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万葉集巻二 141番142番

万葉集巻二 141番142番

挽歌ばんか

後岡本宮のちのをかもとのみやに御宇あめのしたしろしめしし天皇代すめらみことのみよ
天豊財重日足姫あめのとよたからいかしひたらしひめの天皇すめらみこと譲位後じょうゐののち即後岡本宮のちのをかもとのみやにあまつひつぎしろしめす

有間皇子ありまのみこみづかいたみて松がを結べる歌二首

141
磐代いはしろの 浜松はままつを 引き結び 真幸まさきくあらば またかへりみむ

142
いへにあれば に盛るいひを 草枕くさまくら旅にしあればしひの葉に盛る

原文:
挽歌ばんか

後岡本宮のちのをかもとのみやに御宇あめのしたしろしめしし天皇代すめらみことのみよ
天豊財重日足姫あめのとよたからいかしひたらしひめの天皇すめらみこと譲位後じょうゐののち即後岡本宮のちのをかもとのみやにあまつひつぎしろしめす

有間皇子ありまのみこの自傷みづからいたみて結松枝まつがえをむすべる歌二首うたにしゅ

141
磐白乃いはしろの 濱松之枝乎はままつがえを 引結ひきむすび 真幸有者まさきくあらば 亦還見武またかへりみむ

142
家有者いへにあれば 笥尒盛飯乎けにもるいひを 草枕くさまくら 旅尒之有者たびにしあれば 椎之葉尒盛しひのはにもる

訳:
(歌の区分)
挽歌

(御代)
後岡本宮のちのをかもとのみやで世の中をお治めになった天皇の御代
天豊財重日足姫あめのとよたからいかしひたらしひめの天皇すめらみこと、譲位の後、重祚して後岡本宮のちのおかもとのみやで皇位におつきになった〕

(歌)
有間皇子ありまのみこが自身のありさまを悲しんで、松の枝を結んで無事を祈った歌二首

141
磐代いはしろ浜松はままつの枝を引き結んでおき、もし運があれば、また還ってきてこれを見るだろう

142
いへにあれば に盛るいひを 草枕くさまくら旅にしあればしひの葉に盛る

説明:
 まず御代に関連することについて、後岡本宮のちのおかもとのみやは、斉明天皇の宮です。夫である舒明天皇のときは、岡本宮と呼んでいます。岡本の宮は火事で焼けており、皇極天皇時代は板蓋宮、孝徳天皇は難波宮へお移りになり、重祚して斉明天皇となられた時は、岡本宮を新しく作ったので後岡本宮と呼ぶそうです。ちなみに、現在、飛鳥京と呼ばれている場所は、岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮があったところだそうです。
皇極、斉明天皇という諡号は、奈良時代後半に付けたもので、お名前は寶皇女たからのひめみこ天豊財重日足姫あめのとよたからいかしひたらしひめと言います。茅渟王ちぬのみこ吉備姫王きびひめのおおきみを父母に、夫が舒明天皇(息長足日広額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)で、お子様には、天智天皇、天武天皇がいらっしゃいます。舒明天皇がお隠れになったとき、中大兄皇子はまだ15歳であったので、寶皇女が即位なさって皇極天皇となります。

 「挽歌ばんか」は、亡くなった人を傷む歌です。もとは、棺をいて埋葬に行くときに歌ったことから、挽歌と言うようです。ところが、この有間皇子の歌は、「おそらく自分は刑を受ける」ので、自分で自分を傷んで歌ったもので、挽歌の中でも、かなり特殊だと思います。
 有間皇子は、孝徳天皇の皇子です。前代の皇極天皇のときは、蘇我氏が力を伸ばし、それを中大兄皇子たちが乙巳変いっしのへんを起こし、皇極天皇は息子の中大兄皇子に譲位しようとしますが辞退し、いろいろあって孝徳天皇が即位します。大化の改新の一環で、唐や朝鮮半島との関係や、中大兄皇子の影響を小さくするためもあったのか、孝徳天皇は都を飛鳥から難波に移します。しかし、2年ほどで中大兄皇子は、飛鳥に戻ることを主張し、実際に主要な人や孝徳天皇の皇后まで連れて、飛鳥に戻ります。翌年に、孝徳天皇は病気でお隠れになってしまいます。息子の有間皇子には、中大兄皇子や重祚した斉明天皇は、父を裏切った人として、恨みが残ったと思います。
 以下、有間皇子が謀反の疑いをかけられて死刑になるところを、日本書紀から抜き出して訳します。
 斉明天皇の3年9月、有間皇子は、ややこしくなった政局を避けるため、心の病気として紀伊国の牟婁の湯(白浜温泉)へ行きます。元気になって飛鳥に戻って、斉明天皇に「ちょっとあの地に行っただけで、病気は自然に治りました」と奏上したところ、お喜びになって、ご自身も行ってみたいとお考えになります。翌年、斉明天皇4年5月に、孫の建王たけるのみこが8歳で亡くなります。斉明天皇はとても悲しまれたので、10月1日から紀伊の国の湯に行幸なさいます。
 行幸の留守官であった蘇我赤兄そがのあかえが、10月3日、有間皇子のところにやってきて、「天皇の政事には、三つの過ちがあります。一つは、大きな倉を建てて、重い税を課して国民の財産である米を積み集めている。二つは、長い運河を作って、税の無駄遣いをしている。三つは、その運河で船で石を積んで運ばせて丘を造っている。」と言います。有間皇子は、赤兄は自分の味方になってくれる者だと知って喜び、「私は19になったが、はじめて兵を用いる時が来たと思う」と答えます。10月5日、有間皇子は赤兄の家に行って、楼閣に上って相談をしていると、脇息(ひじかけ)が自然に割れてしまいます。これは不吉な前兆だと考え、秘密を誓って一旦は中止し、皇子は家に帰って休みます。この日の夜中、赤兄は物部朴井連もののべのえのゐのむらじしびを兵とともに派遣して、有間皇子の生駒の自宅を取り囲ませます。また、早馬で紀伊国に行幸している天皇に謀反の疑いを伝えます。10月9日、赤兄は、有間皇子と守君大石もりのきみおほいは坂合部連薬さかいべのむらじくすり塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろを捕まえて、舎人とねり新田部米麻呂にいたべのこめまろを使者として、紀伊国の天皇の元へ送致します。
紀伊国に送られた有間皇子に、中大兄皇子は「なぜ謀反を起こそうとしたのか」と問い詰めます。有間皇子は「天と赤兄とが知っている。私にはまったく解らない」と答えます。二日後の10月11日、丹比小沢連国襲たじひのをざはのむらじくにそを派遣して、有間皇子を藤白坂で絞首にします。塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろ舎人とねり新田部米麻呂にいたべのこめまろを斬殺します。塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろは、殺されるときに「願わくは右手で、国の宝物を造らせてほしい」と言った(意味は不明)。守君大石もりのきみおほいは上毛野国かみつけののくにに、坂合部連薬さかいべのむらじくすり尾張国をはりのくにに流します。(日本書紀おわり)

有間皇子の歌は、藤白坂で絞首される前に立ち寄った磐代の海岸で詠まれたものです。運が良ければ、またここに来ることができるかもしれないな、という願いの歌と、家にいるならちゃんとした器でご飯を食べられるのに、ひどい旅をさせられているなあ、と嘆いています。
磐代は、今の和歌山県日高郡南部町岩代で、牟婁の湯(和歌山県西牟婁郡白浜町)から20kmほど大和へ戻る途中です。藤白は、さらに50kmほど戻った和歌山県海南市藤白なので、有間皇子は都へ帰れると感じていたかもしれません。この処刑は秘密裏に行われたようで、従者として有間皇子を紀伊国へ連れて行った舎人とねり新田部米麻呂にいたべのこめまろも斬殺されています。

 皇位は、継体天皇の子の欽明天皇の流れで敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇では、敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこの子孫に絞られ、さらに、舒明天皇と孝徳天皇の流れに分かれたものが、孝徳天皇の流れが絶たれ、舒明天皇の血筋に絞られました。この後は、天智天皇系と天武天皇で大きな争い、壬申の乱があり、奈良時代は天武天皇系でしたが、聖武天皇の子で即位できたのは孝謙天皇(称徳天皇)で、女性であったため、ここで途絶えます。そこで、天智天皇の孫、光仁天皇に皇位が移り、その子、桓武天皇の流れが次の時代へお導きになります。奈良時代と平安時代が、ずいぶん異なる理由や、平安期以降は天智天皇が重視されるのは、この皇統の違いによると思います。



系図は以下のサイトからお借りしました。


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