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判明!子供の頃、呪文のように唱えていた祈りの正体。

今日、51回目の誕生日を迎えた。

若かった頃、目の前には無限大の空白が広がっていた。遮るものは、何もなかった。

今は、オギャーと最初の呼吸をしてこの世に誕生した時、そして、いずれ訪れる最後の一息をしてこの世から退場する時。この2つの時を頂点にした大きな楕円の中にでもいるような感覚でいる。

無限のように感じていた自分の一生というものが、いやいや違うよ、有限だよ、という実感を持ち始めてまだほんの数年の話ではあるのだが、そのお陰で実は、ある長年の謎が解けつつある。

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小学校から高校まで、私はキリスト教のミッションスクールに通っていた。毎朝、授業の前には礼拝堂に行って礼拝の時間があった。

礼拝では必ずお祈りをする。そのお祈りで私は毎日、「いい人になれますように、いい人になれますように、いい人になれますように」と3回「いい人になれますように」を繰り返して祈っていた。

「いい人(善き人)になれますように」

これを小学一年生の時に心の中で唱えて以来、このフレーズで毎日祈り続けた。気に入った、というか、しっくりきていたのだと思う。習慣になるのに時間はかからなかった。手を組んで目を閉じ、お祈りの姿勢をとると自然とこのフレーズが頭に浮かび、呪文のようになってしまったそれは、毎日の生活の中から礼拝の時間がなくなる高校卒業まで続いた。

小1の私に「善き人」の姿が具体的に思い描けていたわけではない。ただ、毎日礼拝で聞くお説教の中でなにかしらの「善き人」のイメージは頭の中にあることはあって、「私も善き人になりたい」と漠然と、そしてどこまでも純粋に、そう思っていた。

大人になってからも、この「いい人(善き人)になれますように」という自分のお祈りフレーズは頭の中に残ってはいた。ただ、自分で祈っておきながら、自分が「なれますように」と祈っていた「いい人(善き人)」って一体全体どんな人よ?、というのが私の長年の謎でもあった。

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ここ数年、自分の人生が有限である、ということが身に染みて感じられるようになって見えてきたこと。

それは、限りある毎日を、笑顔で、人に優しく、より本来の自分に戻って(自分らしく)生きていきたい、ということ。もう、不機嫌になったり、嫉妬したり、人を羨んだりしている時間はない。

そう心の底から感じるようになった時、

あ、これが私が小1の時に祈っていた「いい人(善き人)」だ!

という閃きがあった。時空を越えて、イメージがぴったりと重なった。

小1の私の祈り「いい人(善き人)になれますように」は、

「笑顔で、人に優しく、自分らしく在れますように」

という祈りだった。確かに、そうだった。そしてその祈りは今も、変わらない。というよりも今こそ、全身全霊でそう祈りたい。

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思えば随分と長い時間、私はこの祈りを忘れていた。祈ること自体を、忘れていた。疲れて、不機嫌で、人にも自分にも優しくなれず、自分が何者か分からず、他人を羨んでばかりいた。

もういい。

小1の祈りに戻ろう。そして、今度こそ本当にそれを手に入れよう。

どうやって?

生きていると色々ある。笑顔になれない時も、優しくなれない時も、そんなこと言ってる場合じゃない時だって、ある。

でもそんな私には今、「書く」ことがある。たとえ自分がどんな状態であろうと、「書く」ことは、私を「いい人(善き人)」へと導いてくれる最善の方法である、ということを今の私は知っている。

なぜか?なぜ「書く」ことが私を「善き人」へと導いてくれるのか?その話はまた別の機会に。

小さき人の祈りを叶えるためにも、51歳の私は今日も書き、そして生きていく。


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