第九章 観測者だけが固定される不思議|初稿 〜シュレディンガーの猫と観図多義〜
第九章|初稿
観測者だけが固定される不思議
シュレディンガーの猫と観図多義
シュレディンガーの猫という思考実験がある。
箱の中に猫がいる。
放射性物質がある。
検出器がある。
毒ガスの装置がある。
放射性物質が崩壊すれば、検出器が反応し、毒ガスが出て猫は死ぬ。
崩壊しなければ、猫は生きている。
箱を開けるまで、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なっている。
よく、そのように説明される。
もちろん、これは本当に猫をそのような目に遭わせるための話ではない。
量子力学における重ね合わせや観測の問題を、人間が理解しやすい形に置き換えた思考実験である。
しかし、私はこの説明を聞くたびに、昔から少し引っかかっていた。
本当に怪しいのは、猫の生死なのだろうか。
私にはむしろ、箱の外に置かれた観測者の方が怪しく見える。
量子力学を、ごく粗く言えば、観測前の段階では複数の可能状態が重なっており、観測とは、その可能状態の中から一つの現れ方を現実の事象として確定させる相互作用である、と説明できる。
この説明自体は、分かりやすい。
しかし、そうであるならば、なぜ観測される側だけが揺らぐのだろうか。
箱の中の放射性物質は、崩壊するかもしれないし、しないかもしれない。
検出器は反応するかもしれないし、しないかもしれない。
毒ガス装置は作動するかもしれないし、しないかもしれない。
猫は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
そこまでは、可能状態の重なりとして語られる。
ところが、箱の外にいる観測者については、急に固定される。
観測者は箱を開ける。
観測者は中を見る。
観測者は猫が生きているか死んでいるかを確認する。
そして、観測結果は「生」か「死」のどちらかに収束する。
このとき、観測者はどこにいるのだろうか。
観測者は箱を開けるかもしれない。
開けないかもしれない。
別の方法で確認するかもしれない。
何を見たと認識するかも揺らぐかもしれない。
そもそも、何を観測結果として採用するかも、固定されているとは限らない。
本来なら、観測される対象だけでなく、観測者、観測手段、観測行為、問いの立て方そのものにも、複数の可能状態があるはずではないか。
しかし、シュレディンガーの猫では、観測対象である猫や放射性物質には揺らぎを認めながら、観測者と観測枠は、あらかじめ箱の外に固定されている。
ここに、私は違和感を覚える。
もちろん、思考実験には目的がある。
すべての要素を揺らしてしまえば、説明は成立しにくくなる。
観測者を固定しなければ、「猫が生きているか死んでいるか」という有名な構図を作れない。
だから、思考実験として観測者を外に置くこと自体を、単純に間違いだと言いたいわけではない。
むしろ私が面白いと思うのは、その固定そのものが、別の問題を露出させていることである。
観測されるものだけが揺らぐのか。
観測する者は揺らがないのか。
観測手段は固定されているのか。
問いの形式は、最初から一つに決まっているのか。
この問いは、量子力学の専門的な議論とは別に、私の中で長く残ってきた。
それはおそらく、私が以前から持っていた観図多義という考え方に近いからである。
観図多義とは、観る者の「観」と、対象が持つ「図」が交わることで、多義が立ち上がるという考え方である。
対象は、最初から一義的に固定された意味だけを持っているわけではない。
同時に、観る者が好き勝手に意味を作っているわけでもない。
観る者の立場、技量、状態、関心。
対象が持つ構造、文脈、余白、耐久性。
その二つが交わるところに、意味が立ち上がる。
つまり、多義は、観る者だけの問題ではない。
対象だけの問題でもない。
観と図の交点に生まれる。
この考え方から見ると、シュレディンガーの猫で固定されている観測者が、どうしても気になってくる。
観測結果とは、対象だけから出てくるものではない。
観測者の観、観測手段、問いの形式、採用する基準によって、立ち上がる現れ方は変わる。
ならば、猫の生死だけを揺らがせて、観測者と観測枠だけを固定することは、本当に十分なのだろうか。
私はここで、量子力学を否定したいわけではない。
むしろ逆である。
量子力学が、観測前の可能状態と観測による事象化を語るならば、その発想はさらに観測者や観測方法の側にも向けられるべきではないか、という違和感である。
この違和感は、量子コンピューターの説明にもつながる。
量子コンピューターは、よく「0と1だけではなく、その間の状態も扱える」と説明される。
この説明は便利である。
古典的なビットとの違いを直感的に伝えるには、確かに分かりやすい。
しかし、厳密に言えば、量子ビットは0と1の中間値をそのまま持っているわけではない。
0として観測される可能性と、1として観測される可能性を、振幅や位相を含んだ状態として持つ。
その重ね合わせや干渉を計算過程として利用する。
そして、最後に観測すれば、読み出される値は0か1である。
ここにも、同じ構図があるように見える。
観測前の豊かな可能状態を語りながら、最後には人間が扱える固定値へ戻す。
0と1のあいだを語りながら、最後は0か1として読む。
多義的な可能性を利用しながら、結果は一義的な値として取り出す。
もちろん、これは技術としては当然である。
計算結果として扱うためには、読み出しが必要である。
人間やコンピューターが利用できる形にするには、どこかで値として確定させなければならない。
しかし、ここでも私は思う。
豊かな可能状態そのものを、私たちは本当に見ているのだろうか。
それとも、私たちが扱える形式に収束させた結果だけを見て、「分かった」と言っているのだろうか。
この問いは、量子コンピューターの仕組みを疑うためのものではない。
むしろ、情報や意味を扱うときの人間の習性を問うものである。
人間は、揺らぎをそのまま抱えることが苦手である。
可能性が複数ある状態。
意味が一つに定まらない状態。
答えがまだ立ち上がらない状態。
問いの形式そのものが揺れている状態。
そうしたものを、長く抱え続けることは難しい。
だから人間は、答えを求める。
分類する。
固定する。
名前をつける。
0か1にする。
正しいか間違いかにする。
生きているか死んでいるかにする。
そのこと自体が悪いわけではない。
生きるためには、判断しなければならない。
行動するためには、どこかで決めなければならない。
情報を使うためには、形にしなければならない。
しかし、決めた瞬間に、失われるものもある。
問いが持っていた余白。
対象が持っていた複数の現れ方。
観測者自身の揺らぎ。
観測手段の偏り。
問いの立て方が持っていた前提。
それらを置き去りにして、結果だけを取り出すことがある。
観図多義は、この置き去りにされたものを見ようとする考え方でもある。
対象だけが揺らぐのではない。
観る者も揺らぐ。
観る手段も揺らぐ。
問いの形式も揺らぐ。
そして、その揺らぎの交点に、意味が立ち上がる。
量子力学は、対象の不確定性を語った。
しかし観図多義は、対象・観測者・観測手段・問いの形式まで含めた多義性を見ている。
もちろん、観図多義は量子力学ではない。
物理現象を説明する理論ではない。
数式によって実験結果を予測するものでもない。
量子力学の解釈に取って代わるものでもない。
それは、認識や意味や情報加工における、私の見方である。
それでも、量子力学の一般向けの説明に触れたとき、私はどこかで「今更、何を言っているのか」と感じたことがある。
それは、偉そうに物理を理解していたからではない。
観測される対象だけでなく、観る者、観る方法、問いの立て方まで含めて、意味は揺らぐ。
その感覚を、私はずっと前から持っていたからである。
中学生の頃から、私はそのようなことを考えていた。
もちろん、当時の私に、量子力学を正確に理解する力があったわけではない。
観図多義という言葉をきちんと定義できていたわけでもない。
ただ、対象が一つの意味だけを持つわけではなく、観る者との関係の中で複数の意味を開くという感覚は、かなり早い段階からあった。
だから、シュレディンガーの猫の説明を聞いたとき、猫よりも観測者の方が気になった。
なぜ箱を開ける者だけが、そんなに安定しているのか。
なぜ観測する側だけが、最初から外に立っているのか。
なぜ問いの形だけが、あらかじめ決まっているのか。
猫の生死より、箱を開ける者の方が怪しい。
そう感じたのである。
この違和感は、いま考えている情報や生成AIの問題にもつながっている。
生成AIに問いを投げるとき、人はしばしば答えを求める。
しかし、答えは問いの形式によって変わる。
前提の置き方によって変わる。
文脈の渡し方によって変わる。
使う者の状態によっても変わる。
つまり、生成AIが返す答えも、対象だけから出てくるものではない。
問いを立てる者の観と、対象が持つ図と、生成AIという加工手段が交わるところに立ち上がる。
ここでも、観測者は固定されていない。
問う側も揺らいでいる。
対象も揺らいでいる。
道具も揺らいでいる。
問いの形式も揺らいでいる。
その中で、いったん言葉が出る。
いったん答えらしきものが出る。
しかし、それは最終的な真理ではない。
その時点での観と図と手段の交点に立ち上がった現れである。
だから、私は生成AIの答えをそのまま受け取らない。
これは対象が許した言葉なのか。
自分の問いが粗すぎないか。
観測手段としての生成AIが、どこかで一般論に寄せていないか。
自分は何を見ようとしていたのか。
そもそも問いの形式はこれでよかったのか。
そう問い返す。
この態度は、シュレディンガーの猫を前にして、観測者の位置を疑うこととどこかでつながっている。
観測者は、外に固定された透明な存在ではない。
問う者は、答えの外側に立っているわけではない。
観る者の観は、立ち上がる意味に関与している。
だからこそ、観る者は、自分の観を疑わなければならない。
対象だけを疑うのではなく、対象を見ている自分の位置を疑う。
答えだけを見るのではなく、その答えを立ち上げた問いの形を疑う。
結果だけを受け取るのではなく、その結果へ収束させた観測枠を疑う。
そこに、観図多義の意味がある。
多義とは、何でもありということではない。
答えを曖昧にして逃げることでもない。
観る者が好き勝手に解釈してよいということでもない。
多義とは、対象と観る者と観測手段と問いの形式が交わることで、複数の現れ方が可能になるということである。
その複数の現れ方の中から、私たちは一つを取り出す。
一つの答えにする。
一つの文章にする。
一つの判断にする。
しかし、その背後には、取り出されなかった可能性が残っている。
思考とは、そこに残った可能性を完全に捨てないことでもある。
答えを出す。
しかし、答えで閉じない。
観測する。
しかし、観測者の位置を忘れない。
0か1として読む。
しかし、その前にあった可能状態を忘れない。
私が観図多義という言葉で残したいのは、この感覚である。
シュレディンガーの猫は、猫が生きているか死んでいるかを考えるためだけの話ではない。
少なくとも私にとっては、観測者だけを固定してよいのかを考えるための話でもある。
観測されるものだけが揺らぐのではない。
観測する者もまた、揺らいでいる。
そして、その揺らぎを自覚したとき、世界は一義的な答えだけでは閉じなくなる。
*本稿は筆者自身の思索をもとに、生成AIを思考の伴侶として対話を重ね、その過程で得られた整理を文章化したものです。
