『沈黙の向こう』【第二章:消せなかった痕跡(忘れんぼうの時計)】
綾音の書斎の棚に、小さな置き時計がある。文字盤のガラスは少しくもっていて、秒針はときどき立ち止まる。電池を換えても直らず、もうずいぶん前から「まともには時を刻めない時計」になっていた。
それでも綾音は、捨てる気にはなれなかった。
それは大学に通っていた頃、兄がふとした拍子に買ってくれたものだった。特別な記念日でもなく、気まぐれだったのだと今となっては思う。
「時間くらい、ちゃんと見て動けよ」
そう言って渡されたとき、少しだけ嬉しかったことを綾音は思い出す。
動いたり止まったりを繰り返すその時計は、まるで「思い出し忘れ」する記憶のようだった。
過去のある一点に戻ろうとしても、どうしても針が届かないときがある。
逆に、触れるつもりもなかった記憶が、ふいに動き出すこともある。
柚木静のノートに記されていた未完の場面たちも、どこかその「忘れんぼうの時計」に似ていた。
ページの途中で途切れた会話、名前のない人物、指示語だけで終わっている文章……。まるで時間の中にぽっかりと抜け落ちたような部分に、綾音はなぜか惹かれていた。
何かを語りかけようとして、途中でやめた筆跡。
あるいは、語るべきことが多すぎて言葉にできなかったものかもしれない。
綾音はノートを閉じると、机に向き直った。そして、視線の先にはまっさらな原稿用紙が置かれていた。
何も書かれていないのに、そこにはすでに、何かが静かに待っているような気配があった。
沈黙に筆致を与えること。
それこそが、今の自分にできる唯一の仕事なのかもしれない。
書き始めるということは、時を動かしなおすことでもあるのだ。
止まっていた針に、そっと触れるように。
綾音は、ひとつめの言葉を探し始めていた。
(第三章へつづく)
