもつことを否定することが可能である」(「一緒に歩く」p.180)と言っています。ひどくもってまわった言い方ですが、要は、共通知識があると想定しても、義務と権利は生じないということです(「一緒に歩く」p.182)。

932. 関連する共通知識がある状態は、それだけでは問題の義務と権利をもたらさない。したがって、関連する共通知識がある状態は、それだけでは共同意図および共同行為を成立させるのに十分ではない。ここまでのところ、ギルバートの意見と私の意見は大きくは違いません。

共通知識になにかを追加する

933. ギルバートは、それならば関連する共通知識のある状態に、さらに何を加えたら、共同意図を成立させるのに十分になるのかを考えていきます。加えるべきなのは、道徳的義務の意識だろうか、あるいは自己利益への配慮(prudence)だろうか。

934. しかし、これらの紹介は省略します。というのも、「道徳」という言葉から連想されるものが西洋近代と日本では大きく違うので、その点の注釈が大ごとになる、と同時に、理解を得るのも難しい。また「自己利益への配慮」という概念は、功利主義と結びついた独特の含みをともなっていて、そのあたりの説明に一苦労しそうだ。省略するのはこういう理由です。

935. とにかく共通知識に道徳意識や自己利益への配慮を付け加えても、問題の義務と権利は生まれないとギルバートは考えている。これはさしあたり受けいれておきましょう。

936. ギルバートは、つづけて、関連する共通知識に、スーとジャックが自分の目標を明言するという条件を付けくわえたらどうだろうか、と提案します。

「やや奇妙だが、ジャックは、「私の現在の目標は、あなたと一緒に散歩することだ」と言う。スーも「そして私の目標もあなたと一緒に散歩することだ」と言う。」(「一緒に歩く」p.183)

こんなふうにスーとジャックが自分の目標を言い合うのは、たしかにかなり奇妙な光景です。

937. ここで十分注意しないといけないのは、スーもジャックも、「私の目標」を言っているだけだ、ということです。ジャックが「私の目標は、あなたと一緒に散歩することだ」と言い、スーも「私の目標は、あなたと一緒に散歩することだ」と言う。だが、二人は「私たちの目標は一緒に散歩することなのだ」とまでは言っていない。この点を心に留めておいてください。

938. しかし、これでものごとははっきりしました。それぞれが自分の目標を明言すれば、その目標を達成するように各自が行動することが期待されるので、なりゆきの見通しは格段によくなります。

939. しかるに、ギルバートは、二人がこれだけはっきり相互に目標を述べあっても、依然として問題の義務と権利には達しないと言うのです。ここで私は、話の趣旨がとんとのみ込めなくなりました。お互いに、「私の目標は、あなたと一緒に散歩することだ」と述べあったのちに、依然として、一緒に散歩することが成り立つように行動する義務が生じないというのは、いったいなぜだろう。わからない。私には、問題の義務と権利に達しているように思われたわけです。

940. ギルバートと私の感じ方の違いの原因がどこにあるのか、いまはほぼ把握できたので、釈然としない感じは軽減されました。でも、違いがあるという感じは残っています。

941. 義務と権利に達しないというギルバートの説明を引用します。長いので、読みやすさを考慮して長い一段落を短く切り、新たに段落を設けました。そして、後の説明で参照するため(a)から(f)まで段落に符号を付けました。なお、訳文中の〔…〕は私が説明のために補った言葉です。ギルバートの説明は以下のとおり。

942. 「(a)〔目標を述べあっても〕相手の満足する仕方で行動する義務があるとか、または、目標に到達するために為しうることを相手がしていないという理由で相手を非難する権利がある、などと二人のどちらもそれぞれ結論しなければならないようには見えない。」

943. 「(b)義務は生じず、非難の資格も生じないという点は、それぞれが次のように明言しても成り立つのである。「私は、私の目標を達成するためにできることすべてを行なうつもりだ。例えば、あなたが通告せずに先に行ってしまったら、私はあなたの注意を引くために呼びかけることを計画している。あなたの目標を前提すれば〔あなたは私と一緒に散歩する目標をもっているのだから〕、呼びかけることは私が私の目標を達成すること〔あなたと一緒に散歩すること〕の助けになるであろう。」こう言っても物事を決定的に変えることにはならないように見える。」

944. 「(c)予想されることとしては、ジャックは、自分が気づかずに先へ行ってしまったらスーが後ろから呼ぶと〝期待する資格〟はある。また、スーは、自分が後ろから呼びかけてもジャックが驚くことはないと〝期待する資格〟はある。これによって、呼びかけるときスーは臆病にならずにすむだろう。」

945. 「(d)だがここで、二人はこれらのことを〝期待する資格がある〟と言うことは、二人が得ている根拠が、他の事情が変わらないならばそういう行動が起こると人が推論できるといった類いの根拠であることを、ひねった言い方で言っているに過ぎない。誰一人、まだ、行為を遂行する義務の適正な類型、またこれに対応した非難する資格の適正な類型を、持ってはいないように見える。」

946. 「(e)(そもそも、非難は適切なのだろうか? 適切かどうかは、何が行なわれるかについての自分の信念が侵犯されたことに関し、その人が苦情をいう資格が与えられているかどうか、に左右される。おそらくジャックはたしかに、次のような仕方でなら、文句を言ってもよいだろう。〔スーが注意喚起してくれなかったことについて〕「私は、あなたが私に注意を促すと信じていた。だから、まわりに余り気を遣わないでいたのだ。」 ここに含まれた暗黙の訴えは、道徳的な考慮を求めるものでありうると私は示唆したい〔つまり道徳的な訴えをする権利や義務は発生している〕。ジャックはさらに追加するかもしれない。「あなたは、私があなたを頼りにしていることを、わきまえているべきだった。You should have realized that I might rely on you.」」

947. 「(f)しかしながら、一緒に歩くことの真正の事例だとしたら、ジャックは、先に確立されている理解〔共同行為に伴う義務と権利〕に訴えて、もっと有無を言わせない態度をとることもできるだろう。「なんで注意してくれなかったの!Why didn't you alert me?」)」

948. (a)は、スーとジャックが目標を述べあっても、問題の義務と権利は生じないということの確認です。

949. (b)は、目標を明言するのに加えて、あなたが先に行ってしまったら、声をかけて注意を促すつもりである、といったことを付け加えても、やはり、問題の義務と権利は生じないと言っています。自分はみずからの目標を達成するために役に立つことをする、それには先へ行ったあなたに呼びかけることも含まれる、そうすることは、あなたの目標に鑑みて、私の目標の達成に資するであろう。ここまで言っても、やはり問題の義務と権利は生じないというのです。

950. (c)は、目標を明言し、さらに追加の文言を加えるとどうなるかを述べています。それぞれが、相手の振る舞いについて、一定の期待をもつ資格が生まれる。平たくいえば、ジャックはスーが○○してくれるだろうと期待できるし、スーはジャックが△△してくれるだろうと期待できる、ということです。

951. (d)は、期待する資格は、義務や権利があることとは違う、ということを述べています。期待の根拠は、しかじかの状況では相手はこうするだろうと予測する場合と同じ種類の根拠だと言っている。その根拠はあくまでも、そうなる〝はずだ〟という予測を支えるだけです。その状況ではそうする〝べきだ〟という主張や、そうしなかったら非難して〝よい〟という判断を支える根拠にはならない。

952. (e)は、ちょっとややこしいのですが、非難とは、期待外れだったことについて行なわれる、という一般的なことをまず述べています。そして、ジャックの場合、スーが呼びかけて注意を促してくれなかったとき、「私はあなたが呼びかけてくれると思っていた、あなたは私の期待に配慮すべきだった」と非難することは可能だ、と言っています。

953. (f)は、共同意図の下での行為だったら、もうちょっと配慮してくれてもよかったのに、というような恨みがましいもって回った非難とはちがって、もっと直接的な非難が可能である、と指摘している。「なぜ注意しなかったんだ」と言える、というわけです。

ギルバートの考え方

954. 全体として、なぜギルバートは、共通知識とそれぞれが自分の目標を言い合うことでは、共同意図に到達できないと考えたのか。私の解釈では、共通知識に各自の目標を明言することを付け加えても、スーとジャックは、それぞれ自分の目標について決意表明しているだけだからです。

955. 自分はこうする、と言っているだけ。だから、スーに対して、ジャックは、スーはそうするだろうと予測することはできる。でも、スーはそうすべきだ、とまでは言えない。なぜなら、スーがどう振る舞うかは、この場合、自分の目標に向けた本人の行為選択に懸かっていて、それはもっぱらスーが決めることだからです。

956. ジャックはスーがしかじかのことをすると予想し、スーの言動からたしかにそうすると期待もした。だが、スーはそうしなかった。ジャックはスーに対し、あなたはもう少し私の期待に配慮してくれてもよかった、と恨み言を言うことは可能です。しかし、私の期待に合わせてしかじかのことをすべきだった、とまでは言えない。これがギルバートの考え方だと思われます。

私の違和感とその背後にあるもの

957. 私の最初に感じた違和感は、整理すると次のように述べることができます。そこまではっきり自分はこうすると表明しておいて、そして他人にそうするんだろうと期待させておいて、それでいて行為の選択はもっぱら自分の決めることだから、言葉に違わないように行為する義務は自分にはない、なんていえるか? ということです。端的にいうと、他人に期待させたんだったら、そうする義務があるんじゃないか。私は無意識に、あるいは自動的に、そう感じたようです。

958. 上ではこの感じ方を、本居宣長の「物のあわれ」を知ることと結びつけました。突飛で無根拠な連想と思われるかもしれませんが、そうでもありません。国文学者の日野龍夫は、新潮古典集成の『本居宣長集』の解説「「物のあわれを知る」の説の来歴」で、三田村鳶魚の文章からこんな話を紹介しています。

「享保の末のころ、ある旗本の娘が中村菊太郎という歌舞伎役者に深く恋慕して、思いつめた末に病気になってしまった。両親が娘の命には替えられないということで、娘の思いをかなえてくれるよう、家臣を通じてひそかに菊太郎に頼んだところ、江島生島の事件以来、役者たちは武家とかかわりをもつことをひどく恐れいたので、菊太郎は御婦人方のお相手は一切お断りしておりますといって拒否した。娘は落胆はなはだしく、三日ほどして死んでしまった。この噂が江戸中に伝わって、菊太郎は誰いうとなく「情け知らずの菊太郎」と非難された」(日野龍夫校注『新潮古典集成 本居宣長集』新潮社 1983年、p.514)

959. 日野の説明によれば、当時の道徳からすると菊太郎はまったく落ち度がない。そもそも武家の娘が役者に恋慕するのはあるまじきふしだらであり、まして親が不義の手引きをするのは破廉恥もはなはだしい。菊太郎の拒否はどこからみても正当だった。にもかかわらず、世間は菊太郎を情け知らずと非難したのです。

「他人の切実な恋に共鳴しようとしない「情け知らず」とは、「物のあわれ知らず」ということにほかならない」(日野上掲書p.519)

こういう状況では、菊太郎は相手方の切実な気持ちに動かされるべきであるという考え方が、享保の江戸にはあったわけです。

960. そして、私(たち)も、この考え方が、わからないことはない。相手の切実な願いや思いには動かされて当然であり、場の状況によっては、動かされるべきである。この「べきである」という感じ方、つまりそうする義務がある感じ、およびその義務に反したら非難されても仕方がないという感じは、現代の日本語人のなかにも残っていると思います。

共同コミットメント――ギルバートによる問題解決

961. ギルバートは、互いに相手が一緒に散歩したがっているという共通知識が成り立ち、さらに自分の目標を互いに表明し合ったとしても、スーとジャックは義務と権利の関係に踏み込んでいるわけではない、と考えます。だから、二人はその状態で並んで一緒に歩いていても、まだ一緒に散歩するという共同意図をもっているわけではない。では、いったい何を共通知識の成立につけ加えたら、スーとジャックは共同意図をもつ状態になるのか。これがギルバートの解決しなければならない問題です。

962. ギルバートは、共同意図をもつ状態が形成される過程を、以下のように描写しています。

「ジャック・スミスが咳ばらいをしてスーの注意を引き、スー・ジョーンズさんですよね、ぼくがあなたと一緒にいるのはお嫌ですか(would she mind if he joins her?)、と尋ねるとしよう。スーは、「いえ、好いわ(No, that would be nice.)、誰かと一緒にいたかったところ」と応ずる。これで、おそらく、一緒に散歩する事例を生み出すのに十分である。このやりとりがあれば、当事者たちは、一緒に散歩することにふさわしい態度と行為がしかるべく設定された、と双方が想定する権利を得ることになるだろう。」(「一緒に歩く」p.184)

 どうってことない日常会話が記されているだけで、これが共同意図を作り出す決定的なやり取りなのだと言われても、なんだか当てが外れたような気持ちがします。いったい、このやり取りのなにがそんなに大事なのか。「お嫌ですか」とか「好いわ」とか、情緒的な忖度が大事なのだろうか。

963. 決定的なのは、次のことだ、とギルバートは言います。

「当事者のそれぞれが、相手に向かい、相手と一緒に歩くという目標を自分が受け入れ、相手に進んで協力するということを明らかにしていること」(「一緒に歩く」p.184)

決定的なのは、同一の目標を追求するに際して、お互いに相手に協力すると明言していることだ、と言うのです。「お嫌ですか」「いえ、好いわ」というやり取りは、お互いに相手に協力すると言っている点が大事なのだということ。情緒的な忖度が大事なわけではありません。

964. 別の言い方をすると、こうなります。

「当事者のそれぞれが、問題の目標を自分と相手が共同で受け入れて、進んで実現する気持ち(willingness to bring it about)があることを明瞭に表明すること」(「一緒に歩く」p.184)

かなりもって回った言い方なので、ピンと来ないのですが、要するに、相手と協力して共同で目標を実現する気持ちがあると、はっきり言うことが、共同意図を成立させるために決定的に重要なのだ、とギルバートは考えている。

965. 特に、「問題の目標を自分と相手が共同で受け入れて(the goal in question be accepted by himself and the other, jointly)」の「共同で jointly」が大事です。これによって、二人のそれぞれの「私の目標」が結合されて「私たちの目標」という共同の目標になる。そうギルバートは考えているようだ。

966. 後年の論文では、共同の目標の実現に協力すると表明することは、とくに「共同コミットメント」(joint commitment)と呼ばれるようになります。共同意図を形成する決定的な要因は、共同コミットメントが行なわれることです。そして、共同コミットメントによって成立するのが、複数型主体(a plural subject)です。

「一緒に散歩するためには、当事者のそれぞれが、一緒に散歩するという目標に向かう複数型主体を相手とともに構成する積極的な気持ち(willingness)を表明しなければならない。」(「一緒に歩く」p.184)

967. たかが、ある晩、知人と一緒に散歩することになる事情について、おそろしく大仰な議論が展開された感じが否めませんが、日常の小さな出来事の中に、きわめて大きな理論的問題を見て取るというのは、英語圏の哲学のひとつの特徴かもしれません。ギルバートの大がかりな見通しをはっきり述べている箇所を引用しておきます。

「私の見解では、人間の社会集団とは複数型主体である。すなわち、社会集団を形成するためには、人間の集まりが複数型主体を構成することがその論理的必要条件であり論理的十分条件である。」(「一緒に歩く」p.187)

ギルバートは、人間の社会性というものの全体を、共同コミットメントと複数型主体によって考え尽くそうとしている。そのように見うけられます。

4.むすび

968. すでにずいぶん長くなってしまいました。私の解釈を急いで述べておくと、共同コミットメントによって複数型主体を構成するということは、〝私〟が〝私たち〟に自発的に合流し、〝私〟が〝私たち〟に服従するようになるということです。複数型主体を構成するとは、「複数型主体の構成要素としての自分の能力において」(「一緒に歩く」p.185)共同の目標を追求することだ、とギルバートは言います。この〈自発的な服従〉こそ、冒頭で述べた「個人と集団のあいだの裂け目を各個人が非論理的に跳び越える試み」(905)の実質です。

969. 私の見るところ、ギルバートは、「服従」という言葉をまったく使わずに、個が全体に服従するという全体論的な(holistic)事態を説明しようとしています。だから話がわかりにくくなる。個体の自発性(willingness)をどうやって全体への服従と折り合わせるかという難題を、共同コミットメントという概念でもってなんとかねじ伏せようとしている。

970. 共同コミットメントは、簡単にいえば、共同の目標を追求する積極的な意思表示です。しかし、思うにそのような意思表示が成立するについては、さきだって〝私〟と〝私たち〟の情緒的なつながりがすでにあるのでなければならない。

971. そのことは、スーとジャックの例からも明らかです。二人のあいだに、先行して好意的な関係性が多少ともなければ、問題の共同コミットメントが成立したはずがない。服従は、そういう情緒的なつながりのなかで準備されるのかもしれません。その意味では、「相手の切実な願いや思いには動かされて当然であり、場の状況によっては、動かされるべきである」(958)という宣長的な発想もまた、人間の共同性に関与していると考えられます。

972. 次回は、ギルバートについての議論を続けつつ、ブラットマンについても少し考えたいと思っています。7月26日に公開する予定です。

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