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『言葉の居場所をさがして』【最終章:届く音】

25年。
それは一冊の本が「記憶」から「歴史」へと移り変わっていく時間だ。

『波のあとに』
25年前に刊行された、柚木静の代表作。

綾音が初めて「文章に泣いた」のは、この小説だった。大学の図書館で偶然手に取り、読み終えたあと動けなくなった。それがきっかけで、小説というものの底に「言葉の奥行き」があることを知った。

でも、自分で書くことは怖かった。言葉を並べるたび、自分の不確かさが露わになっていくようで。だから、10年近くも「書くこと」から距離を置いていた。

そんな自分の原稿が、今日、本として世に出る。

「掲載、決まったって」

ユウタから届いたメールを見たとき、綾音はしばらく何も言えなかった。胸の奥がじんわりと温かくなる感覚。それは「嬉しさ」とも「恐れ」とも違っていた。たしかに、自分の言葉が「届く準備をしている」のだと思った。

文芸誌『ひとひら』
最新号の特集タイトルは、「脈々と」声が続いていくということ。

ページをめくると、詩乃による巻頭エッセイがあった。

「この25年で、言葉をとりまく環境も読者の時間も大きく変化しました。それでも「届く声」は、小さく脈を打ちながら、生き続けています。そして今、ここに「誰かに託された言葉」があります。」

綾音は、ページをめくりながらそっと息を吐いた。その言葉の奥に、かつて自分が読んだ『波のあとに』の気配があった。

あの作品が出たとき、詩乃はまだ駆け出しの編集者だった。静かで、やわらかくて、それでいて心の深くに響いてくる。読んだとき、自分の中の「なにか」がほどけていくのを感じた。

「佐原綾音」という名前を初めて聞いたとき、詩乃はたしかに一瞬だけまぶたを伏せた。記憶の底で、ある光景が揺れたのだ。

かつて夏の短期インターンに参加していた若い女性がいた。真面目で、物静かで、どこか「受け取る力」に長けていた。あの少女の名前がたしか、佐原だった気がする。

記憶は曖昧だったが、綾音の原稿を読んだ瞬間、言葉の奥にその面影がふっと浮かんだ。

母・柚木静が亡くなったのは、その5年後だった。
だから詩乃にとって『波のあとに』は、母がこの世に遺した「最後の声」だった。

編集部に届いた佐原綾音の原稿。
初めて読んだとき、その文章の静けさと余白の奥に流れる声に、詩乃の心が揺れた。

そして、ユウタが会議で口にした言葉を思い出す。

「読後に、余韻だけが残るんです。そして、まるで木魚のように静かな音が心に響くんです」

あの瞬間、詩乃の中で、柚木静の作品と佐原綾音の原稿が、どこかでつながったような気がした。

「あなたに出会えたことが、何億分の一の奇跡だとしても……」
その手書きの一文を目にしたとき、かつて自分が母の作品で受け取った感情が25年の歳月を超えて再び届いたのだと気づいた。

***

週末、詩乃は父と都内の小さなカフェで会った。彼はかつて、編集者として静の原稿をともに作り上げた人だった。

「読んだよ、『脈々と』。いい声だったな」

父は雑誌をぱらぱらとめくりながら、懐かしそうに言った。

「あぁいう作品が、また生まれてくるんだな」

「言葉は、生きてるから」詩乃がそう返すと、父は静かに笑った。

「静があの原稿を書いたとき、まさか25年後に娘が受け継ぐなんて思ってなかっただろうな」

「でも、私はきっと母からもらってたんだと思います。何かを。はっきり形にならなくても、言葉の奥行きみたいなものを」

父はテーブルの端にそっと一冊の文庫本を差し出した。

『波のあとに』。そこには、古びた付箋が一枚だけ貼られていた。

「それ、静が最後に持ってた見本誌。この一節、あの子がいちばん大事にしてたみたいだよ」

詩乃はページを開いた。付箋の横には、母の書いた文字が鉛筆で薄く残っていた。

言葉は、遠くの誰かに届くためにある。届いたとき、はじめて生きる。

「きっと、あの人も誰かに届けたかったんだ……」

そう思えたとき、詩乃の中で「編集者である自分」の使命が静かに灯るのを感じた。

***

一方そのころ、綾音は駅前の小さな書店で棚に並ぶ文芸誌を見つめていた。

『ひとひら』
その表紙の右下に、小さく自分の名前が刷られていた。紙面をめくると、自分が何度も迷って、削って、託した言葉たちが並んでいる。

「ホントに本になったんだ……」

そう思ったとき、少しだけ涙がにじんだ。それは「うれしい」とも、「不安」とも違う。ただ、自分の声がどこかに届いたという感覚。静かで、温かな確信だった。

ページの最後には、詩乃の編集後記が載っていた。

『たとえ声が小さくても、受け取った人がいれば、それはきっと「生きている言葉」になるのだと、あらためて感じました』

綾音はその一文を、そっと目でなぞった。

書店を出ると、街路樹のいちょうが金色に色づいていた。どんぐりが歩道に転がっているのを見て、綾音は思わず拾い上げた。

掌に乗った小さな実。
それは、いつか物語の種になるのかもしれない。
まだ言葉にならない思いが、今日もまた誰かの中に宿っている。

25年という時間のなかで、確かに受け継がれてきた「届く声」。

綾音はそっと胸の中でつぶやいた。

「ありがとう。私も、つづけてみます」

その声は、金木犀の香る秋の風にまぎれて、どこかへと運ばれていった。

(完)



#風まかせ文芸部


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