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『渡された灯り』【最終章:名前の向こうへ】

画面に表示されたメールを開いたまま、綾音はしばらく動けずにいた。

お願いしたいのは、亡くなられた作家・柚木静さんが遺した構想ノートをもとに、「波のあとで」という作品を加筆・構成し、リメイクというかたちで蘇らせることです

本文の一節が、何度も胸の奥で繰り返される。 静かに届いたユウタからの新たな提案だった。

柚木静という名前に、すぐにピンときた。 ただそのノートに書かれていたという「声にならなかった想い」「消しゴムで消しきれなかった痕跡」といった言葉が、綾音の中に奇妙な既視感を呼び起こしていた。

何かに似ている、と思った。
だけどそれが何なのか、すぐには言葉にならなかった。

綾音は窓辺に視線を移した。薄く光の射す午前中。
風が少し強くて、カーテンの端がかすかに揺れている。

そっとノートを開くと、走り書きのようなメモや線が見える。 登場人物の名前すら決まっていない。しかし、そこには確かに誰かが何かを伝えたかった痕跡が残っていた。

ページの余白には、こんな言葉も書き残されていた。

「本当はずっと覚えていたのに、忘れたふりをしていた。だから、夢の中でだけ会えるのかもしれない」

「声に出せなかった言葉は、海に沈む。けれど波が戻るように、ときどき聞こえる気がする」

「これは、引き継ぐというより……」

綾音は思う。これは、まるで「重なる」ことだ。

誰かが言えなかった言葉に自分の言葉を重ねていく。 そして、消えてしまいそうな感情を別の筆致でなぞるように。

彼女は、自分の作品を読んだ誰かが「自分のことを思い出した」と言っていたことを思い出していた。

それはつまり、書かれた言葉が読まれたことで生きなおしたということ。

もしかしたら、書くことは「生きなおす」ことなのかもしれない。 そう思ったとき、心の奥で何かが静かにひらかれていくような気がした。

綾音は一枚の便箋を引き出し、ペンを取った。
インクのにじみが少しだけ柔らかく紙に広がっていく。

 

拝啓 山口悠汰さま

先日はご連絡ありがとうございました。  
柚木静さんの構想ノート、拝見いたしました。

言葉にしづらいのですが、あのノートには「途中で途切れた声」が確かに残っているように感じました。

私にできることは限られていると思います。 しかし、あの声にそっと耳を澄ませながら、書いてみたいと思いました。

これはきっと「再現」ではなく「重なり」のようなものになると思います。

名前の向こうにいるその人に、私の声が届くかどうかはわかりません。
届かなくてもいい。ただ、耳を澄ますところから始めたいと思いました。

どうぞよろしくお願いいたします。

                           佐原綾音

便箋を折り、封筒に入れた後で封をする。 メールでの返信もできたけれど、あえて綾音は手紙を選んだ。 書くという行為がすでに「重なり」のはじまりだと感じたからである。

机に置かれた原稿用紙が薄く光を帯びていた。 そこにはまだ何も書かれていない。 だけど、綾音の中では物語の最初の呼吸がすでに始まりかけていた。

その呼吸に導かれるようにして、綾音はペンを取ってそっと紙の端に書き出した。

「波のあとで」

それはまだ始まりにすぎない。 しかし、確かに新しい物語が静かに動き出していた。

(完)



#風まかせ文芸部


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