そういちろうと加奈のまあまあな一日(14)ちゃんとしたレストラン
ちゃんとしたレストラン
先日、商店街の福引で当たったペアのディナー券を使う日が、思ったより早く来た。
有効期限が翌月末だと加奈が気づいたのが、券をもらってから二週間後のことだった。
「そろそろ行かないと期限が切れる」と加奈が言った。
総一郎は「そうだね」と言った。それだけで日程が決まった。
問題は服だった。
レストランの名前で検索してみると、高級そうなフランス料理の店。
写真に映っている客が全員それなりの格好をしていた。
総一郎はクローゼットを開けた。
就職活動のときに買ったジャケットが一着あった。
六年前のものだった。
着てみたら、着られないことはなかった。
加奈に写真を送ると
「大丈夫でしょ。でもそのシャツは変えた方がいいんじゃない」
と返ってきた。
シャツも引っ張り出して、また写真を送った。
「いいと思う」と返ってきた。
当日、店の前で待ち合わせた。
ふたりが時間と場所を決めて会うのは珍しかった。
加奈は紺色のワンピースを着ていた。
似合ってる、と総一郎は思ったが、言うタイミングを探しているうちに加奈が「じゃあ行こっか」と言って店に向かった。
また言いそびれた。
店内に入った瞬間、ふたりは少しだけ歩くのを遅くした。
意識したわけではなく、自然とそうなった。
落ち着いた照明、テーブルには洗練されたクロスが敷いてある。
BGMはジャズっぽいがジャンルはわからない。
もちろん聞いたことのない曲だった。
案内された席に座ると、すぐにメニューが来た。
総一郎はメニューを開いて、値段を見た。
ディナー券がなければまず来ない店だと思った。
次にテーブルの上を確認した。
フォークとナイフが両側に数本並んでいる。
知人の結婚式でフランス料理を食べたことがあるので、外側から順番に使っていくことぐらいは知っていた。
「外側から、外側から」と総一郎は心の中で数回繰り返した。
加奈もテーブルをさりげなく眺めていた。
昔、家族でこういう店に来たことがあると言っていたが、「最近は全然」とも言っていた。
ふたりとも背筋がいつもより少しだけ伸びていた。
やや緊張している。
お互いそのことに気づいていないふりをした。
コース料理を頼んだ。
メインだけ別々に。
総一郎は魚、加奈は肉にした。
しばらくして、最初にスープが来た。
総一郎は外側のスプーンを使った。
合っているはずだった。
たぶん。
アミューズが来た。
一口サイズの何かだった。
何かはわからなかったが、とてもおいしい。
ふたりとも「おいしい」としか言えなかった。
ふたりとも料理にあれこれ講釈を言うタイプではない。
緊張が少しほぐれてきたころにメインの料理が来た。
総一郎の白身魚には淡い色のソースがかかっている。
見た目からしておいしいのがわかる。
フォークを入れると、するりとほぐれた。
予想通り、とてもおいしかった。
ただ、総一郎は食べながら考えていた。
「この料理、マヨネーズをかけたらもっとうまいんじゃないか」
総一郎は、調味料の中で世界一美味しいのはマヨネーズだと思っている。
でも言わなかった。
絶対に言ってはいけないと思った。
加奈にはもちろん、この店の空気に対して。
加奈の肉は、ナイフを入れると静かに切れた。
口に入れると、じわりと旨味が広がる。
これもまた「おいしい」としか言えない。
ふたりは、それぞれの料理をマナー違反にならない程度でひと口づつ分け合って食べた。
「どっちがよかった?」と加奈が聞いた。
「自分のやつ」
「正直だね」
「加奈は?」
「私も自分のやつ」と加奈は言って、またフォークを持った。
デザートはチョコレートのムースで、これも文句なしに美味しい。
食後のコーヒーも悪くない。
少し余韻を楽しんで店を出ることにした。
会計はディナー券でほとんど賄えた。
追加したワイン代を総一郎が払うと、加奈が「次は私が出す」と言った。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
「どうだった?」と加奈が聞いた。
「おいしかった」と総一郎は言った。
「でも、なんか、疲れた」
「わかる」と加奈が即座に言った。
「ずっと背筋伸ばしてた」
「俺も」
ふたりは少し笑って、レストランの感想を言い合いながら夜道を歩いた。
しばらくして、加奈が「お腹空いてない?」と言った。
総一郎は少し考えた。
コース料理をひととおり食べたあとだったが、なぜか物足りない気がしていた。
「定食屋っ!」
二人は同時に人差し指を立てた。
総一郎はスマホで時間を確認した。
九時前だった。
「たぶん大丈夫かな」
「行ってみよ」
定食屋はまだ開いていた。
店に入ると、おやじさんがいつものトーンで「いらっしゃい」と言った。
いつもどおりが落ち着く。
照明は暖かい電球色で、昔ながらの赤いテーブルにはラミネート加工されたメニューが一枚置いてある。
箸と爪楊枝、ソースや塩などの調味料が机の端に並んで置かれている。
ふたりとも、自然と背筋が緩まり肩が落ちる。
総一郎は、肉じゃがとアジフライを、
加奈は、だし巻き卵とおでんのおまかせ五種盛りを頼んだ。
料理が来るまでの間、瓶ビールを一本頼んでふたりで飲んだ。
肉じゃがが来た。
アジフライが来た。
総一郎はアジフライにマヨネーズをたっぷりかけた。
加奈がそれを見て、「さっきの店でもやりたかったんじゃないの」と言った。
正解だったが、認めてはいけないと思った。
総一郎は、少し笑って曖昧にした。
アジフライをお箸でほおばり、ビールで流し込んだ。
「うまっ」
この一口が自分には合ってる気がした。
でも、それは言わなかった。
さすがに、今は言うべきではないと思った。
「楽しかったね」と加奈が言った。
「うん」と総一郎は言った。
それは嘘ではなかった。
「でもやっぱりここが落ち着く」
「そうだな」
加奈もビールを飲んで、だし巻き卵と総一郎の頼んだ肉じゃがをつついた。
おでんが出来たころ、外では風が出てきたのか、ガラス戸がカタカタとかすかな音をたてていた。
おやじさんは、店内の古いテレビで明日の天気予報を見ながら洗い物をしている。
真っ暗になった街の中、古びた定食屋の明かりがぽつんと路地を照らす。
暖かく光る電球が、ふたりの影をゆらゆらと映していた。
ありがとうございました。
やっぱり悪者は出てきませんでした。
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