映画「ブルームーン」世界が自分抜きで動いていく夜🌙*゚
世界が自分抜きで動いていく夜🌙*゚
イーサン・ホーク、禿げ散らかしてるっ!
会話劇映画として面白かったけど、背景を含めて完全に理解できたかと言われると、難しかった…( *◇ *; )
名作詞家ロレンツ・ハートを描いた一夜の物語。
1943年3月31日、ブロードウェイの伝説的レストラン兼バー「サーディズ」に現れた彼が、バーテンダーやピアニスト、旧知の人々、そして憧れの女性に向かって延々と喋り続ける。
それだけ聞くと地味な映画なのだけど、その喋りが実に魅力的。
ウィットに富み、皮肉っぽく、時にひどく切実で、ずっと耳を傾けていたくなる。
ただ、私にブロードウェイやロジャース&ハートについての知識が圧倒的に足りず、「ああ、これは分かる人にはもっともっと面白いんだろうなあ……!」という悔しさもかなりあった。:( ´ᾥ` ):
それでも、背景を全部理解できなくても、この映画の中心にある感情だけはしっかり伝わってくる。
それはたぶん、かつて時代の中心にいた男が、世界がもう自分抜きで回り始めていることを悟ってしまう夜の哀しさ。
冒頭、ラジオから流れるロレンツ・ハートの訃報
1943年11月、彼は48歳でこの世を去る。晩年はアルコール依存症に苦しんでいたそう。
映画はそこから少し時間を遡り、死の数か月前、1943年3月31日の夜へと入っていく。
その日、かつての仕事仲間だった作曲家リチャード・ロジャースは、新たなパートナーであるオスカー・ハマースタイン二世と組んだミュージカル『オクラホマ!』の初日を迎えていた。(超名作!)
一方ハートは、サーディズのバーに現れ、酒を飲み、人と語り、冗談を飛ばし、毒を吐き、過去と今の狭間で揺れ続ける。
そして聞こえてくる、元相方の初演の大成功のニュース。
派手な伝記映画ではない。
ほとんどが会話で進む、煙と音楽と人の気配に満ちた、小さな一夜の物語――。
劇中の舞台となった「サーディズ(Sardi's)」
今もブロードウェイに実在するレストラン。
壁一面に著名人の風刺画(カリカチュア)が飾られていることで有名。
ハートの絵ももちろん飾られている。
でも、彼は自分の絵が「似ていない」と生前文句を言っていたとか。( ´∀` )
様々な映画やドラマでも使用される有名な店で、トニー賞の創設のアイディアもこの店から生まれたというのだから恐れ入る。

小男・イーサン・ホーク
今作の白眉は、何と言ってもイーサン・ホークの演技に尽きる。
バーコード禿げで、葉巻をくゆらせ、背を丸めて喋り続ける150㎝の小男。

最初、イーサン主演映画なのに、、、出てこないな、、と思っていたら出ずっぱり、会話しっぱなしの小男がイーサンだと気が付いた瞬間の衝撃たるや。。。💦
(「ブラックフォン」で同じようなこと言ってた気がする)
イーサン・ホークは179cmの長身なのに(;´∀`)
特殊メイクにしろ、抜いたり剃った話にしても凄い!
それが、小柄なロレンツ・ハートとしてずっと喋り続けている。
もう憑依しているようだ。
その喋りがとてもいい。
マスターとのカサブランカも洒落てる。
お洒落で、意地が悪くて、頭がよくて、サービス精神もあるのに、小男でハゲおじさん。
必死に自分を保っている感じがある。
誰かを笑わせているようでいて、実は一番笑われたくないのは自分なのではないか。
そんな痛々しさがずっと滲んでいる。
だから表面上は軽やかな会話劇なのに、観ている側にはじわじわと重さが残る。
バーの空気は穏やかで、流れる音楽も美しく、夢のように滑らかなのに、その奥ではずっと「何かが終わってしまった人」の気配が漂っている。
その気配を払拭しようとするように、自分の価値をまだ信じていたい男の最後の踏ん張りが見えて、痛々しいのに目が離せない。
あと個人的に面白かったのは、ハートの身体の見え方。
リチャード・ロジャースと並ぶとき、憧れの女性と話すとき、場面によって彼の小柄さがずいぶん違って見える。
最初は「あれ、こんなに差があったっけ?」と戸惑ったのだけど、観ているうちに、あれは単なる再現ではなく、彼の心の縮み方や自意識の揺らぎが、そのまま身体のサイズに出ているようにも思えてきた。
とはいえ、なかなか日本人には手強い。
もちろん言語の壁だけではなくて、1943年のアメリカの空気、ブロードウェイの文脈、ロレンツ・ハートという人物の立ち位置、ロジャースとのコンビがどれほど偉大だったのか、その後ロジャース=ハマースタイン組がどれほど決定的だったのか……そういう背景知識があるかないかで、味わえる層がかなり変わりそうな作品だった。
でも、だからといって「知識がないと何も感じられない映画」ではない。
そのあたりが、この作品の上手いところでもある。
世界が自分を置いて先へ進んでしまう夜の寂しさだけは、ちゃんと感じてしまう・・・。
以下内容あーだこーだ
可変する自意識と、甘い「毒」の正体
劇中、やはりハートの身体がシーンによって伸縮するように見える演出が面白い。
リチャード・ロジャースと対峙する時、あるいは憧れの女性エリザベス(マーガレット・クアリー!『サブスタンス』思い出しちゃう)の前で、彼は時に10歳の少年のように小さく、無力に見える。
それは単なる物理的な身長差の再現ではなく、彼の内面にある「愛されたい」という渇望と、「自分はもう不要なのではないか」という恐怖が、そのままスクリーンに滲み出ているようにも見えた。
自意識が傷つくたびに、彼の身体もまた小さく縮んでいく。そんなふうに見えてしまうのが、この映画の切ないところだ。
特筆すべきは、『ブルー・ムーン』の誕生秘話に漂う皮肉。
もともとは『The Bad in Every Man(すべての男の悪いところ)』という、いかにもハートらしい毒気を感じさせるタイトルだった。
ハートは3回も歌詞を書き直し、3回ともボツになった末、4度目にようやく『Blue Moon』へたどり着く。
最初は祈りの歌、次はハリウッドへの皮肉……。
彼がどれほどこの「無害な名曲」にするために自分のプライドを削ったかが分かる。
その結果生まれたのは、彼の代表作となる大ヒット曲。
甘くロマンティックな『Blue Moon』。
けれどそれは同時に、彼自身が本来持っていた棘や屈折や苦味が、より“受け入れられやすい形”へ整えられていったことの象徴にも見える。
Blue moon
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
青い月よ、君は見ていたね
たったひとりで立ち尽くす僕を
心に抱く夢もなく
自分のものと呼べる愛もなく
この歌詞を、彼自身の孤独な魂の独白として聴くとき、スタンダードナンバーとしての甘い輝きは一変する。
ラブソングであるはずの曲が、届かなかった幸福の残響のように聞こえてくるようだ。
『オクラホマ!』への悪態は、作品批評というより時代への悪態
ハートが『オクラホマ!』をこき下ろす場面は、とても印象的だ。
本当に作品そのものへの批評だったのかというと、少し違うだろう。
むしろ彼が腹を立てているのは、『オクラホマ!』そのものというより、それが象徴している「新しい時代」なのだ。
かつて自分と組んでいたリチャード・ロジャースは、今やハマースタイン二世と組み、分かりやすく、よりアメリカ的で、より大衆に愛される作品で喝采を浴びている。
それは単なるヒットではなく、ブロードウェイの潮目そのものが変わっていく瞬間だった。
ハートはその変化を誰よりも鋭く理解してしまっている。だからこそ、あれほど辛辣になる。
つまり彼の毒舌は、「この作品はつまらない」という単純な話ではない。
もう自分の美意識が時代の中心ではなくなってしまったことへの、悔しさと怯えと嫉妬がないまぜになった言葉なのだと思う。
本当は彼だって分かっている。
『オクラホマ!』が成功することも、これから先のスタンダードになっていくことも。
だからこそ悪態は鋭くなる。
理解できないから罵るのではなく、理解できてしまうからこそ呪うしかない。
そこが絶妙で苦しい。
単なる負け惜しみではなく、自分を置いて先へ進んでいく時代そのものに対して、どうしようもなく取り残される側の痛みがにじんでいた。
「無害な芸術なんて誰が欲しがる!!」作詞家としての矜持
ハートの「無害な芸術なんて誰が欲しがる」という言葉も、単なる皮肉や酔っぱらいの捨て台詞では終わらない。
あそこには、彼が言葉を書く人間として抱いてきた、かなり切実な信仰がにじんでいる。
ハートの言葉には、甘さだけではなく、いつもどこかに棘や屈折や苦味がある。
人をただ気持ちよくさせるだけではなく、少しざわつかせたり、可笑しさの裏に寂しさを残したりする。
ハートにとって芸術とは、そういうものだったのではないか。
ただ美しく整っているだけでも、ただ万人に届くだけでも足りない。
少しくらい毒があって、危うさがあって、受け手の心に引っかかるものであってほしい。
そうでなければ芸術は、単なる“消費しやすい商品”になってしまう。
だから彼が嫌っているのは、明るさそのものでも、ヒットそのものでもない。
芸術から棘が抜かれ、複雑さが削がれ、誰の心も波立たせないものとして歓迎されていくことなのだと思う。
そして苦いのは、そのハート自身もまた、商業の世界でヒット曲を書いてきた人間だということだ。
『Blue Moon』の誕生秘話が象徴しているように、彼もまた「届く言葉」「売れる言葉」に合わせて自分の表現を調整してきた。
つまり彼は、文化産業の外からきれいごとを言っている芸術家ではない。
売れることと残ることは違う、愛されることと刺さることも違う、という、作詞家としての意地と諦めの両方が詰まった一言なのだと思う。
では、なぜ今この作品を作ったのかを考えてしまう。
ハートが抵抗していたのは、ブロードウェイが『オクラホマ!』のような作品で溢れ、ただ大衆に最適化され、誰も傷つけず、心地よく消費されていくエンターテインメントへと変化していくことだったのかもしれない。
もちろんそれは1943年のブロードウェイをめぐる感情なのだけれど、今の時代から見ると、どこかAI生成コンテンツをめぐるエンターテイメント産業の不安とも重なって見える。
完璧で、無害で、滑らかで、誰にでも届くもの。
そうしたものが歓迎される時代の中で、不完全で、棘があって、少し扱いにくい人間の表現は、これからどう生き残るのか。
ハートの吐く毒は、単なる負け惜しみではない。
それは、「人間が作る芸術には、毒や歪さや、説明のつかない引っかかりがあってほしい」という、切実な矜持にも聞こえる。
だからこそ、1943年の夜に吐かれたその毒が、2026年を生きるこちらにも妙に刺さってくる。
時代遅れになっていく人間の哀しさと、それでも最後まで手放したくない美意識。
その両方が、切なくも愛おしい。
完璧には理解しきれなかったのに、なぜか忘れがたい。
もっと理解できるようになったら再鑑賞したい映画でした。
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