番外編『湖畔のスケッチブック、色褪せたページ』
この物語は本編「『コロと響き合う宇宙(ソラ) ~湖畔のスケッチブック〜』の主人公「向葵」の過去の物語を描いた番外編です。
向葵(あおい)番外編
『湖畔のスケッチブック、色褪せたページ』
第一章:春色のエプロンと、はじまりの予感
「ありがとうございましたー! またお越しくださいませー!」
夕暮れ前の、まだ明るい日差しが差し込むカフェの入り口で、私は精一杯の笑顔でお客様を見送った。
ドアが閉まり、カラン、とベルが鳴る。
ふう、と小さく息をつき、緊張で少しこわばっていた肩の力を抜いた。
向葵(あおい)、二十歳。
近隣の主要都市で一人暮らししながら市内の芸術大学でデザインを学ぶ、どこにでもいるような女子大生。
そして、この大学近くの賑やかなカフェ「ひだまりスケッチ」(ありきたりな名前だけど、本当に陽だまりみたいに温かいお店だった)で、アルバイトを始めて半年が経とうとしていた。
もともと、私は極度の人見知りだった。
初対面の人と話すのはもちろん、大勢の中にいるだけで、心臓が早鐘を打ち、手汗が止まらなくなる。
そんな私が、なぜカフェのアルバイト、しかも接客を選んだのか。
自分でもよく分からない。
ただ、「このままじゃダメだ」「何かを変えたい」という漠然とした焦りが、私の背中を押したのだ。
案の定、働き始めた当初は失敗の連続だった。
オーダーを間違える、お釣りを間違える、緊張で声が上ずってお客様に聞き返される…。
その度に、自己嫌悪に陥り、何度も「もう辞めよう」と思った。
でも、不思議だった。
どんなに失敗しても、心のどこかで「もっと上手くなりたい」「お客様に喜んでもらいたい」という気持ちが、消えなかったのだ。
店長の温かい励ましや、先輩アルバイトの優しいフォローにも支えられ、私は、少しずつ、接客という仕事の奥深さと、そして何より「楽しさ」に気づき始めていた。
それは、例えば、常連のお客様が「いつもの」と注文してくれた時。
私の顔と好みを覚えてくれている、その小さな事実に胸が温かくなる。
例えば、私が心を込めて淹れたコーヒーを飲んだお客様が、「美味しいね」とふと笑顔を見せてくれた時。
その笑顔が、私にとって何よりの報酬だった。
例えば、道に迷っていた観光客の方に、一生懸命説明して、「ありがとう、助かったよ!」と感謝された時。
誰かの役に立てたという実感が、私にささやかな自信を与えてくれた。
人見知りな私が、人と関わることで、こんなにも心が満たされるなんて、思ってもみなかった。
春色のエプロンを身につけ、お客様と笑顔で言葉を交わす。
それは、私にとって、新しい自分自身との出会いでもあった。
「向葵ちゃん、お疲れ様。そろそろ上がりでいいよ」
店長が、優しい笑顔で声をかけてくれた。
「はい、ありがとうございます!」
着替えて店を出ると、夕暮れの空が、美しいグラデーションを描いていた。
心は、心地よい疲労感と、そして、ほんのりとした達成感で満たされている。
(私にも、できることがあるのかもしれない)
(こんな私でも、誰かを笑顔にできるのかもしれない)
そんな、淡いけれど確かな希望の光が、私の胸の中に灯り始めた、春の日だった。
この「人と関わる喜び」が、数年後、私を深い絶望の淵に突き落とすことになる、残酷な恋の序章になるとも知らずに。
第二章:麻婆ラーメンと、運命の視線
芸術大学を卒業し、私は、市内の小さなデザイン制作会社に、アシスタントデザイナーとして就職した。
夢だったデザイナーへの第一歩。
しかし、現実は厳しかった。
専門学校で学んだ知識だけでは通用しない、プロの世界。
厳しい先輩デザイナーからのダメ出しの嵐。
連日の残業と、プレッシャー。
大学時代のカフェでのアルバイトで得たはずの、人と関わることへの自信は、日を追うごとに削られていった。
そんな私の唯一の癒やしは、会社のビルの一階にある、社員食堂での昼食だった。
特に、日替わりで提供される麺類コーナー。
そこの料理長が作る、本格的な中華麺が絶品なのだ。
その日も、私は疲れ果てた心と体を引きずって、社員食堂へ向かった。
今日の麺は、私の大好物の一つ、「本格麻婆ラーメン」。
山椒の効いた、痺れるような辛さがたまらない。
いつものように、食券を買い、麺類コーナーのカウンターへ向かう。
「麻婆ラーメン、お願いします」
「はいよっ!」
威勢のいい料理長の声。
そして、ふと顔を上げると、カウンターの向こう側、少し離れたテーブルで、一人で食事をしている男性と、目が合った。
何度か、見かけたことのある人だった。
確か、同じフロアの、人事部の社員さん。
私より少し年上だろうか。
いつもスーツをきっちりと着こなし、どこかクールで、落ち着いた雰囲気の人。
でも、その日は、彼も麻婆ラーメンを食べていた。
しかも、顔色一つ変えず、実にスマートに、その激辛と思われる麻婆ラーメンを味わっている。
その姿が、なぜか妙に格好良く見えて、私の心に、ほんの少しだけ、明るいものが灯った気がした。
彼の名前は、圭佑(けいすけ)さん。
確か、私より四歳年上だったはずだ。
彼は、私の視線に気づくと、少し驚いたように目を見開き、そして、ほんのわずかに、会釈をしたように見えた。
私も、慌てて会釈を返す。
心臓が、どきりと小さく跳ねた。
それから、私は、社員食堂で彼を見かけるたびに、無意識に目で追うようになっていた。
彼も、時々、私のことを見ているような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、その視線が交わる瞬間に、言葉にはできない、何か特別な「予感」のようなものを感じていた。
彼は、いつも辛そうな顔一つせず、決まって麻婆ラーメンか坦々麺を注文していた。
よほど、辛いものが好きなのだろう。
そして、それを食べる姿が、なぜかとても洗練されて見えた。
(あの人も、辛いものが好きなんだな…)
(いつか、話しかけてみたいな……。でも、あんなクールな人に、私なんかが話しかけてもいいのかな……)
でも、人見知りな私に、そんな勇気があるはずもなかった。
デザインの仕事では、自分の意見もろくに言えないのに。
そんな日々が数週間続いたある日。
その日も、私は麻婆ラーメンを注文し、カウンターで受け取ろうとしていた。
すると、隣に、彼が立っていたのだ。
彼も、同じ麻婆ラーメンを注文していた。
「……辛いの、お好きなんですね」
気づけば、私は、彼に話しかけていた。
自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。
彼は、一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに、ふっと表情を和らげた。
「ああ、好きなんですよ。ここの麻婆ラーメン、特にね。……あなたも?」
「はい、私も大好きなんです!」
初めて交わす、直接の会話。
彼の声は、思ったよりも低く、落ち着いていた。
そして、笑うと、目元が優しくなることも知った。
その日から、私たちは、社員食堂で顔を合わせると、短い言葉を交わすようになった。
好きな食べ物の話、天気の話、そして、少しずつ、仕事の話も。
彼が人事部で採用を担当していること。
仕事は大変だけど、やりがいもあること。
彼と話す時間は、日々の仕事のストレスを忘れさせてくれる、貴重なひとときだった。
大学時代のカフェでのアルバイトで感じた、「人と話すことの楽しさ」が、蘇ってくるようだった。
圭佑さんと話していると、私は、自然と笑顔になれた。
そして、ある日の昼休み。
私は、震える手で、小さなメモ用紙に、自分の携帯番号とメールアドレスを書き、「もしよかったら、今度、一緒に辛いものでも食べに行きませんか? もちろん、ご迷惑でなければ…」という、ありったけの勇気を込めたメッセージを添えた。
麻婆ラーメンを受け取る圭佑さんに、料理のトレーの下から、そっと、そのメモを渡した。
「……これ……」
彼は、驚いたように私を見た。
私の顔は、きっと真っ赤だっただろう。
「……また、連絡します」
彼は、そう言って、小さく微笑んだ。
その夜、私の携帯が鳴った。圭佑さんからだった。
「もしもし、向葵です」
「あ、圭佑です。さっきは、ありがとう。……びっくりしたけど、嬉しかったよ」
彼の優しい声を聞いた瞬間、私の心の中で、何かが、確かに動き出した。
それは、人生で一番好きになる人との、恋の始まりだった。
第三章:陽だまりと影、圭佑との日々
圭佑さんからの電話をきっかけに、私たちは、ぎこちないながらも、少しずつ距離を縮めていった。
初めて二人で食事に行ったのは、彼が見つけてくれた、会社の近くの隠れ家のようなイタリアンレストランだった。
「向葵さん、辛いもの好きって言ってたけど、イタリアンも大丈夫?」
「はい! もちろんです! おしゃれなお店ですね」
緊張で声が上ずりそうになるのを必死で抑えながら、私は答えた。
圭佑さんは、社員食堂で見るスーツ姿とは違い、ラフなジャケットにジーンズという出で立ちだった。
それがまた新鮮で、ドキドキした。
彼は、聞き上手で、私の拙いデザインの仕事の話や、大学時代のカフェでのアルバイトの話を、興味深そうに聞いてくれた。
そして、彼自身の仕事の話――人事部での採用の難しさや、社員のメンタルヘルスケアの重要性など――も、少しだけ打ち明けてくれた。
彼が時折見せる、仕事に対する真摯な眼差しや、社会に対する鋭い洞察力に、私はますます惹かれていった。
彼の落ち着いた物腰、理路整然とした話し方、そして、どんな時もクールさを失わない態度は、感情の起伏が激しく、すぐに不安になる私にとって、まるで灯台の光のように頼もしく思えた。
私たちは、それから何度も二人で会った。
休日に映画を見に行ったり、少し遠出して隣町の古いお寺を散策したり。
彼と一緒にいる時間は、いつもあっという間に過ぎていった。
彼は、私が今まで出会った誰よりも大人で、知的で、そして何より、私の話を否定せずに受け止めてくれる優しさがあった。
私は、圭佑さんといる時の自分が、一番好きだった。
自然と笑顔になれたし、背伸びをする必要もなかったからだ。
(この人が、運命の人なのかもしれない――)
そんな風に思うようになっていた。
人生で初めて、心から誰かを好きになり、その人からも想われているかもしれない、という確かな手応え。
それは、私の心を、これまでにないほどの幸福感で満たしてくれた。
かつて人見知りだった私が、こんなにも積極的に誰かを求め、関係を築こうとしている。
その変化自体が、私には奇跡のように思えた。
しかし、幸せな時間の中に、時折、小さな影が差すこともあった。
圭佑さんは、人事部という立場上、社内での私たちの関係が公になることを、極端に気にしているようだった。
二人でいるところを会社の同僚に見られないように、デートはいつも会社から離れた場所を選んだし、社内では、社員食堂で短い挨拶を交わす程度。
彼のその慎重さが、私には時々、寂しく感じられた。
彼が、麻婆ラーメンや坦々麺を、顔色一つ変えずにスマートに食べる姿を見るたびに、(私との関係も、こんな風にクールに割り切っているのだろうか)と、ふとした不安がよぎることもあった。
(もしかして、私は、彼にとって、おおっぴらにできない存在なのかな……)
(私との関係を、そこまで隠したいのかな……。それとも、私が何か、彼を不安にさせるようなことをしてしまっているのだろうか……)
そんな不安が頭をよぎると、私の「敏感さ」と「気を使いすぎる性格」が顔を出す。
彼に負担をかけたくない、という思いから、私は自分の寂しさや不安を口に出せずに、一人で抱え込んでしまう。
そして、彼の顔色を窺い、彼の言葉の裏を読み取ろうと、神経をすり減らす。
「最近、忙しそうだね。無理しないでね」
「うん、ありがとう。向葵さんもね」
そんな、当たり障りのない会話の裏で、私は(本当は、もっと会いたい。もっと声が聞きたい。でも、それを言ったら、彼を困らせるかもしれない。彼のクールなペースを乱してしまうかもしれない)と、自分の気持ちを押し殺してしまう。
そして、彼が少しでも疲れているように見えたり、返信が遅れたりすると、『私のせいかな』『何か気に障ることをしたかな』と、延々とネガティブな思考のループに陥る。
圭佑さんは、そんな私の内面の葛藤に、気づいていなかったのかもしれない。
彼のクールさは、時に、私の繊細な感情の揺らぎを察知するには、少しだけ鈍感だったのかもしれない。
あるいは、気づいていても、どうすることもできなかったのかもしれない。
彼は彼で、人事部という立場のプレッシャーや、社内恋愛のリスクを、彼なりにクールに、しかし一人で抱えていたのだろうから。
陽だまりのような幸福感と、その下に潜む、小さな影。
私たちの関係は、そんな危ういバランスの上で、それでも、輝きを増していくかのように見えた。
この幸せが、永遠に続けばいいのに、と私は心から願っていた。
その願いが、あまりにも儚いものだとは、まだ気づかずに。
第四章:ひび割れた心、夏の終わりの雨
圭佑さんと付き合い始めて、一年が過ぎた頃。
私たちの関係は、周囲から見れば順調そのものだったかもしれない。
でも、私の心の中では、小さなすれ違いや、言葉にできない不安が、少しずつ、しかし確実に積み重なっていた。
彼の「クールさ」が、私には時折、「冷たさ」に感じられるようになっていた。
圭佑さんは、ますます仕事が忙しくなり、会える時間は減っていった。
連絡も、以前よりずっと素っ気なくなったように感じられた。
それでも、私は「彼を困らせたくない」「重い女だと思われたくない」という一心で、寂しさを笑顔の仮面で隠し、彼の前では「平気なふり」を続けた。
私の「気を使いすぎる性格」は、ここでは完全に裏目に出ていた。
彼が辛いものをスマートに食べるように、私もこの関係の「辛さ」をスマートに受け流せたら、どんなに楽だっただろうか。
(きっと、彼は疲れているだけなんだ)
(私さえ我慢すれば、また元に戻れるはず)
そう自分に言い聞かせる一方で、心の奥底では、見捨てられることへの恐怖が、日増しに大きくなっていた。
その恐怖が、私をさらに不自然なまでに「良い子」にさせ、圭佑さんにとっては、それがかえって息苦しさを感じさせていたのかもしれない。
彼のクールな表情の裏にあるかもしれない本心に、私は気づけずにいた。
決定的な出来事は、夏の終わりの、蒸し暑い雨の日に起こった。
その日は、私の誕生日だった。
圭佑さんは、以前から「その日は、絶対に空けておくから」と言ってくれていた。
私は、ささやかながらも、彼と二人で過ごせることを、心から楽しみにしていた。
手料理を振る舞おうと、朝から食材を買い込み、慣れない手つきでケーキまで焼いた。
しかし、夕方になっても、彼からの連絡はない。
不安に思いながらも、何度もスマートフォンを確認する。
約束の時間が近づいても、既読スルーのまま。
雨音が、私の不安をさらに掻き立てる。
(何かあったのかもしれない……。事故とか……)
(いや、でも、それならそれで、連絡くらい……。彼は、そういうことを疎かにする人じゃないはずなのに……)
約束の時間を一時間過ぎた頃、ようやく彼から短いメッセージが届いた。
『ごめん。急なトラブル対応で、今、会社。今日は、どうしても行けそうにない。本当に申し訳ない。埋め合わせは必ずするから』
その短い文面を見た瞬間、私の心の中で、何かがプツンと切れた。
怒りよりも先に、深い、深い絶望感が押し寄せてきた。
(やっぱり……。私は、彼にとって、その程度の存在なんだ……)
(私の誕生日より、仕事の方が、ずっと大事なんだ……。いや、仕事は仕方ない。でも、その伝え方が……あまりにも……)
彼のクールさが、この時ばかりは、私にはあまりにも無神経なものに感じられた。
ノイズが、嵐のように頭の中で鳴り響く。
『お前は愛されていない』
『お前には価値がない』
『だから、いつもこうなるんだ』…。
私は、震える手で彼に返信した。
『分かった。仕事なら仕方ないね。気にしないで。ケーキ、一人で食べるね』
本心とは全く逆の、分かりの良い彼女を演じる言葉。
そして、ほんの少しの皮肉。
それが、私の精一杯の強がりであり、そして、彼に対する最後の諦めだった。
数日後、私たちは、いつものファミレスで向き合っていた。
気まずい沈黙。
圭佑さんの顔には、疲れと、そして何かを言い出せないでいるような、苦悩の色が浮かんでいた。
いつものクールな彼とは、少し違って見えた。
「……この間のこと、本当にごめん。埋め合わせ、どうしようか…」
「……ううん、もういいよ」
「よくないよ。……向葵、あのさ……。最近、俺たち、少しうまくいってないよな」
彼が、何かを言いかけた時、私は、それを遮るように言った。
「圭佑さん。……私たち、もう、終わりにしようか」
自分でも、どうしてそんな言葉が出てきたのか分からなかった。
ただ、もう、これ以上、期待して、傷ついて、自分を偽り続けることに、疲れてしまったのだ。
彼の「クールさ」の前で、私の「敏感さ」は、いつも空回りするだけだったから。
圭佑さんは、驚いたように私を見つめた。
そして、しばらくの沈黙の後、力なく頷いた。
「……うん。……そうだな。……それが、いいのかもしれない。……ごめん、向葵。俺が、ふがいなかった」
彼のその言葉は、私にとって、決定的な死刑宣告のように響いた。
最後まで、彼はクールだった。
別れ話は、あっけなく終わった。
涙も出なかった。
ただ、心にぽっかりと大きな穴が空いたような、途方もない虚無感だけが、私を包んでいた。
その日から、圭佑さんが社員食堂に来ることはなくなった。
噂では、彼は、最近派遣で入ってきた、若い女の子と親しくしているらしい、という話も耳にした。
それが事実かどうかは分からない。
でも、その噂は、私の傷口に、さらに塩を塗り込むようなものだった。
仕事も、手につかなくなった。
大好きだったはずの接客も、笑顔を作ることも、苦痛でしかなかった。
食べることも、眠ることも、億劫になった。
そして、ある朝。
私は、どうしても体が動かなくなり、会社を休んだ。
その日を境に、私の心は、完全に折れてしまった。
夏の終わりの冷たい雨が、私の心を、どこまでも深く、濡らしていく。
その痛みは、何年も、何年も、私を縛り続けることになる。
第五章:心の雨季、母との断絶
圭佑さんとの別れは、私の心に、想像を絶するほどの深い傷を残した。
大好きだった人からの拒絶、そして、彼が結局は自分ではない誰か(派遣の若い女の子、という噂は、私の耳にも届いていた)を選んだという事実は、私の存在価値そのものを根底から揺るがした。
社員食堂で彼の姿を見かけることはもうなかったが、会社の廊下やエレベーターで、偶然彼の元同僚や、噂の彼女らしき人物とすれ違うたびに、心臓が凍りつくような痛みに襲われた。
大好きだったはずのデザインの仕事も、全く手につかなくなった。
モニターに向かっても、頭は真っ白。
アイデアも浮かばず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
締め切りは迫り、先輩からは厳しい叱責を受ける。
かつてカフェのアルバイトで感じたような、人と関わることへの喜びも、今はもう、どこにも見出せない。
お客様の笑顔さえ、私には空々しいものに思えた。
心身ともに限界だった。
ついに私は、退職届を出した。
そして、逃げるように一人暮らしのアパートを引き払い、実家へと戻った。
二十四歳、秋のことだった。
(少し休めば、また元気になれるはず……)
そう思っていた。
でも、現実は違った。
実家に戻っても、私の心は晴れるどころか、ますます重く、暗い雲に覆われていった。
特に、母親との関係が、決定的に悪化してしまったのだ。
圭佑さんとの失恋でボロボロになっていた私は、藁にもすがる思いで、母親に自分の辛い気持ちを打ち明けた。
慰めてほしかった。
ただ、「大変だったね」と、寄り添ってほしかったのだ。
しかし、母から返ってきたのは、私が期待していた言葉ではなかった。
「だから言ったでしょう? もっとしっかりした、身元の確かな人を選びなさいって。あなたももういい歳なんだから、いつまでも夢みたいなこと言ってないで、現実を見なさい」
「男の人なんて、みんなそんなものよ。いちいち落ち込んでたら、身が持たないわよ」
「そもそも、あなたにも問題があったんじゃないの? もっと、相手に合わせるとか、気を遣うとか……」
母の言葉は、正論なのかもしれない。
彼女なりの、娘を心配する気持ちから出たものなのかもしれない。
でも、その時の私には、鋭いナイフのように、心を深く切り裂くだけだった。
一番理解してほしいはずの母親からの、追い打ちのような言葉。
それは、私にとって、新たな絶望の始まりだった。
(やっぱり、私は誰からも理解されないんだ)
(私のこの苦しみは、私だけのものなんだ)
(私は、ダメな人間なんだ……)
ノイズが、これまで以上に大きく、そして明確に、私を責め立てる。
私は、母親と顔を合わせるのも嫌になり、次第に自室に閉じこもるようになっていった。
食事もろくに喉を通らず、夜も眠れない日々が続いた。
窓の外の湖の景色も、もう美しいとは思えなかった。
ただ、広大で、冷たい、水の塊にしか見えなかった。
父は、そんな私と母の間で、ただオロオロするばかりだった。
昔から、彼は家庭のことには無関心で、母の言いなりだった。
彼に助けを求める気力も、私にはもう残っていなかった。
心の雨季は、明ける気配もなく、ただひたすらに、私の世界を濡らし続けていた。
第六章:長いトンネル、コロとの出会い
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
私の記憶は、その後の数年間、まるで濃い霧の中にいるように、曖昧模糊としている。
「心の病」という、はっきりとした診断名がついたわけではなかった。
病院に行く気力もなかったし、母も、世間体を気にしてか、私を無理に病院へ連れて行こうとはしなかった。
ただ、私は、社会との繋がりをほとんど断ち、実家の自室という、狭く、薄暗い世界に閉じこもっていた。
いわゆる「引きこもり」の状態。
それが、気づけば、何年も続いていた。
昼夜逆転の生活。
食事は、母が部屋の前に置いてくれるものを、気が向いた時に少し口にするだけ。
お風呂に入るのも億劫で、身なりにも全く構わなくなった。
好きだったデザインの本も、スケッチブックも、押し入れの奥にしまい込んだまま。
音楽を聴く気力さえ、湧いてこなかった。
頭の中では、常にノイズが鳴り響いていた。
自己否定、後悔、不安、絶望…。
圭佑さんのこと、仕事のこと、母親のこと…。
過去の出来事が、繰り返しフラッシュバックし、私を責め立てる。
時折、どうしようもない孤独感と虚無感に襲われ、声を上げて泣き叫びたい衝動に駆られることもあった。
でも、そんなエネルギーさえ、私には残っていなかった。
ただ、ベッドの上で、生きているのか死んでいるのか分からないような状態で、時間が過ぎるのを待つだけの日々。
(このまま、私は、何も変わらないまま、終わっていくんだろうか……)
そんな絶望的な考えが、私の心を支配していた。
変化の兆しは、本当に、ささやかなきっかけから訪れた。
引きこもり始めてから、五年ほど経った頃だろうか。
ある日、母が、小さな段ボール箱を抱えて、私の部屋に入ってきた。
「…近所の、知り合いのところで、犬の赤ちゃんが生まれたんだけど…一匹、飼ってみないかって言われてるのよ。…どうかしら?」
母の、おずおずとした提案だった。
彼女も、この長い間、私に対してどう接すればいいのか、悩み続けていたのかもしれない。
正直、最初は、面倒だと思った。
生き物の世話なんて、今の私にできるはずがない。
でも、段ボール箱の中から聞こえてくる、か細い「クーン、クーン」という鳴き声と、覗き込んだ先に見えた、小さな、震える毛玉の姿に、私の心の何かが、ほんの少しだけ、動いたのだ。
「……コロ」
気づけば、私は、その小さな茶色い子犬に、そう名前をつけていた。
コロとの生活は、私の止まっていた時間を、少しずつ、本当に少しずつ、動かし始めた。
朝、コロにご飯をあげるために、ベッドから起き上がる。
コロのトイレの世話をするために、部屋を掃除する。
コロが、私の足元でじゃれついてくる。
その温かい体温、無邪気な瞳、全身でぶつかってくる愛情。
それは、私が長い間忘れていた、「必要とされる喜び」と「無条件の愛」だった。
コロは、私がどんなにみすぼらしくても、どんなに暗い顔をしていても、ただ、ありのままの私を受け入れ、慕ってくれた。
コロの散歩のために、私は、何年かぶりに、家の外に出るようになった。
最初は、人目を避けるように、早朝や夜遅くに、こっそりと。
でも、コロが嬉しそうに尻尾を振って歩く姿を見ていると、私の心にも、ほんの少しだけ、明るいものが灯るような気がした。
湖の風が、久しぶりに、心地よく感じられた。
そして、そんなある日。
私は、スマートフォンの画面で、偶然、「EchoStream」という動画配信サイトを見つけた。
そこで出会ったのが、Yukiさんの運営する、古い音楽を流すチャンネルだった。
彼女の選ぶ音楽は、不思議と私の心に寄り添い、慰めてくれた。
そして、勇気を出して書き込んだコメントへの、彼女からの温かい返信。
顔も知らない、遠い誰かとの、ささやかな繋がり。
それが、私にとって、どれほど大きな救いとなったことか。
音楽。
コロの温もり。
Yukiさんとの、オンラインでの言葉のやり取り。
それらは、暗く長いトンネルの中に差し込んだ、本当に小さな、しかし確かな光だった。
引きこもり始めてから、約十年という、途方もなく長い時間が過ぎようとしていた。
私の心は、まだ完全に癒えたわけではない。
でも、確実に、何かが変わり始めていた。
もう一度、生きてみてもいいのかもしれない。
そんな思いが、心の奥底から、静かに湧き上がってきていた。
絶望と共に冷え切ってヒビ割れていた私の心。
けれど最近、ほんの少しだけ、その表面に、温もりが戻ってきたような気がしていた。
そのヒビは、まだ深く、痛々しいままだったけれど。
第七章:雪解けの兆し、EchoStreamの雪景色
コロとの生活は、私の凍りついた時間に、春の雪解けのような、ほんのわずかな変化をもたらした。
朝、彼の「お腹すいたよ」という催促で、重い体をベッドから引きずり出す。
彼の散歩のために、何年かぶりに、太陽の光を浴びながら外を歩く。
最初は、人の視線が怖くて、帽子を目深にかぶり、うつむき加減で歩いていた。
でも、コロが嬉しそうに草の匂いを嗅いだり、他の犬と挨拶を交わしたりする姿を見ているうちに、私の心にも、ほんの少しだけ、外の世界への興味が戻ってきた。
湖のほとりを歩けば、季節ごとに変わる景色が目に入る。
春には桜並木が淡いピンクに染まり、夏には湖水浴を楽しむ人々の歓声が響き、秋には紅葉が山を彩り、冬には時には山から厳しい寒風が吹き付ける。
その変わらない自然の営みが、私の止まっていた時間を、ゆっくりと、しかし確実に、再び動かし始めているような気がした。
そして、もう一つ、私の心を外の世界へと繋ぎ止めてくれたのが、「EchoStream」で出会ったYukiさんとの、オンラインでの交流だった。
彼女の住む「遠い北の町」は、私が住むこの湖畔の町とは、気候も文化も、何もかもが違うのだろう。
彼女の年齢も、家族構成も、仕事も、私は何も知らない。
メッセージで交わす言葉も、日常の本当に些細なことや、好きな音楽、読んだ本の感想などが中心だった。
それでも、彼女の言葉には、いつも不思議な温かさと、私の心の奥底にある何かをそっと肯定してくれるような、優しい響きがあった。
私が、内省ノートに書き溜めていた、誰にも見せるつもりのなかった「ノイズ」や「心の葛藤」について、ほんの少しだけ、言葉を選びながらYukiさんに打ち明けた時も、彼女は決して否定したり、安易なアドバイスをしたりはしなかった。
『そうなんですね。向葵さんの心の中には、色々な感情が渦巻いているんですね。でも、それだけ深く、物事を感じられるというのは、素晴らしい感受性を持っているということでもあるんですよ。今は辛いかもしれないけれど、その感受性は、いつかきっと、向葵さんだけの、美しい何かを生み出す力になると思います』
彼女の言葉は、まるで雪解け水のように、私の固く凍っていた自己肯定感を、少しずつ溶かしていった。
住む場所も、生きてきた過去も全く違う彼女が、なぜこんなにも私の心を理解してくれるのだろう。
不思議だった。
でも、その「違い」があるからこそ、私は安心して自分の弱さをさらけ出せるのかもしれない、とも思った。
Yukiさんとのやり取りを通して、私は、人と繋がることへの恐怖を、ほんの少しだけ、克服し始めていた。
そして、彼女が時折語る、彼女自身の「北の町」での暮らし――厳しい自然の中で、人々が寄り添い合い、ささやかな喜びを見つけながら生きている様子――は、私の知らない世界への想像力を掻き立て、いつか、私も、もっと広い世界を見てみたい、という淡い憧れを抱かせるのだった。
そんなある日、Yukiさんから、一枚の写真が添付されたメッセージが届いた。
それは、見渡す限り真っ白な雪に覆われた、静かで、美しい雪原の写真だった。
『今朝、私の家の窓から見えた景色です。厳しい冬も、もうすぐ終わり。雪の下では、新しい命が、春を待っていますよ』
その写真と言葉は、私の心に深く響いた。
私の長い心の冬も、いつか終わるのだろうか。
雪の下で、新しい何かが芽吹く準備をしているのだろうか。
まだ、自信はなかったけれど、ほんの少しだけ、そう信じてみたいと思えた。
第八章:春雷、ジムの扉と新しい風
引きこもりから数年。 コロとの散歩や、Yukiさんとのオンラインでの交流を通して、私の心は、薄皮を一枚一枚剥がすように、ゆっくりと、しかし確実に回復の兆しを見せていた。
部屋に閉じこもる時間は減り、母との会話も、ぎこちないながらも、少しずつ増えてきていた。 父は相変わらずだったけれど。
(このまま、少しずつでも、前に進めるかもしれない……)
そんな淡い希望を抱き始めた、春のことだった。
その日、私は、母と些細なことで口論になった。 きっかけは、私の将来についての、いつものお説教だった。
「向葵、あなたはいつまでも、そんな風に家にいて、どうするつもりなの? そろそろ、ちゃんと自立して、自分の人生を考えなさい」
母の言葉は、正論だったのかもしれない。 彼女なりの心配から出たものであることも、頭では分かっていた。 でも、ようやく少しだけ前向きな気持ちになりかけていた私にとって、その言葉は、過去のトラウマを刺激し、再び「自分はダメな人間だ」というノイズを呼び覚ますには、十分すぎる威力を持っていた。
「分かってる! 分かってるけど、そんな簡単に言わないでよ! お母さんには、私の気持ちなんて分からないでしょ!」
私は、感情的に言い返してしまった。 そして、母もまた、「分からないわよ! 分かろうともしないじゃないの、あなたは!」とヒステリックに叫んだ。
売り言葉に買い言葉。 激しい言葉の応酬。 それは、まるで春の嵐(春雷)のようだった。
私は、たまらなくなって、家を飛び出した。
(もう、こんな家、いたくない!) (どこかへ行きたい! ここじゃない、どこかへ!)
行く当てもなく、ただ夢中で自転車を漕いだ。 涙で視界が滲む。 息が切れる。 どれくらい走っただろうか。
ふと顔を上げると、駅前に新しくできた、大きなフィットネスジムの看板が目に飛び込んできた。
『新しい自分、見つけよう!』
そのキャッチコピーが、なぜか、今の私の心に強く突き刺さった。
(新しい自分……。本当に、見つかるのかな……)
気づけば、私は、ジムの受付カウンターの前に立っていた。 勢いで入会手続きを済ませ、渡されたトレーニングウェアに着替え、おずおずとトレーニングエリアへと足を踏み入れる。
最新のマシンが並び、アップテンポな音楽が流れ、汗を流す人々。 それは、これまで私が縁のなかった、エネルギッシュで、健康的な世界だった。 圧倒されそうになりながらも、私は、空いていたランニングマシンに乗り、ゆっくりと歩き始めた。
(これで、何かが変わるんだろうか……)
期待と不安が入り混じる。 体を動かすのは、何年ぶりだろうか。 少し走っただけで、息が上がり、汗が噴き出す。
でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。 むしろ、心の中に溜まっていた、ドロドロとした感情が、汗と一緒に流れ出ていくような、爽快感さえあった。
しばらく無心で走り続け、ふと顔を上げると、隣のランニングマシンで、黙々と走っている青年と目が合った。 私より、少し年下だろうか。 色素の薄い髪、静かで、どこか影のある瞳。 でも、その走り方は、ストイックで、何か強い意志を感じさせた。
彼も、私の視線に気づいたのか、一瞬だけこちらを見て、すぐにまた前を向いてしまった。 特に会話はなかった。
トレーニングを終え、シャワーを浴びてジムを出る頃には、先ほどの母親との喧嘩の怒りや悲しみは、不思議と薄れていた。 代わりに、心地よい疲労感と、そして、何か新しいことを始めたという、小さな高揚感が、私の心を包んでいた。
(明日も、来てみようかな……)
そして、あのランニングマシンで見た、静かな瞳の青年が、後に私の人生に大きな影響を与える凪(なぎ)くんになるとは、この時の私は、まだ知る由もなかった。ただ、彼の存在が、私の心に小さなさざ波を立てたことだけは確かだった。
第九章:嵐の夜、インナーチャイルドの声
ジムに通い始め、日常に少しずつ変化の兆しが見え始めたものの、私の心はまだ不安定なままだった。母との関係もぎこちなく、引きこもり生活で抱えた孤独感や不安感は、そう簡単には消えてくれなかった。
そんな、まだ春から初夏へと移り変わる頃。 大型の台風が接近し、この湖の町を直撃した夜のことだ。
外は、窓ガラスが割れんばかりの暴風雨。 停電の恐れもあるとニュースが報じている。 実家の自室で、激しい風雨の音に晒されながら、私は一人、コロと身を寄せ合っていた。
(怖い……)
それは、単なる天候への恐怖ではなかった。 幼い頃から、雷や嵐の夜は、言いようのない不安感に襲われた。 見捨てられるような、世界から切り離されて独りになってしまうような、根源的な恐怖。 それは、普段は心の奥底に沈んでいるが、こういう夜になると、抑えきれずに顔を出すのだ。
(大丈夫、大丈夫……。ただの天気だ……)
自分に言い聞かせようとする。 だが、風が唸りを上げ、家がミシミシと軋むたびに、心臓は激しく打ち、呼吸は浅くなる。 ノイズが、嵐の音と共鳴し、増幅していく。
『独りだ』 『誰も助けてくれない』 『このまま、壊れてしまう』 『見捨てられる』
頭の中で、過去の記憶が、断片的に、しかし鮮明にフラッシュバックする。 親に「お前は本当に手のかかる子だ」と突き放された時の、冷たい感覚。 友達グループの中で、自分だけが仲間外れにされていると感じた時の、胸が締め付けられるような痛み。 そして、圭佑さんとの別れ…。
それらの感情が、現在の恐怖と一体となって、私を飲み込もうとする。
「いや……! やめて……! 誰か……!」
耳を塞いでも、声は内側から響き、止まらない。 ベッドの上で蹲り、膝に顔を埋める。 コロが心配そうに私の腕の中で震えている。 この子を守らなければ、と思うのに、私自身が恐怖に支配されて、動けない。
(もう、だめだ……。怖い、怖い、怖い……!)
恐怖と絶望の奔流が、私の意識を完全に飲み込もうとした、その瞬間――。
私の意識は、現実の部屋から急速に引き剥がされた。 視界が歪み、嵐の音も、コロの震えも遠のいていく。
気がつくと、私は、暗く、湿っぽく、カビ臭い場所に立っていた。
手足の感覚が鈍い。 ここは……?
思い出した。 小学生の頃、友達とかくれんぼをしていて、誤って入り込んでしまった、町の外れにあった古い防空壕の跡だ。 入口が崩れて出られなくなり、何時間も、暗闇の中で、独りで救助を待っていた、あの場所。
奥の方から、か細い、子供のすすり泣く声が聞こえる。
胸が締め付けられるような思いで、震える足で、声のする方へ近づいていく。
そこにいたのは、やはり、幼い頃の私だった。 泥だらけのワンピースを着て、壁に背をもたせ、膝を抱え、真っ暗な闇の中で、希望もなく、ただひたすらに泣きじゃくっている。
『怖いよ……。誰も迎えに来てくれない……。お母さん……。私、悪い子だから……見捨てられちゃったんだ……。もう、ここから出られないんだ……』
その姿を見た瞬間、雷や嵐の夜に私を襲う、あの根源的な恐怖の正体が、腑に落ちた。
これは、この防空壕での体験によって、私の心の最も深い部分に刻まれた、「見捨てられることへの恐怖」と「絶望的な孤独感」そのものなのだ。 ずっと、この泣きじゃくる「私(インナーチャイルド)」が、心の奥底で救いを求めていた。 それが、嵐の夜のような、孤独や不安を強く感じる状況で、噴き出してきていたのだ。
どうすればいい? この子を、どうすれば救える?
過去に図書館で読んだ本や、Yukiさんとのやりとりでもらった言葉 『自分だけは、自分の味方でいてあげる』 『ただ、寄り添う』 『その子の存在に気づいて、優しく声をかけてあげるんです』。
私は、ゆっくりと、泣いている幼い私の隣にしゃがみ込んだ。 そして、何も言わずに、その小さな、震える背中を、そっと、繰り返しさすり続けた。
「怖かったね」 「ずっと、独りで、暗いところにいたんだね」 「誰も迎えに来てくれなくて、寂しかったね。見捨てられたって、思ったよね」 「でも、あなたは、決して悪い子なんかじゃなかったよ」 「そして、もう、大丈夫だよ」 「私が、ちゃんと、ここにいるから。もう、絶対に独りにしないから。必ず、ここから連れ出すから」
言葉は、理屈ではなく、心の奥底から、自然と溢れてきた。 それは、過去の自分への深い共感であり、今の私が、あの時の絶望的な恐怖と孤独を、ようやく受け止め、統合しようとする、魂の叫びだった。
イメージの中で、私は小さな私を、力強く、しかし優しく抱きしめた。 温かくて、もろくて、でも、確かに存在する、私の内なる子供。 この子を、私が守るのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。 防空壕の中は、相変わらず暗く、冷たい。 でも、幼い私のすすり泣きは、次第に穏やかになり、やがて、疲れたような、静かな寝息に変わっていった。 私の腕の中で、小さな体は、ようやく本当の安心を得て、眠りについたのだ。
それと同時に、私の意識も、ゆっくりと、しかし確実に、現実の部屋へと引き戻されていった。
気がつくと、私はベッドの上で、涙と汗でぐっしょり濡れた顔のまま、横たわっていた。 窓の外を見ると、嵐は依然として続いていたが、先ほどまでの、世界が終わるかのような激しさは、峠を越したように感じられた。
心の嵐は、まだ完全には止んでいない。 ノイズも、すぐには消えないだろう。
でも、何かが、決定的に変わった。 私は、自分自身の最も深い恐怖の根源に触れ、それを否定するのではなく、抱きしめ、受け入れ、そして、乗り越えるための一歩を踏み出すことができたのだ。 それは、想像を絶する痛みを伴う体験だったが、魂の再生に向けた、最も重要な通過儀礼だったのかもしれない。
その時、部屋のドアがそっと開き、心配そうな母の顔が覗いた。
「向葵……大丈夫? すごい風雨だけど……」
母の声は、いつもよりずっと、優しく聞こえた。
第十章:雨上がりの虹、母の涙
嵐の夜が明け、私の内面で大きな変化が起こった後も、日常は続いていた。 しかし、その日常は、以前とは少しだけ、色合いを変えて見えた。
あれほど私を苦しめていた「見捨てられることへの恐怖」や「絶望的な孤独感」は、完全に消え去ったわけではない。 でも、その感情に飲み込まれずに、少し距離を置いて眺められるようになった。 「ああ、またあの子(インナーチャイルド)が怖がってるんだな。大丈夫だよ」と、心の中で優しく声をかけられるようになったのだ。
そんな変化は、私の態度にも現れていたのかもしれない。
あの嵐の夜、心配して部屋を覗きに来た母に対して、私は、以前のように心を閉ざすのではなく、ぽつりぽつりと、自分の苦しかった気持ちの一部を話すことができたのだ。 「ずっと、怖かったんだ」と、ただそれだけを、涙ながらに伝えた。
母は、驚いたように私の言葉を聞いていた。 そして、何も言わずに、ただ、私の背中をさすってくれた。 それは、私が長年求めていた、母からの無条件の肯定、というわけではなかったかもしれない。 でも、そこには確かに、娘を思う母の、不器用な優しさがあった。
その日を境に、母との関係は、ほんの少しだけ、変わった。 相変わらず、私の将来を心配する言葉は多いし、価値観の違いを感じることもある。 でも、以前のような、一方的なお説教や、私を追い詰めるような言い方は、少しだけ減ったように思う。 そして私もまた、母の言葉を、以前のように全て自分への攻撃だと受け取るのではなく、「この人は、こういう価値観の中で生きてきたんだな」「心配してくれてるんだな」と、少しだけ客観的に聞けるようになっていた。
それでも、やはり、実家での生活は、どこか息苦しさを伴うものだった。 回復してきたとはいえ、社会との繋がりをほとんど持たない生活。 母との、微妙な緊張感をはらんだ距離。
(このままじゃ、だめだ……) (私は、私の足で、自分の人生を歩き始めなきゃ……)
そんな思いが、日増しに強くなっていた。 嵐の夜の体験は、私に、自分の最も深い恐怖と向き合う勇気を与えてくれただけでなく、「自分自身を生きる」ことへの、強い渇望をもたらしていたのだ。
そんなある日、母が、少し改まった様子で私に話しかけてきた。
「向葵……。あなた、これからどうするつもりなの? お母さん、あなたのこと、心配だけど……。でも、あなたが本当にやりたいことがあるなら……」
母の言葉は、途切れ途切れだった。 彼女もまた、私との新しい関係性を、手探りで見つけようとしているのかもしれない。
その時、私は、ずっと心の中にあった、でも、口に出すのが怖かった言葉を、ようやく伝えることができた。
「……お母さん。私、もう一度、外で働きたいと思ってる。そして、いつかは、この家を出て、一人で暮らしたい」
母は、一瞬、悲しそうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「……そう。……分かったわ。あなたが、そう決めたなら……。お母さんは、もう、何も言わない。……ただ、体にだけは気をつけて。無理はしないでね」
その目には、涙が浮かんでいた。 それは、娘を手放す寂しさの涙であり、同時に、娘の新たな一歩を、不器用ながらも応援しようとする、母性の涙でもあった。
その瞬間、私は、長年私と母の間にあった、見えない壁が、音を立てて崩れていくのを感じた。 完璧な理解ではないかもしれない。 でも、私たちは、ようやく、それぞれの人生を尊重し合える、新しい関係性のスタートラインに立てたのかもしれない。
その数週間後。 私は、町の広報誌で見つけた、駅前の新しいフィットネスジムのオープニングスタッフ(受付兼簡単なトレーナー補助)の募集に応募した。 体を動かすことで、心身のバランスを取り戻したい、という気持ちもあったし、何よりも、「新しい環境」に飛び込みたいという思いが強かったのだ。 そして、無事に採用が決まった。
家を出る日。 荷物は、段ボール数箱と、小さなスーツケースだけ。 コロは、母が「私が面倒見るから、あなたは自分のことに集中しなさい」と言ってくれたので、実家に残していくことになった。 それは寂しかったけれど、今の私には、コロを十分に幸せにしてあげられる自信が、まだなかった。
玄関で見送る母の目は、赤く腫れていた。
「……頑張るんだよ」
「うん。……ありがとう、お母さん」
ぎこちないけれど、確かな温もりを感じる別れだった。
私は、小さなアパートを借り、新しい生活を始めた。 そして、フィットネスジムでの、新しい仕事と、新しい出会いが、私を待っていた。
第十一章:ジムの喧騒、静かな瞳との出会い
実家を出て、町のはずれにある小さなアパートで一人暮らしを始めて数ヶ月。 フィットネスジムでの新しい仕事にも、少しずつ慣れてきた。 受付業務や清掃、そして簡単なトレーニングマシンの説明など、覚えることは多かったけれど、体を動かすこと自体は、思った以上に心地よかった。 何よりも、新しい環境、新しい人間関係の中に身を置くことで、私の心は、少しずつ外向きになっていくのを感じていた。
もちろん、簡単ではなかった。 もともと人見知りな上に、長い引きこもり生活で、人とのコミュニケーション能力は著しく低下していた。 お客様への対応も、最初はぎこちなく、声も小さくなりがちだった。 それでも、大学時代のカフェでのアルバイト経験が、心のどこかで私を支えてくれていた。 「笑顔で」 「相手の目を見て」 「丁寧な言葉遣いを」。 そう自分に言い聞かせながら、日々、必死だった。
そんな私を、ジムの先輩スタッフたちは、温かく見守ってくれた。 特に、同年代の女性スタッフの何人かは、休憩時間に気さくに話しかけてくれ、仕事のコツを教えてくれたり、時には私の拙い話に耳を傾けてくれたりした。 人の優しさに触れるたびに、私の固く閉ざされていた心が、ほんの少しずつ、解きほぐされていくのを感じた。
そして、凪(なぎ)くん。 彼は、私より少し後から、同じジムでスタッフとして働き始めた。
私より五歳年下。
専門学校でウェブデザインを学び、フリーランスのウェブ制作者として独立を目指しているが、まだそれだけでは生活が不安定なため、このジムでアルバイトをしているのだという。
彼の第一印象は、「静かで、どこか影のある人」。
あまり自分から話すことはなく、休憩時間も一人で黙々と専門書を読んでいることが多かった。
色素の薄い髪、整った顔立ち。
でも、その瞳には、時折、遠くを見つめるような、何かを耐えているような、深い翳(かげ)りが宿っていた。
それでも、私は、なぜか彼のことが気になっていた。
彼が、真剣な表情でトレーニングマシンのメンテナンスをしている姿や、お客様にトレーニング方法を説明する時の、優しくて的確な言葉遣い。
そして何より、彼が一人で黙々と自分の夢(フリーランスとしての自立)に向かって努力している姿に、同じように未来への不安を抱えながらも、新しい一歩を踏み出そうとしている私自身の姿を、どこかで重ねて見ていたのかもしれない。
ある日の夕方、ジムのトレーニングエリアで、私は、彼がランニングマシンで黙々と走っているのを見かけた。
そのストイックな姿に、思わず声をかけていた。
「……凪くん、いつも頑張ってるね」
彼は、驚いたように顔を上げ、イヤホンを外した。
「あ……向葵さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。……フリーランスの仕事、大変?」
「……まあ、まだ始めたばかりなんで。……でも、いつか、自分の力でやっていきたいとは思ってます」
彼の言葉は少なかったけれど、その瞳の奥には、確かな情熱の光が宿っているのが見えた。
「……すごいね。私、応援してるよ!」
その言葉は、何の計算もなく、私の口から自然と出ていた。
かつて、圭佑さんに対して抱いたような、激しい恋心とは違う。
でも、彼のひたむきな姿に、純粋に心を動かされ、力になりたい、と思ったのだ。
彼は、私の言葉に、少しだけ驚いたような、そして、ほんの少しだけ、照れたような表情を見せた。
「……ありがとうございます」
それが、彼と私が、初めて個人的な言葉を交わした瞬間だった。
それから、私たちは、休憩時間や仕事終わりに、少しずつ言葉を交わすようになった。
彼が作っているウェブサイトの話、私が昔デザインを学んでいた話、好きな音楽の話(彼は意外にも、私と同じ古いソウルミュージックが好きだった)、そして、彼が時折見せる、ゲームセンターや古いゲームへの、異常なほどの知識と愛情…。
彼は、多くを語るタイプではなかったけれど、その言葉の端々からは、彼の誠実さや、内に秘めた優しさ、そして、時折見せる少年のような無邪気さが伝わってきた。
そして、私もまた、彼と話していると、不思議と心が安らぎ、素直な自分自身でいられるような気がしたのだ。
過去の恋愛の傷や、母親との確執、将来への不安…そんな私の心の重荷を、彼は黙って受け止めてくれるような、そんな包容力を感じた。
それは、嵐の夜が過ぎ去り、私の心に、ようやく訪れた、穏やかで、温かい、新しい風だった。
そして、その風は、私の人生を、再び、優しく動かし始めていた。
第十二章:湖畔のスケッチブック、新しいページ
凪くんとの出会いは、私の日常に、彩りと、そして確かな希望をもたらした。
フィットネスジムでの仕事は、相変わらず大変だったけれど、彼と短い言葉を交わしたり、一緒に休憩したりする時間が、私にとって大きな支えとなっていた。
私たちは、自然な流れで、休日に二人で会うようになった。
最初は、近所のカフェでお茶をしたり、湖畔を散歩したりするだけだった。
でも、次第に、一緒に映画を見に行ったり、凪くんが昔通っていたという、少し離れた町にあるレトロなゲームセンターに遊びに行ったりもした。
彼は、古いゲーム機の前に立つと、子供のように目を輝かせ、そのゲームの歴史やメカニズムについて、熱く語った。
その姿は、いつも物静かな彼からは想像もつかないほど、情熱的で、魅力的だった。
私は、そんな彼を見ているのが好きだった。
そして、彼が自分の夢や、過去の辛い経験(親友のことや、ゲームデザインへの情熱を封印していたこと)を、少しずつ、私に打ち明けてくれるようになるにつれて、私たちの心の距離は、急速に縮まっていった。
「向葵さんといると、なんだか、安心するんだ」
ある日、湖畔のベンチで、夕陽を見ながら、彼がぽつりと言った。
「……私もだよ。凪くんといると、素直な自分でいられる気がする」
その言葉は、どちらからともなく、自然と溢れ出た本心だった。
私たちは、互いの不完全さや、弱さや、過去の傷を知りながら、それでも、惹かれ合っていた。
それは、圭佑さんとの間にあったような、激しく燃え上がるような恋とは違う。
でも、もっと深く、穏やかで、確かな絆で結ばれた、魂の繋がりだった。
そして、秋が深まる頃。
私は、実家を出て、凪くんと一緒に暮らすことを決めた。
それは、私にとって、大きな決断だった。
経済的な不安もあったし、母親との関係も、まだ完全に修復されたわけではなかった。
でも、凪くんとなら、きっと大丈夫だと思えたのだ。
彼となら、どんな困難も、二人で乗り越えていける。
そんな、確信があった。
引っ越し先の小さなアパートのリビングには、私の古いスケッチブックと、凪くんが大切にしている、ゲームのアイデアが詰まったノートが、並んで置かれるようになった。
私は、カフェ・ラポールでのパートを始め、凪くんは、フリーランスの仕事と、そして、再び燃え始めたゲームデザインへの情熱に、時間を注いだ。
私たちの新しい生活は、決して楽なものではなかったけれど、そこには、確かな愛と、互いへの信頼と、そして、未来への希望があった。
時折、私の心に、過去のトラウマや、内なるノイズが囁きかけることもある。
でも、もう、それに飲み込まれることはない。
隣には、凪くんがいてくれる。
湖畔のスケッチブックの、色褪せたページは、もうめくられることはない。
私は、今、凪くんと共に、新しい真っ白なページに、私たちの未来を、ゆっくりと、しかし確かな筆致で、描き始めているのだから。
【了】
⭐️関連リンク⭐️
本編「コロと響き合う宇宙(ソラ) ~湖畔のスケッチブック〜」
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