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映画「ロングウォーク」時速3マイルは、現代社会の速度

50州対抗歩け歩け大会開催✨


原作既読

スティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で発表した小説『ロング・ウォーク』の映画化である。
キングが大学時代に書いた初期作品とされ、1979年に刊行された。
日本では長らく入手しづらい時期があり、中古市場でも高値で取引されていた作品でもある。
(一時期は3万円とかになっていた(;´∀`))

映画化もあって復刊しました!
ありがとうありがとう。

私も大学生の時に借りて読んだ。
非常に面白いのに、同時にとんでもなく疲弊する作品だった印象。


今作は、何度も映画化の話が持ち上がりながら、そのたびに頓挫してきた経緯がある


理由はシンプルで、「ただ歩き続けるだけ」というあまりにも単調な構造ゆえに、映像作品として成立させるのが難しいと考えられてきたからだ。
企画は動いては止まり、ジョージ・A・ロメロやフランク・ダラボンと監督候補の名前が挙がっては消え、長らく“映画化困難作品”として扱われてきた。

やっとの映画化なのです。
・・・それなのに、日本は劇場の上演回数が少なくて悲しい
( ;∀;)



物語の舞台は、近未来のアメリカ


若者たちは年に一度開催される「ロングウォーク」に参加する。
ルールは単純。
時速3マイル(約4.8km/h)で歩き続けること。
速度を落とすと警告。
警告が3回たまると処刑される。
一時間真面目に歩けば警告は1つ消える。

そしてゴールはない。
最後の一人になるまで、歩くことをやめられない。



ただ歩くだけ

原作では100人の少年たちが参加する競技だったが、映画版ではアメリカ50州から一人ずつ代表者が出るという設定に変えられている。

さらに歩行速度も、原作の時速4マイル(約6.4km/h)から、時速3マイル(約4.8km/h)へと落とされたが、それも制作に関わるキング本人の要望だったそうだ。


今作に着想を得て、日本では「バトルロワイヤル」が作られたように、デスゲームの原点といわれる今作。
それでも、参加者同士で殺し合いや、足の引っ張り合いを行うことはない。
そんなことをしていたらペナルティで自分が死ぬ。
参加者たちは、ひたすら道路の上を歩き続ける。

けれど、不思議なほど目を離せない


画としては単調である。
面白いというのを迷うほど参加者の状況は苦しいのに、映画としては成立している。

それはたぶん、この「歩く」という行為が、あまりにも人間の生に近いからかもしれない。

1970年代に書かれた原作には、背景にベトナム戦争や、若者たちが国家の都合で死地へ送られていく時代の空気が色濃く影を落としていた。

今作はその寓話を、かなり現代的なものへと置き換えていたように思う。
多種多様な人種がでてくるのもそのためだろう。

アジア系の彼は、「ベストキッド・レジェンズ」のベン・ウォンでにっこり。
非常に良い役だった(*‘∀‘)

ラストの改変には賛否あるのかなとは思うけど、私はとても現代的な作品になっていたと思う。


以下内容あーだこーだ




なんだかんだキング原作映画は今年三作目✨
凄いなあ。

踊ったり走ったり歩いたり(´∀`*)










ロングウォークを行う意義


冒頭で少佐の口から語られる開催意義。

戦争によって荒廃したアメリカ。
経済的な苦境。
落ち込んだ生産性。
少佐はその原因を「怠惰という病」だと言う。

この競技は、単なる残酷な見世物ではない。

若者たちが死ぬまで歩く姿を全国に放送することで、国民に勤労意欲を取り戻させる。
参加者たちの苦痛を教材にし、それを見た人々に「もっと働かなければならない」と思わせる。
国家による労働プロパガンダなのである。

若者たちの命で、GNPを押し上げる。


映画版では歩行速度が落とされていること

原作では時速4マイル(約6.4km/h)。
映画版では時速3マイル(約4.8km/h)。

平均的な歩行速度が時速4~5㎞と思えば、原作の時速4マイルは、普通に歩くにはかなり速い。
競歩に近い速度であり、若者たちは最初から無理なペースで駆り立てられていた。
執筆時期から原作はベトナム戦争の徴兵制の寓話と言われるが、その速度はとてもわかりやすい。

若者を戦場へ駆り立てる速度。
それが、原作の4マイルだったのだと思う。


一方、今作映画版の3マイルは、かなり普通の歩行に近い。
走らされているわけではない。
特別な能力や体力を求められているわけでもない。
ただ歩き、前に進むだけ。


だが、休めなければ人は壊れる

眠れない。
止まれない。
排泄という、人間にとって当たり前の行為ですら自由に許されない。

よく、「嘔吐(ゲロ)」がある映画は名作になりがちというが、今作ではゲロ以前に放尿や下痢便を歩きながらビチビチと振りまく。
映画史上こんなにも排泄に向き合った映画も珍しい(;´∀`)
参加者に女性をいれなかった理由を感じてしまう。


警告を受けても、一時間真面目に歩けば一つ消える

そのルールだけ見れば、公平で、合理的で、やり直しも効くように見える。
アメリカ社会の失敗しても復活できることを美談に描くようなものかなと思う。
けれど、いつ警告が死に変わるかわからない緊張の中で、正気を保ち続けること自体がすでに異常である。


原作が、若者を戦場へ駆り立てる国家の寓話だったとするなら、現代に映画化した今作は、普通に生きるだけで人を擦り減らす現代社会の寓話になっていたように思う。


疲れている人間に必要なのは、本来なら休息のはず

けれど、この国では休むことが「怠惰」と呼ばれる。
止まることが罪になる。
そして、止まった若者は殺される。


参加者は、お互いを憎んでいるわけではない

50州から集められた彼らは、アメリカそのものの縮図のようにも見える。
配られたドッグタグに刻印されたナンバーは州の数字でもある。
冒頭で渡される時にナンバーが飛んでいたように見えるのは、勝ち組の州から参加者が居なかったのかしら。
50人本当にいたのかな、、?という気持ちになる。

とはいえ、本来なら同じ国に生きる人間同士であり、協力し合えるはずの隣人たちである。

それなのに、制度が勝者を一人だけにする

普通のデスゲームなら、足の引っ張り合いや裏切り、殺し合いが物語を動かすはずだ。
途中で誹謗中傷で揶揄したヤツはいたけど、そんな結果になるなんて思わなかった、、、と思うところまで現代らしい。

ルール的には最後の一人になればいいのだから、開始早々に潰し合いが起きてもおかしくない。
とても寓話めいている部分である。

だが、『ロングウォーク』では、彼らは友達になる。
友達になってしまう。
冗談を言い、励まし合い、夢を語り、家族の話をする。
隣を歩く相手の痛みに寄り添う。


つらい(ノД`)・゜・。

誰かが死んでも、立ち止まることは許されない。
さっきまで自分の夢や過去を語っていた相手が撃たれても、残された者はその場で悲しむことしかできない。

隣人は敵ではない。
でも、隣人を長く悼むほどの余裕もない。
次の瞬間には日常がやってくるようだ。
その感覚は、あまりにも現代的だった。


最初の脱落者が撃たれる場面も印象的

あの瞬間まで、参加者たちにはどこか現実感がない。

銃口から「BANG!!」と書かれた紙が飛び出して、
少佐が「エイプリルフールだ!!」と言って、みんなで笑って帰れるのではないか。。。?

そんな冗談のような空想が出てくるほど、彼らはまだこのルールを本当の現実として受け止めきれていない。
けれど、最初の死が起きた瞬間、世界のルールが確定する。
最初の脱落者だけ、一番リアルな頭部の人体破壊をこれでもかと見せてくるのも、そのショックの視点もあるのだろう。

でも、観ていて恐ろしいのは、その後かもしれない

最初の死はあれほど衝撃的なのに、20人、30人と脱落していくうちに、少しずつ麻痺していく。
名前も知らない参加者の死は、いつの間にか「また一人減った」になってしまう。

沿道の人々もそうだ。

何度目の開催のレース。
誰かが死ぬことに慣れている。
傍観者として感情もなくただ見つめる。

最後に誰が勝つのかだけが関心事である。
苦痛の過程には関心がないのに、ゴールの瞬間だけ称賛する。
その無関心さは、現代への皮肉でもあるのだろう。


ラストの改変

原作のラストは、勝者が正気を失ってしまったようにも、PTSDによって完全に壊れてしまったようにも読める、不穏で曖昧な終わり方だった。

映画版では勝者ピーターは、少佐から「望み」を聞かれ、銃を求める。
しかも、ただの銃ではない。
兵士が持っている、カービン銃である。

ピーターが欲しがったのは、景品としての武器ではない。
自分たちを追い立て、友人たちを撃ち殺してきた暴力の道具そのものだった。

勝者には何でも望みを叶える


自分たちを殺してきたものを、自分の手に取り返すために、その願いを使う。

そして彼は、カメラの向こうにいる人々へ叫ぶ。
見ろ。目を逸らすな!
「Focus! Focus, boys! Focus」

レース中、「Focus 」は参加者たちが自分を保つための言葉だった。
痛みや眠気や恐怖に呑まれないため、集中して歩き続けるための言葉だった。

その言葉が観客に向けられる

歩かされていた若者たちではなく、それを見ていた者たちこそが、集中しなければならない。
誰かが死ぬことに慣れ、最後に誰が勝つのかだけを眺めていた人々こそが、この光景から目を逸らしてはいけない。

少佐は「世界中が見ている」と制止するために言うが、
むしろ、世界中が見ているからこそ、彼は撃つ。

これはレイのためだ。
その言葉とともに引き金が引かれる。

少佐は、この競技の顔である。
若者たちを駆り立て、死ぬまで歩かせるシステムの代表者であり、観客に向けて物語を与える存在でもある。

けれど、彼はシステムそのものではない。
あくまで末端であり、看板であり、誰かがそこに置いた顔でしかない。

その少佐を殺すことに意味はあるのか。

友を殺され、仲間を殺され、自分自身も歩かされ続けた者が、その怒りを少佐へ向けることは理解できる。
むしろ、あの場で彼を撃つことは、唯一残された抵抗だったのかもしれない。

国家はピーターを「勝者」として消費したかった

努力の象徴、勤労意欲の教材、国民を奮い立たせる美談。
死者たちの上に立つ一人の英雄。

しかしピーターは、その物語に乗らなかった。
彼は勝利の瞬間を、復讐と告発の瞬間に変えた。

原作が「歩き続けることそのものの狂気」で終わる物語だとすれば、映画版は「殺すことで本当に終われるのか」を問う物語になっていたように思う。


私はこの改変はかなり現代的だったと思う。

そして私たちは、それを見ていた。



蛇足な余談🐍⸜( ¯⌓¯ )⸝🐍

少佐の演説には、どうしてもMAGA的(Make America Great Again)な響きを感じてしまう。

Amazon何でも売ってるな~。


「かつての栄光を取り戻す」
「再び世界一になる」
「怠惰という病」

この言葉の並びは、トランプ以降のアメリカ政治を知っている観客には、かなり露骨に聞こえる。
もちろん、本作を単純なトランプ批判だけに回収するつもりはないのだろう。

けれど、近年の原作者S.キングがトランプに対してかなり明確な批判を続けてきたことを思えば、この読みを完全に切り離すことも難しい。
(新作とか露骨にトランプ批判だし、、(;´∀`))


さらに2017年には、キングがトランプにTwitterでブロックされたことも話題になった。
その後、トランプによるTwitterブロックをめぐっては、Knight First Amendment Institute と複数のユーザーが修正第1条違反だとして訴訟を起こし、連邦地裁はトランプ側のブロックを違憲と判断している。
キング本人が原告だったわけではないが、当時のSNS空間における政治的な空中戦を思い出させる話ではある。


そういう意味に於いて、現代アメリカの復古ナショナリズムと、自己責任型の労働倫理を重ねているように見えちゃうのね。

国が疲弊している原因を、制度や戦争の責任ではなく、「怠惰な国民」のせいにする。
そして、若者たちの苦痛を国民に見せつけ、「もっと働け」と鼓舞する。


我が国を含め、多くの先進国に向けた話なのかもしれない。
止まるな。働け。生産しろ。
号令の先で、誰が倒れている。

今作は、その足元を見ろと言っている映画だった。





原作の速度で5日間歩き続けた場合、移動距離は約500マイル、約805kmになる。
映画も近い感じになっていたけど、無理がある(;´∀`)
途中から裸足になってたし。

120時間眠らず、時速6km以上で歩き続けるなど、もはや人間の耐久というより国家による肉体破壊実験よ。

映画版の速度でも2-3日で全員脱落しそうだけど、短くなりすぎるので、根性だしすぎてた気はする。。。(つд⊂)




根性難しい🐱
走って発電する機械で学ばせたい気もする
👹

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