『沈黙の向こう』【第五章:沈黙の向こう】
ある冬の朝のことだった。綾音はふいに兄の言葉を思い出していた。
「運命なんて、後から名前をつけるものだよ」
大学に通っていた頃、何かの会話の中で兄が笑いながら言ったひとことだった。当時は深く考えずに聞き流していたが、今になって妙にその言葉が胸に残っていた。
机の上には、開いたままの構想ノートがある。柚木静が遺した、言葉になりきらなかった断片たち。その一節に、こんな走り書きがあった。
「出会いは偶然か? それとも、運命か?」
問いかけのように書かれたその言葉のあとには何も続いていなかった。ただ、綾音はそこに筆が止まった理由を想像する。
運命とは何か。出会いや別れに意味を与えるものか、それともただの偶然の積み重ねか。
綾音自身、静さんのノートと出会ったのも、ユウタと再会したのも、偶然といえばそうなのかもしれない。でも、それがこうして物語を生むきっかけになったことを思えば、ただの偶然だったとは思えなくなっていた。
思い出すのは、兄の部屋の引き出しにしまってあった古い封筒だ。中には、綾音が大学を辞める直前に書いた、手紙の下書きが入っていた。結局、出すことのなかったその手紙には、言葉にならなかった想いがぎゅっと詰まっていた。
「ちゃんと話したかった」とだけ書かれたその一文を、兄は捨てずに取っておいてくれていた。
手紙を渡せなかったことを綾音はずっと悔やんでいた。でも、書こうとしたという行為そのものが、何かを変える力を持っていたのかもしれない。あの日の綾音が「届けたい」と思った気持ちは、確かに存在していたのだ。
綾音は、原稿用紙に向き直る。
Aは、出会いを「運命」と呼ぶことに、ほんの少しの照れと、ほんの少しの祈りを込めていた。
その一文を書いたとき、胸の奥がすこしだけあたたかくなった。
運命は、あらかじめ決められたものではなく、自分の選んだ言葉であとから形作られるもの。書くということは、その輪郭をなぞっていく作業なのかもしれない。
柚木静がノートに遺した問いの続きを、自分の言葉で引き継ぐ。そのことが、今の綾音にとっては運命なのだと思えてきた。
沈黙の向こうにあったのは、語られなかった想い。その声なき声に耳を澄ませながら、綾音はペンを走らせる。
何度も止まった針が、今、静かに動き始めていた。
そのとき、外から風の音が聞こえた。乾いた木の葉が、玄関先を転がっていく音だった。
綾音は席を立ち、書斎の小さな窓を少しだけ開けた。ひんやりとした空気が頬をなでる。
思えば、書くという行為はずっと「風の通り道」をつくるようなものかもしれない、とふと思った。誰かが言えなかった言葉、誰かがしまい込んだ感情、それらをそっと揺らす小さな風を生み出すこと。
自分のためだけではなく、まだ出会っていない誰かのためにも。
綾音はもう一度、ペンを手に取る。
Aはその日、あらためて「偶然」と「必然」のあいだに立っている自分を意識した。選ぶことも、書くことも、そのすべてに意味を与えてくれる何かがあると信じたかった。
筆先が原稿用紙をなぞる音が、静かな部屋に小さく響いていた。
(つづく)
