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映画「名無し」すべての空は繋がっている


冒頭、ファミリーレストランで宗教勧誘を受ける佐藤二朗の顔を見た時点で、胸に込み上げてくるものがあった。
そのあと地獄絵図が始まるので、本来は「怖っ……」となるべき場面だったと思う。
でも、その顔に刻まれたもの、抱えてきたものを感じてしまって、切なさや悲しみを感じてしまった。

地獄を顔面に宿す、圧倒的な怪演だったと思う。

今作は、佐藤二朗が初めて漫画原作を手がけ、自ら主演・脚本も務めたサイコバイオレンス作品である。

物語は、昼下がりのファミリーレストランで起こる凄惨な殺人事件から始まる。


中年男が人々を次々と殺傷しているように見えるのだが、防犯カメラに映る男の右手には凶器らしきものが見えない。
警察は捜査を進めるが、事件は異様な様相を帯びていく。


原作漫画全三巻、既読


映画は、漫画とは設定も人物の配置もかなり違う。
漫画を読んでいる方が少しだけ足場を得られるかもしれないが、映画は映画で別物として組み直されている印象だった。

そしてこの映画、ネタバレなしで語るのがなかなか難しい。

なぜなら、ほぼ予告どおり
「佐藤二朗が商店街無双する映画」
になってしまうからである。

それはそれで間違ってはいない。
だけど、それだけで済ませられない作品になっていた。



序盤から容赦なく人が傷つき、倒れていく


PG12で大丈夫なのかと少し思うほどの描写もあるので、痛々しい暴力描写が苦手な人にはなかなか厳しい映画なのかもしれない。

説明もかなり少なく、空白も多い。
人によっては不親切に感じるかもしれないし、多分評価が分かれる作品だろうなあと思う。
とはいえ、不親切さも含めて、意図的だったように思う。

ニュースで凄惨な事件を見たとき、私たちは加害者の人生をすべて知ることはできない。
報じられるのは事件の結果であり、被害であり、断片的な過去である。

今作は、その空白を感傷や同情で埋めようとはしない。ヒーローに仕立て上げることを徹底的に避けた。
むしろ、空白のままこちらに差し出してくる。
その突き放し方は、鑑賞者を試すようでもあった。

とてつもなくしんどい(;´Д`)
万人に薦められる作品ではない。
重たいお土産を持たされる映画だなあと思った。

以下ネタバレあーだこーだ



佐藤・・・鈴木・・・山田・・・あと田中かぁ?


2もたのしみね(*´ω`*)









原作漫画との違いで一番気になったのは「名前」だった

映画では、身元不明の少年と少女に、巡査が「山田太郎」と「山田花子」という名前をつける。
映画だけを観ると、いかにも適当につけた名前であり、名無しだった子どもたちに、とりあえず社会へ登録するための名前を与えたようにも見える。

けれど、漫画では少女の名前は山田花子ではなく、里中サト子と名づけられる。
「山田太郎」は適当につけたのではなく、巡査が好きな漫画『ドカベン』の山田太郎と里中智、明訓高校の名バッテリーから取られている。
適当ではなく漫画のヒーローの名前を与えたのである。

おそらく無差別殺人者に『ドカベン』由来の名前を背負わせることは、映画では難しかったのかもしれない。
漫画版も『ド〇ベン』と伏字で語っているし、そのあたりの事情もあったのだろう。
けれど、この変更によって名前の意味が大きく変わってしまったように思う。
名無しだった子どもに物語の主人公の名前を渡すのと、適当には大きな差を感じてしまう。

そして皮肉なことに、映画では「名前」が命に関わる。
(映画版で付随された設定)
名前は本来、その名前を呼ぶことで人と人を繋ぎ、個人として認めるためのもの。
けれど山田太郎にとって、名前を知ることは、相手の命を奪うことに繋がってしまう。

その反転が、とても残酷だった。


手もまた人と繋がるためのもの

誰かと手を繋ぐこと。
誰かに触れること。
助けを求めて手を伸ばすこと。
人と人が繋がるための、当たり前の行為である。

けれど山田太郎の右手は、触れたものの命を奪ってしまう。

この右手の設定は、かなりファンタジーである。
何をどこまで消せるのか。
なぜ反射や映像を通すと見えるのか。
細かく考え始めると、疑問はいくらでも出てくる。
だが、SF的に検証するための能力ではないのだと思う。

外から見えない、他人には見えない狂気と凶器。
山田太郎の右手は、そういうものの比喩として見えた。心の中で怒りや絶望や孤独が握られている。
それは無差別殺傷事件や銃乱射事件の手前のように。

反射や映像を通すと見えるという設定も、別の角度で見る、違う方向で光を照らす必要性を描いていたのかもしれない。

山田太郎は、最初から怪物だったわけではない
児童養護施設で育ち、山田花子と二人で暮らし、社会の隅でどうにか生きようとしていた。

漫画では、生活保護を求めたが断られる二人の姿が描かれている。
そもそも、漫画版は山田太郎は普通に会話ができ、制度に頼る知識も行動力もあったにも関わらず、社会が冷たく拒絶する姿を描く。

一方、映画では社会との繋がりは明確には描かれない。
右手の能力を使って万引きをしていたことは、社会に拒まれたというより、そもそも社会に助けを求める言葉や手段を持てなかったように見える。
彼らは、助けの求め方や、支援への手の伸ばし方すら知らないまま、間違った方法で生き延びてしまった。
社会的弱者としてより強調されていたと思う。


どちらにしても山田太郎がハードモードである

思い出される漫画スヌーピーの名言

ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」           

(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。) 

 

スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …
whatever that means. 」       

(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。)

チャールズ・M・シュルツ 1986年「ピーナッツ」より

確かにとても格好いいと思うし、好きな言葉である。
だけど、裏を返せば自己責任論の塊の言葉なのね。
どんなカードを配られても本人の努力でいかようにもなる。
そもそも、こんな言葉をスヌーピーに言わせなければならなかった1986年のアメリカですら、「そうではない時代がやってきたからこそ」描かれたのかもしれない。
さらに2026年の現代に当てはめたとき、その言葉はまた凶器になるのかもしれない。




山田太郎の初期カードがハードモードすぎる
親もない、名前もない。
右手は死神仕様。
人と手を繋ぐことも、普通に触れることもできない。
まともに話すことも出来ない。
しかも、その初期に配られたカードの使い方を教えてくれる大人も、自分の所為で失ってしまう。


ものすごく苦しい。
佐藤二朗の極限まで人間を追い詰めようとする思考実験に心を削られる。

万引き未遂以降、こんな惨めな生活は続けられない、もう右手で触って殺してほしいと願う花子に太郎は、なんとか堪える。

二人でいたから、なんとかギリギリ耐えてこれた
太郎は仕事もはじめ、その後、彼女の妊娠によって、ほんの少しだけ世界と繋がろうと努力をしていた。

出産予定日の12月8日を待ちわび、産まれてくる子供の名前に悩み、カレンダーに印をつけ、中古のベッドメリーを買って帰る。
商店街を歩む足取りの軽さ。
そんなに大股で急いでないのに、一歩で進む距離がグンと伸びているように見える演出が、太郎の家路を急ぎ喜ばせたい気持ちが詰まっていた。

右手で人を殺してしまう男が、それでも父親になろうとしていた。
自分の子どもが生まれることだけが、彼を人間の側に繋ぎ止めていたのかもしれない。
やっと、人並みに社会と繋がれるかもしれない希望。

けれど花子は臨月で姿を消す
カレンダーの「げんかい バイバイ」の文字は、それまで太郎だけを映し、太郎が浮足立っていたことで世界が良い方向に進んでいると思っていた私の気持ちに冷や水を浴びせる。
太郎の右手のことばかり気にして、ずっと横になっている花子の心は何も見ていなかった。


そして十年近く経ったあと、再会した花子から「子どもはおろした」と告げられる。
山田太郎のような力が遺伝したら困る。
生きている意味がない。
彼を世界に繋ぎ止めていた最後の糸が切れてしまう。

もちろん、それで誰かを殺していいわけではない。

でも、山田太郎が世界を諦めてしまったことは嫌と言う程、理解させられる。
ただの純粋悪なのか?ジョーカーなのか?と言われたら違うだろうと思えてしまうくらいギリギリの線を見せる。


今作には「空」と「神様」が何度も出てくる

山田太郎の描く空は黒い。

国枝の父である巡査は、山田太郎の黒い空を見て「うちの息子も空を黒く描くんだよ」と話す。

山田太郎の黒は、神なき世界への絶望に近い。

けれど国枝少年の黒は、世界への呪いではなかったように思う。
大人たちが「空は青い」と決めているものを、別の色で見る自由な感性。
多様性や可能性のような黒だったのかもしれない。
そして巡査である父は、その黒を否定しなかった。

彼は、空を黒く描く子どもに、「青く描きなさい」とは言わない大人だった。
だからこそ、山田太郎の黒い空にも寄り添えたのだろう。

だが、国枝父である巡査は山田太郎を助けたことで死んでしまう。
(鬼畜の追い詰めぶり(;△;))


同じ黒い空を見た二人は違う場所へ行った
国枝は刑事になり、山田太郎は人を殺す側に落ちた。

もちろん、二人が同じ条件だったとは思わない。
国枝も父を失った傷を抱えているが、それでも社会の中に居場所を作ることができた。
努力で踏みとどまった人でもあり、同時に、最初に配られたカードが山田太郎よりは良かった人でもある。

だから国枝の「神様なんかいない」は、ただの絶望ではなく、自分の足でここまで来た人の言葉にも聞こえる。
神に頼らず、自己責任でここまできた。
自分で立て。
そう言える側に、彼はいる。

だが山田太郎は、そもそも立つ場所すら危うかった。その違いを、本人の努力だけで片づけられるだろうか。

山田太郎は、最後に自分の息子と出会う
花子は子どもをおろしていなかった。
自分たちが育った養護施設に、生まれた子どもを預けていたのだ。

彼が失われたと思い込んでいた未来は、本当は生きていた。けれど、それを知るのは、すべてを壊したあとである。
あまりにも遅すぎる。

花子の考えは徹頭徹尾描かれないので、想像するしかない
彼女はきっと、山田太郎と一蓮托生の人生を歩むつもりだったのだろう。
けれど妊娠し、子どもができたとき、太郎と生きることより、我が子を守ることを選んでしまったのではないか。

嬉しそうに子どもの名前を考える太郎の姿は切ない。
幸せの絶頂であると同時に、この先、彼自身の右手が子どもの命を奪ってしまうかもしれない可能性をつくる矛盾を抱えた姿でもある。

花子は、自分が消えることは、どれだけ太郎を傷つける行為なのかわかっていたはずだ。
それでも、太郎のそばにいる女であることより、子どもを守る母であることを選んだのかもしれない。

山田太郎は息子と手を繋いで死ぬ
誰ともまともに手を繋げなかった男が、最後に自分と同じ右手を持つ子どもと繋がる。
それは罪を償わずポックリ逝けた彼にとって、唯一の救いだったのかもしれない。

でも、残された少年にとってはどうなのだろう。

父親を殺した手。
父親と同じように世界からこぼれ落ちるかもしれない手。
負と貧困の連鎖のカード。

山田太郎は赦されない。
どれだけ悲惨な人生だったとしても、誰かを殺していい理由にはならない。
「仕方ない加害者」はいてはいけない。


その一線を守りながら、それでも思ってしまう

山田太郎を生んだ世界は、このままでよかったのか。

今作は、加害者を同情で許す映画ではない。
けれど、「ただのクズ」として片づけることも許してくれない。

その間に立たされるから、しんどい。

見えない右手に握られていたものは、包丁や金属バットだけではなかった。
怒り、孤独、諦め、世界への呪い。
それらは、事件が起きるまで誰にも見えない。

見えないものは、無いものとしていいのだろうか。

「もし神様、暇してるなら、俺と手を繋ごうよ。」

山田太郎のその言葉は、神への恨みであり、祈りでもある。けれど私には、その「暇してるなら」という言葉が、「余裕のある側」への呼びかけにも聞こえてしまった。

暇がある者。
余裕、余剰、階層格差。
神様のように高い場所から世界を見下ろせる者。
そういう場所にいる人たちが、下の者を見えないものにしていないのか。
上位層の余裕が出来るのを待っても、一向にこぼれ落ちてくることはなかった。
(トリクルダウンなんて幻想だったわけですし(-_-;))
そうではなく人間として繋がり、手を繋げる距離に格差を平らにすること。


ラスト、少年は空に向かって唾を吐く

神様への反抗にも見える。
けれど、「天に唾する」という言葉の通り、その唾は結局、自分に返ってくる。

そして、その唾は少年だけに返るものなのだろうか?

見えないものを見ないままにして、安全圏で「自分には関係ない」と構えている社会の上にも、いつか返ってくる。
支援や保護なんて構えなくても、結局いつか無視をしていると、自分達の首を締めるかもしれなき。

別の山田太郎を生み出すのも、また社会(神)なのだ。

そうであって欲しくないと願いを感じる映画だった。




余談あーだこーだ

それにしても・・・・
二朗さんは、佐藤、鈴木、山田と、平凡苗字をコンプリートしてるね(;´∀`)
(佐藤は元々だった!)
次は田中一郎?(R君!)

今作、佐藤二朗史上、1番セリフ少ないんじゃなかろうか。
それでも、取り乱した時の動きと表情が、ちょっとだけ福田組が顔をだすのが狂気と笑いは紙一重なんだなあ、みたいな気持ちになってしまう。

佐々木蔵之介のことは好きなのだけど、刑事役をすると最近大袈裟というか、妙に激しいキャラ作りばかりで、コント味がして勿体ないなぁ~。
渋い役より、柔らかい役の方が個人的には好きなのだけど。
もっと演技の幅があると思うのに、演出のせいかしら。


今作で、巡査役の丸山隆平さんが凄かった。
絶妙にやる気のない警察官っぽかったし、映画では適当に名前をつけたあたりまでは職務上の責任だけだったのかもしれない。
途中から親身になるのは、黒い空を見て息子と同じものを感じたから、、とも思えるけど、今作唯一くらいの良心、肉親としての父と、名付けの父という二つの父性になれていたとおもう。

MEGUMIの花子の濡場は、もう監督の趣味の領域ではないのだろうか。
ちゅぴちゅぱ激しいのは監督の癖なの?(*/∀︎\*)
花子に関しては掴みどころが難しいのだけど、手を使わないでと言いながら、実験をして強化させていたようにも見えたのは、子供だからこその残酷さということなのだろうか。


以下、楽屋オチの思考実験。
結局どうしたらよかったのか。
現実にあったら右手は完全に怪異譚だし、役所の窓口も困る。

でも、それでも考えてしまう。
山田太郎の右手は、本当に人を殺すだけの手だったのか。
命を奪うことが避けられない場で、苦痛を減らす手にはなれなかったのか。
屠殺の現場や、本人の意思が確認された終末医療の場など、使い方次第では救いの手になれたのかもしれない。
強すぎる力だからこそ、社会の側に管理と倫理と接続ができたら、生きる場所があったのかもしれないと余計なことを考えてしまう。

(偽名を使っているかどうかの首実検みたいに使えちゃうね。当たってた段階で死ぬけど。。。:(´◦ω◦`):)


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