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信号機は、誰の死を待っているのだろう

人はなぜ死んでから学ぶのか

       境界線ノート|ランポのさんぽ


昔、警察官が営業所へ安全講習に来たことがあった。

雑談のような空気の中で、その人は言った。

「信号機は高いんですよ」

細かな数字は忘れた。

ただ、

一基設置するのに一億円を超えることもある。

そんな話だった。

そして続けて言った。

「死亡事故が起きた交差点には、信号機が設置されることが多いです」

当時の私は、

そういうものなのか。

くらいにしか思わなかった。


だが最近、その言葉が妙に頭に残る。

なぜなら、

人生のあちこちで同じ景色を見てきたからだ。


昔、私は労働組合の会議で言った。

路線便の大型トラックにもバックモニターを付けてほしい。

会社の回答は明快だった。

「バックする機会が少ないから必要ない」

数字だけ見れば正しい。

集配車両ほど頻繁にバックしない。

コストもかかる。

だから導入しない。

合理的な判断だった。

少なくとも会議室の中では。


だが数年後。

営業所内でバックしていた大型トラックが同僚をはねた。

亡くなった。

その後、会社は順次バックモニターを導入した。


危険は事故によって生まれたのだろうか。

違う。

危険は最初からそこにあった。

事故によって、

見えるようになっただけだ。


最近、私は別のことを考えている。

吹田ジャンクション付近で発生するデジタコの誤判定だ。

高速道路を走っているのに、

機械は一般道を走っていると勘違いする。

警告音が鳴り続ける。

それを止めるには、

運転中に液晶画面を操作しなければならない。

会社は言う。

ながら運転は禁止。

スマホは禁止。

脇見は禁止。

かもしれない運転をしなさい。

その一方で、

数字は揃えなさい。

点数は下げるな。

そんな空気も存在する。


私は不思議だった。

なぜ誰も、「その操作中に事故が起きるかもしれない」と思わないのだろう。


運転者には、

子供が飛び出すかもしれない。

前車が急停止するかもしれない。

バイクが死角にいるかもしれない。

そう教える。

ならば、

組織も考えなければならない。

画面操作中に前方の異変を見落とすかもしれない。

片手運転になるかもしれない。

注意が散漫になるかもしれない。


しかし、

その「かもしれない」は数字にならない。

事故報告書にも載らない。

統計にも残らない。

まだ起きていないからだ。


ここに一つの境界線がある。

想像された危険。

証明された危険。


想像された危険は軽い。

証明された危険は重い。

人は後者に予算を出す。

組織は後者で動く。

社会は後者でルールを作る。


だが私は思う。

その境界線の上には、

いつも誰かが立っている。

現場の人間だ。


毎日ハンドルを握る人。

毎日交差点を渡る人。

毎日機械の警告音を聞く人。

彼らは事故が起きる前から違和感を感じている。

危険の匂いを嗅いでいる。


それでも、

証明はされていない。

だから動かない。


では、信号機は誰の死を待っているのだろう。

バックモニターは誰の死を待っていたのだろう。

新しい安全対策は誰の死を待っているのだろう。


もちろん、

世の中のすべての危険を先回りして消すことはできない。

そんなことは不可能だ。

だが、

ひとつだけ確かなことがある。


事故が起きた後なら、

誰でも危険だったと言える。


本当に難しいのは、まだ何も起きていない時に、危険を想像することだ。


もしかすると。

安全とは装置の数でも、点数の高さでもない。

まだ誰も傷ついていない未来を想像する力なのかもしれない。


そして今日もまた、

どこかの交差点で。

どこかの運転席で。

どこかの会議室で。

想像された危険と、

証明された危険の境界線が静かに横たわっている。

私たちは、そのどちら側に立っているのだろう。



境界線ノートMAP

国家の境界
テクノロジーの境界
生命の境界
自然の境界
文化の境界
個人の境界
そして‥‥
想像された危険と、証明された危険の境界。

世界にはまだ多くの境界がある。

今日もまたひとつの境界を歩きました。


#安全管理

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#組織論

#境界線

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