父が海から連れて帰った、小さな命たち
五海(いつみ)の掌が教えてくれた、不器用な愛と命の重み
境界線ノート|ランポのさんぽ
「ただいま」と一緒に、海が帰ってきた
父が海から帰るたび、家の空気は少し変わった。
潮の匂い。 油の匂い。 そして、ときどき‥‥小さな命の匂い。
父の大きな手や、背広のポケットから、 まるでこぼれ落ちるように現れる、傷ついた野鳥たち。
私の父、五海(いつみ)。
五人兄弟の末っ子として生まれ、 五つの海を渡り歩いた作業船の船長だった。
厳格で、どこか封建的。 言葉は少なく、背中で語る人だった。
けれどその手は、 壊れそうなほど小さな命を、見過ごすことができなかった。
掌の中の記憶
最初に父が連れて帰ってきたのは、一羽のスズメだった。
足を傷つけた、小さな小さな命。
私は煎餅の空き箱にハンカチを敷き、 即席の布団をつくった。
割り箸の先に、やわらかな飯粒をのせる。 祈るように、くちばしへ運ぶ。
けれど、その子は一粒も受け取らなかった。
翌朝、静かに星になった。
命をつなぐことは、 こんなにも難しい。
そのことを、私は父の掌を通して知った。
父と私の、小さな救護所
それから六年のあいだに、 父と私は四羽の野鳥を看病した。
野犬に襲われ、羽を傷めた鳩。 二階の窓から、一度も振り返らず、一直線に空へ帰っていった。
歩道の隅でうずくまっていた二羽目のスズメ。 飛び立つ前、フェンスの上から、こちらをじっと見つめていた。
父の車の下で衰弱していた鳩。 十姉妹の餌を分けてもらうと、みるみる元気を取り戻した。 それでもしばらく、玄関先を離れようとしなかった。
そして、五羽目。
足を怪我したカラスだった。
私は野原でエノコログサを振り、 カエルを釣って餌にした。
大きな木製の鳥籠の中。 カラスがカエルを丸呑みするたび、 「コン、コン」と、くちばしが床を叩く。
その乾いた音に誘われるように、 近所の子どもたちが集まってきた。
父が海から運んでくるのは、 いつも「再生」の物語だった。

六つ目の羽音
けれど、私たちにとって特別な一羽がいた。
小学六年生の夏祭り。 ひよこすくいで出会った、一羽のニワトリ。
私は三年間、その子を家族のように育てた。
遠くのペットショップまで自転車を走らせ、穀物を買う。 毎日、鳥籠から出して散歩をさせる。
ひよこ色の命は、 いつしか私の日常そのものになっていた。
そして、突然の別れ
中学二年生のある日。
父は、いつもの調子で言った。
「毎朝鳴いてうるさいから、農家へ払ってきたぞ」
その一言で、三年間の時間が切り離された。
ひよこ色の記憶を置き去りに、 三度目の夏が、音もなく消えた。
封建的な家庭だった。 父の決定は、絶対だった。
反論も、抗議も、許されない。
私は長いあいだ、 その理不尽さを心の中に抱え続けた。
なぜ、野鳥にはあれほど優しい父が、 私の大切な一羽には、あんなにも冷たかったのか。
大人になって見える景色
けれど今、思うことがある。
父は、私に一度も手を挙げなかった。
どれほど悪さをしても。 どれほど道を外れかけても。
怒鳴ることすら、ほとんどなかった。
あのニワトリは、 本当に農家へ行ったのだろうか。
もしかしたら。
息子が何より大切にしていた命の終わりを、 父は誰より先に見つけてしまったのかもしれない。
そして、その悲しみを、 自分ひとりで引き受けたのかもしれない。
「死んだ」と告げれば、 私がどれほど傷つくかを知っていたから。
だからあえて、 悪役になる道を選んだ。
どこかで生きている‥そう思える嘘を、私に残すために。

海のように、空のように
五つの海を渡り、 多くの別れを見てきた男。
五海。
今ならわかる。
父が鳥たちを拾ってきたのは、 ただの気まぐれではなかった。
荒々しい海の仕事のなかで、 失われていく命の儚さを、 父は誰より知っていたのだ。
窓から飛び去った鳩も。 床を叩いたカラスも。 そして、姿を消したニワトリも。
そのすべてが、 父の大きな掌を経由して、 私の心に「命の重み」を置いていった。

父の背中から受け取ったもの
いま、私が「ランポのさんぽ」を綴るたび、 筆先には、あの空の色が宿る。
父と見上げた空。
不器用で、寡黙で、 けれど確かにあたたかかった愛の温度。
人は、言葉だけで何かを遺すのではない。
背中で。 掌で。 そして、ときに小さな嘘で。
愛を手渡すことがある。
あとがきに代えて
「五海(いつみ)」という名には、 五人兄弟の末っ子として生まれた宿命と、 五つの海を渡った人生が刻まれている。
そして私の中では、 救った五羽の野鳥の記憶とも、静かにつながっている。
世界には、目に見える境界と、 見えない境界がある。
生と死。 別れと記憶。 厳しさと優しさ。
父はその境界を、 海の上で、そして日々の暮らしの中で渡り続けていた。
この物語が、 亡き父への、ささやかな供養となりますように。

境界線ノートMAP
国家/テクノロジー/生命/自然/文化/個人
