あなたの看護観を教えてください
アガサクリスティの小説のタイトルのようなタイトルですが、決して誰も殺されたり行方不明になったりしません。
タイトルの通り、そういう話です。
看護観。
非常に抽象的ではっきりしない、モヤに包まれたような不思議な感覚のする言葉です。
看護の観
「観」とは、「ものの見方」「考え方」「価値観(捉え方)」を意味します。
なので、看護観は看護に対するその人の見方や考え方、捉え方を指します。
言葉は少し柔らかくなりましたが、それでもぼんやりします。
それは見え方であり、捉え方がぼやけてると言う言葉の表現の通り、頭の中でそれが明らかになっていないことを指しているということでしょうか。
看護師の皆さんであれば、この質問をされて平然として回答できますか?
看護師ではない方なら、皆さんの仕事についての価値観をダイレクトに質問されたことを想像してもらえればいいのかもしれません。
同じではなくても、自分の中にはあるようだけどハッキリと言葉で表現するのは難しいなという質問ではないでしょうか。
きっと看護師にとってこれ、
あなたにとって生きる意味は?
あなたにとっての幸せとは?
あなたにとって愛ってなんですか?
と質問されているのと同じようなものです。
あなたならなんと答えますか?
統合実習
先日、久しぶりに看護学生4回生、最後の統合実習の学生が来てました。
この統合実習、当然私たちの学生の頃はありませんでした。
私たちの頃とはカリキュラムも全く変わり、名称さえも変わってしまいました。
私たちの頃の実習が全て終わった後に、看護管理者やリーダースタッフ、一人前看護師について回って観察したり話を聞いたりしたり、複数の患者を受け持って優先順位やスケジュール調整を行うというような、より実践のイメージができるようにするための実習のようです。
それで半日間、学生4人をカルガモの親子のように引き連れて、病棟の中をうろうろしてました。
でも、看護管理の話をした時にも言いましたが、看護管理って見てるだけではどれが管理でどれが業務なのかわからないものです。
意味や意図を話さなければ、ただ日誌にハンコを押して申し送るとか、ただ家族と立ち話してるとか、部長先生の愚痴を聞かされてるだけに見えます。
そういうことで、この日は半日しゃべりっぱなしでした。
話すのは嫌いじゃないですが、正直なところ、学生に話してわかるのかという気持ちと、わかるまで噛み砕くか?という気持ち、そもそも興味ないだろ?という気持ちを抱えながら、しゃべり続けるにはかなり心を削られます。
そしてその実習最終日の最終カンファレンス。
学生たちの素晴らしい発表を聞き、ああ、さすが看護大学の学生だなあ(学校にもよりますが)と感心しながら聞いていました。
最近の学生はは非常に出来がいいと思うくらい、目標に沿って振り返りのできていると感心させられます。
(学校によりますが)
それと同時に、
こんなに書けるのに、何で卒後3年目で書かせているケーススタディはあんなとんでもないものになるんだ?と疑問でしかありません。
やはり卒後教育に問題があるのでは?
と考えさせられていた時です。
「今日は師長さんも参加いただいているので、せっかくですから学生たちに師長さんの看護観をぜひお聞かせいただけませんか?」
教員の質問が飛んできたわけですよ。
そうです、全くの根回しなしの無茶振りです。
ここ最近、統合実習に対応していなかったのもあり、完全に忘れてました。
ここの教員は、統合実習の最終カンファレンスの時に、この無茶振りをしてくるのでした。
やられました。
完全に焦りました。
これまでならある程度当たり障りのないことを用意しておくんですが、今回は全くのノープラン。
このての質問は急に振られるとフリーズしてしまいます。
これって非常に高度な回答を求められてるんです。
単純に誰かの言葉を借りて「看護とは」を話しても、それって看護観とは言えないですよね。
確かに見方、捉え方なので、定義もそれにあたります。
でもここで聞かれてるのは、大切にしてることや姿勢などをナラティブに語り、まだ経験の浅い学生たちにも想像できて理解できるレベルで一番ナイーブな気恥ずかしいことを語れということです。
色んな意味でヤバい状況です。
私の看護観
タジタジになりながら、苦笑いして自分の黒歴史を話して聞かせるような思いで、私はゆっくりと口を開きました。
私はまず、私が大切にしていることについて話しました。
それは、
安全であることです。
安全であること
これは、私がどの病棟に行っても、初めの日の朝の申し送り時にスタッフに宣言すると決めていることです。
安全な療養環境
安全な医療
安全な看護
安全な生活
それを保障すること。
入院してきた時よりも、医療や療養、事故、ミス、せん妄、不要な感染、褥瘡などで不利益を被り、生活の質を下げて退院することがないように最善を尽くすこと。
それを回避することは、看護師の重要な役割であると思っています。
これを守ることは、患者のニードの根底である健やかに生きることを守ることであり、看護の質の根底にある重要な事柄です。
経験が多い少ないは関係なく、すべての看護師が守るべきもので、おろそかにすることのできないことだと捉えています。
しかし、多くの看護師はこの重要なことを忘れがちです。
この地味な活動は、一見すると最新の医療技術を理解して介助する看護や、最新のガイドラインに合わせた治療フローに則り異常の早期発見に努めたり薬剤管理を理解することのほうが、レベルの高い看護だと感じ、優先順位を間違えます。
私には、それはパンツを履かずにブランドバックを抱えて偉そうに街中を闊歩することように見えます。
優先順位は一瞬の時間単位で言えば低くなるかもしれませんが、1入院単位で考えれば、確実に安全の方が高いです。
それを履き違えた看護師は、私には馬鹿で滑稽な道化にしか見えません。
今の病棟は、私が来るまで道化のように見えていました。
いいことは色々取り組んでる。
でも、質指標ではいつも底辺にいる。
どんだけ着飾っても、大事なことを忘れてしまっては、誰も本当の意味ですごいとは言ってくれません。
私がこの病棟に来て初めに取り組んだのも、このことでした。
安全であることは、常に一定以上を維持しなければいけません。
それは常識であるとも言えますが、だからこそおろそかになりやすい。
これは毎日のように口に出し、声にして伝えなければならないことだと思う、私の看護に対する重要な考え方です。
息を吸うのも看護
次に伝えたのは、看護とは何か?ということです。
別の記事「看護とはなにか」で話したことを伝えました。
仕事が大嫌いだったICU時代。
患者は術後で寝てるし、モニターをずっと眺めて、時々体位変換して、吸引して、尿量を確認してバイタルを観察して記録する。
薬の準備と交換をして、清拭と着替えをする。
要約すると、7割以上がそんな感じでした。
別にICUのそういう看護を否定しているのではなく、私にはそういうのが合わなかったということです。
急変や急患が来なければ、まったりとした時間が流れます。
完全常時2対1看護ですから、日勤はそれ以上のスタッフが配置されてます。
入室患者の1.5倍や、日によっては2倍以上のスタッフが勤務してる。
することがない暇を見て余したフタッフは、医者とああでもないこうでもないとミニドクター気取りで治療のことを話し、別のところではモニター波形のウンチクが繰り広げられる。
一般病棟では最低限の人員数で走り回って働いているのに。
自分たちは素晴らしいレベルの高い看護をしてるんだから当然、というような顔をしているのを見ると、吐き気がしました。
まあ、これは私の主観的な感覚ですが。
じゃあ、その素晴らしくレベルの高い看護とは何なんだ?
証明してみろよ?
というのが本当のところの動機だったかもしれません。
さすがに学生さんにはそのまま伝えれませんでしたが。
家族の清拭と、看護師の看護としての清拭の違いという疑問から、その看護の意味や証明する方法について考えたことを伝えました。
看護とは、他者から観察できるのは行為と結果だけでしかな。
しかし、その行為と結果は他の職種や家族でも実行可能である。
ならば、看護とはいったいどこに存在するのか。
それは、看護として看護師が行なっているプロセスに存在する。
情報を収集して観察し、コミュニケーションを図り、現在の患者が持つニードや目標を達成するために最も最善な方法をアセスメントして行為を行う。
そのアセスメントに看護師としての専門性が宿り、その結果としてその行為は看護だと言える。
看護行為の上で最も重要なものはプロセスであり、それを証明するには、このアセスメントを説明することができるかである。
そのアセスメントが患者の情報から、患者の目標を達成するために、医学、看護、倫理、スピリチュアルなどの様々な看護的な視点で考察されて導き出された、その時点での最善な方法であるということを。
この考えから、患者に触れることが看護であるということも証明できる。
苦痛を感じている患者の肌に触れて語りかけることで、あなたの苦痛を知りたいという思いやそのためにあなたとの距離を縮めたいという感心、あなたのことが心配だという思いを伝え、不安を軽減したいという意図を持って触れる。
手のひらから伝わる温度で局部の緊張が緩和される。
親密さは緊張を緩和する。
そう言った経験や理論的知識を含めて、意図的に患者に触れる。
それは目標に向けた意図を持った行為であり、まさに看護と言えると思います。
それを突き詰めていけば、
患者に寄り添う姿勢を伝えるために、合わせられた目線の高さ
患者の発言を妨げないように調整された、相槌の間隔
心配していることを伝えるために下げられた眉
共感を表すために大きく動かされたうなづき
次の言葉を待つための沈黙を作るために調整される呼吸の間隔
患者の言葉に驚きを表すように息を飲むタイミング
それら全てが看護と言える。
息を吸うことすら看護にできる。
患者の未来の視点から今を見る
最後に、患者のニードをどう捉えるかについて。
これもICU時代に感じた疑問からです。
まだ私がICUで働いていた時代は、術後硬膜外持続注射での疼痛緩和をしながらも頑張って動け、という時代でした。
今ならもっと積極的に緩和を行なって離床をサポートしていますが、まだまだ医療界がやっと変わり始めたというくらいの時期でした。
ICUですから術後管理を行うわけです。
まだ離床まで行ってない患者を定期的に体位変換して、痰の排出や褥瘡予防に努めるわけです。
そんな時、患者は痛い痛いと言って体位変換を嫌がりました。
正直私でも、そりゃあ痛いし嫌だわな、と思うわけですよ。
そしてふと思うわけです。
今、この場で患者は痛いから動きたくない、という明確なニードを表明しています。
なのに私は看護師として体位変換を説得してまでさせている。
看護は患者のニードを満たすことに向かって行われるはず。
そこき矛盾があるんじゃないか?
となるわけです。
この時、私は患者のどんなニードに向かって今の看護を行っているんか。
そう考えて気がつきました。
私は、術後合併症を起こすことなく早期に回復して、元の生活に患者が1日でも早く戻っていく、という患者の未来のニードに向いて看護を行っているんだということです。
今だけ見てれば、痛いならやめときましょうか?ってなるはずなんです。
それを説得してまで動かすのは、患者が将来に向けて願っているニードに向かって、今行うべき最善の行動を行なっている。
看護は、
患者の今という場所に立って足元を見て考えていてはいけない、
患者の未来に立って、今何をするべきかを考える必要があるんだ、
ということに気がつきました。
未来のニードのために、過去の情報をもとにして、今最善の看護を提供することが大切なんです。
そう、
私は患者と共に、現在過去未来という時間軸の上に立って看護をしているんだという感覚。
これが3つ目に大切にしていることです。
正直なところ、学生さんたちにどれだけ伝わったかはわかりません。
でも、少しでも何かの助けになればいいな〜と思うます。
そして教員に、
話の長い師長再来と印象付けることができたと思います。
