『言葉を運ぶ人』【第二章:声を連れて】
会議室のホワイトボードには、文芸誌の次号特集候補がずらりと並んでいた。
文芸誌『ひとひら』の編集会議。
今月の特集企画を詰める日だった。
編集長の川西が、読みかけの原稿を机に置いたまま言う。
「最近の短編、小さくまとまってる印象を受けるのよね。説明が丁寧すぎて、行間で語る余地が少ないというか……。もっと読者の感性に委ねるような作品が、今は必要なんじゃないかしら」
「ですよね」とユウタが即座にうなずいた。
『すべてを説明してしまうと、読者が「心を動かす余白」を失ってしまう気がします。とはいえ、曖昧に終わると逆に「わかりにくい」と叩かれる世の中だ』
もう一人の編集員・市原が、ペンを手に淡々と補足した。冷静な論理派だが、作品に対する眼差しは鋭い。
『でも、いま「わかりにくくても読み返したくなる物語」こそ必要だと思うんですよね』
ユウタの声に、自然と熱がこもっていた。この数日、頭の片隅にはずっと綾音の原稿があった。読後の余韻。言葉にしにくい感情。心の奥に沈む記憶。
こういう物語が「届く準備」をしている誰かのもとに必要なんじゃないか。そんな確信があった。
「届けたい作品があるんです」
その言葉を口にした瞬間、会議室の空気がわずかに動いた。
隣にいた詩乃が静かに手を挙げた。
『山口さんの言葉に私も共感します。「読み返したくなる余白」って、読む人の心に「声」を残す気がして。たとえば、木魚の音のように……』
川西の表情がわずかにやわらいだ。
ユウタは、思わず詩乃の方を見た。詩乃は一瞬だけ微笑み、すぐに視線を戻した。
「で、届けたい作品って?」
ユウタは、手元のカバンにそっと手を伸ばした。
「まだタイトルもない短編です。数年前、同じゼミだった女性が書いた原稿でして……」
「その人の名前は?」と川西が聞く。
「佐原綾音さんです」
その名前を聞いた瞬間、詩乃が一瞬だけまぶたを伏せたように見えた。なにかを思い出すように。
『手書きの一節に、こうありました。「何億年かけてできた世界の中で、あなたに出会えたこと」って』
市原が目を見開いた。
『「波のあとに」に通じるニュアンスがあるな』
ユウタは、緊張を押し殺すように原稿を取り出した。
白い紙の束は、どこか「自分の分身」のようにも思えていた。
『声は、誰かの心に届くためにある。そう思える文章でした。編集という仕事をしていて、久しぶりに「これを読者に届けたい!」と思ったんです』
川西はその言葉をじっと受け止めるようにうなずいた。
「もしよかったらその原稿、読ませてもらえるかしら」
その言葉に、ユウタはほんの少しだけ安堵の息をついた。
「まだタイトルが決まっていないのであれば、たとえば……『脈々と』なんてどうかしら?」
川西がポツリとつぶやいた。
会議室の誰もが、少しだけその言葉の「重み」を感じ取ったようだった。
『「言葉の命が流れ続けていく」という意味なら面白い切り口かもしれませんね』
市原が頷き、詩乃もゆっくりとそれに続いた。
ユウタの前に置かれたノートには、走り書きのメモがひとつだけ残されていた。
届いた声を、次へと運ぶために。
会議が終わり、資料をまとめる手を止めて、ユウタは窓の外を見た。
風に揺れる銀杏の葉が、すこしずつ黄色に染まりかけていた。
声にならなかった誰かの想いが、いつか誰かに届くこと。
その橋をつなぐのが編集者の役目なのだと、ユウタはあらためて思った。
(つづく)
