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存在しなかったはずのファンタを、私は飲んだ。


昭和の王冠とスーパーカーが残した、記憶と事実の境界線。


ゴールデンアップルは存在しなかったのか

     
           境界線ノート|ランポのさんぽ

先日、テレビを見ていた。

「ファンタ・ゴールデンアップルは本当は存在しなかった」

そんな話題が流れていた。

すると、不思議な感覚になった。

いや。

飲んだ記憶がある。

町のスーパーの自販機。

ガラス瓶。

そして王冠。

あの頃の私は、小学生だった。

覚えているのは味ではない。

景色だ。

スーパーの前。

友達。

夕方の空。

そして王冠の裏側。

人は何を覚えているのか


スーパーカーブームだった。

王冠の裏にはスーパーカーの絵。

名前は知らなくても、

速そうだった。

かっこよかった。

それだけで十分だった。

今でも思い出せる。

瓶を開ける音。

王冠を裏返す瞬間。

当たりを探す目。

だが肝心の飲み物の名前は曖昧だ。

ファンタオレンジ。

ファンタグレープ。

そして――

ゴールデンアップル。

だった気がする。

でも最近になって、

「ゴールデンアップルは存在しなかった」

という説を聞いた。

すると記憶が揺れる。

本当に飲んだのだろうか。


記憶と事実の境界線

面白いのは、

人間の記憶は写真ではないことだ。

写真なら正解か不正解かがある。

だが記憶は違う。

匂い。

空気。

友達の笑い声。

瓶の冷たさ。

そういうものが混ざり合って残る。

だから、

ゴールデンアップルだったのか。

ゴールデングレープだったのか。

実はそれほど重要ではない。

私は途中で気づいた。

本当に覚えているのは、

飲み物ではなかった。

王冠だった。

スーパーカーだった。

友達だった。

昭和の空気だった。

味は忘れた。

だが景色は残った。

それは少し不思議だ。

人は味覚よりも、

感情を記憶する生き物なのかもしれない。


ここから先は、ゴールデンアップルという炭酸飲料の話ではない。


人がなぜ間違って記憶するのか。
そして、なぜ曖昧な記憶を手放したくないのか。

半世紀近く残り続けた一本の瓶。

「記憶と事実の境界線」

もし謎が解けたら

仮に明日、

完璧な証拠が見つかったとする。

「存在した」

あるいは

「存在しなかった」

どちらかが確定する。

すると長年の謎は終わる。

だが同時に、

少しだけ寂しくなる気もする。

なぜなら、

この話の面白さは答えではなく、

「あった気がする」

という曖昧な場所にあるからだ。


ゴールデンアップルが教えてくれること

人は歳を重ねる。

記憶は少しずつ曖昧になる。

だが曖昧さは欠陥ではない。

むしろ人生を豊かにする余白なのかもしれない。

歴史にもそういう話がある。

家族にもある。

友人との思い出にもある。

誰も完全には証明できない。

でも確かに存在した気がする。

そんな記憶が、

人を人らしくしている。

ゴールデンアップルは、

実在した飲み物だったのかもしれない。

実在しなかったのかもしれない。

だが少なくとも、

私たちの記憶の中には存在している。

そしてその曖昧な場所こそ、

事実と記憶の境界線なのだろう。

いくつになっても、

謎が解けないことはある。

いや、解けないからこそ面白い謎もある。

昭和のスーパーの前。

瓶のファンタ。

王冠のスーパーカー。

あの日飲んだのは、

本当にゴールデンアップルだったのだろうか。

答えはまだ分からない。

だが、分からないままでも悪くない。

むしろ、その方が少しだけ楽しい。


境界線ノートMAP


国家の境界

テクノロジーの境界

生命の境界

自然の境界

文化の境界

個人の境界

記憶と事実の境界 

世界にはまだ多くの境界がある。

今日もまたひとつの境界を歩きました。


#ゴールデンアップル #ファンタ #昭和レトロ #スーパーカーブーム #記憶の境界線 #境界線ノート #ランポのさんぽ

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