クジラには涙を流すのに、なぜ犬には名前をつけるのか
クジラに名前をつける国、つけない国
境界線ノート|ランポのさんぽ

「捕鯨って、どう思います?」
私より20歳くらい若い知人に、 突然そう聞かれたことがある。
夜だった。
たしか、 コンビニ帰りの立ち話みたいな空気だったと思う。
私は少し考えてから答えた。
「伝統的にクジラを捕って生活してきた地域もあるから、絶対反対とは思わない」
でも。
「クジラやイルカって、かなり知能が高いとも言われてるよね」
「仲間同士でコミュニケーションも取ってるし」
すると彼は、 少し安心したように頷いた。
たぶん、 “完全否定”も、 “完全肯定”も、 求めていなかったんだと思う。
私はさらに、 子供の頃の記憶を話した。
学校給食。
クジラ肉。
白い脂身。
ベーコン。
酢味噌。
あの独特な匂い。
少し固くて、 パサパサした食感。
昭和の食卓には、 確かにクジラがいた。

すると彼も言った。
「自分も食べたことはあります」
その瞬間、 少し不思議だった。
若い世代にとって、 クジラは“ニュースの向こう側”の存在だと思っていたからだ。
でも違った。
彼の中にも、 ちゃんと「食べた記憶」が残っていた。
彼は言った。
「捕鯨に反対してる人たちいますよね」
「シー…なんとか」
私は答えた。
「シーシェパード」
「ああ、それです」
私は続けた。
「クジラがかわいそうっていう気持ちは、理解できる部分もあるんだけどね」
「でも、活動のやり方には過激な印象もあるかな」
会話は、 そこで終わった。
言い争いにはならなかった。
結論も出なかった。
でも、 妙に印象に残った。
たぶんあの会話には、
「文化」と、 「倫理」と、 「記憶」が、
同時に存在していた。
クジラは、 ただの動物ではない。
食べ物でもあり。
知的生命でもあり。
地域文化でもあり。
国際問題でもある。
どこに線を引くのか。
人によって違う。
その数日後。
私は、 「ベトナムでは犬や猫に名前をつけない文化がある」
というテーマで記事を書いた。
犬は犬。
猫は猫。
名前を与えず、 存在をそのまま受け取る感覚。
日本とは少し違う、 動物との距離感について書いた。
すると、 あるNoteクリエイターの方から、 コメントが届いた。
「ヴェトナムでは犬猫を食べるから、名前を付けないのかもしれませんね・・・」
私は、 はっとした。
あまりにも短い一文だった。
でも、 妙に深かった。
名前をつける。
それは、 「個」にすることだ。
家族として。
友人として。
特別な存在として。
境界線の内側へ迎え入れること。
逆に、 名前をつけないということは。
残酷なのか。
それとも。
“命を命のまま受け取る”
という、 別の距離感なのか。
そこで、 あの捕鯨の会話が、 頭の中で繋がった。
日本人は、 クジラを食べてきた。
でも同時に、 クジラに強い感情移入もする。
イルカショーを見て、 涙を流す人もいる。
アニメでは、 動物に名前をつける。
ペットを家族と呼ぶ。
なのに。
スーパーでは、 薄切りの肉が並ぶ。
私たちは、 動物との距離を、 場面ごとに切り替えている。
名前をつける時。
食べる時。
守ろうとする時。
かわいいと言う時。
そのたびに、 境界線が動く。
イリーナさんは、 「犬の断耳・断尾」に反対する記事も書かれていた。
そこには、
「その犬種があるがままの姿でいいと思います」
という言葉があった。
私は、 この一文にも、 同じ境界線を感じた。
人間は、 名前をつける。
分類する。
定義する。
そして時々、 “こうあるべき姿”にまで、 動物を加工してしまう。
「名前を与える」という行為が、 なぜ人間だけに強く存在するのか。
そして、 “名前を持った動物”と、 “名前を持たない動物”の境界が、 現代社会でどう揺らいでいるのか。
たぶんこれは、 動物の話だけではないと思う。
人間が、 他者をどう扱うのか。その話でもある。
名前とは何だろう。
愛なのか。
支配なのか。
敬意なのか。
所有なのか。
クジラに名前をつける国。
つけない国。
犬を家族と呼ぶ国。
食文化として見る国。
そのどちらにも、 単純な善悪では割り切れない、 長い歴史と感情がある。
そしてたぶん。
私たちは今も、 その境界線の途中にいる。
名前を与えながら。
時に、 食べながら。
時に、 守ろうとしながら。
クジラは、 まだ海を泳いでいる。
そして人間は、 その海岸で、 名前について考え続けている。

イリーナさん、コメントありがとうございます。
「食べるから名前をつけない‥‥」その一言に、はっとさせられました。
確かに、名前をつけるということは「個」として認め、家族や友人のような特別な境界線の中に招き入れる行為ですよね。
名前がないことは、残酷に聞こえるかもしれませんが、ある種「命を命のまま、加工せずに受け取る」という、日本とは異なる距離感のあらわれなのかもしれません。
イリーナさんが発信されている「断耳・断尾」の問題も、人間のエゴで動物の姿を「名付け(定義)」し直すことへの問いかけだと感じ、深く考えさせられました。
名前をつける愛、名前をつけない敬意。
どちらが正しいということではなく、その間にある「境界線」を、これからも物語を通して探っていきたいと思います。
気づきをいただき、ありがとうございました。
境界線ノートMAP
国家|捕鯨問題と国際倫理
テクノロジー|SNSによる動物感情の共有
生命|食文化と命の距離
自然|海と人類の共存
文化|名前をつける国、つけない国
個人|「かわいい」と「食べる」の境界
