村田兆治はなぜ超人だったのか?マサカリ投法が遺したもの、闘争心は消えない* 「打たれたくないんだよ」―村田兆治という生き方
【ノンフィクション・コラム】
牙を剥くプロの闘争心――村田兆治の超人伝説と首脳陣の緊迫感
――元ダイエー捕手・川越透が目撃した、熱き昭和・平成パ・リーグの裏舞台
文・ちとく魂
時計の針が16時を回り、グラウンドに長い影が伸び始める。すっきりと晴れ渡った晴天の夕方。元プロ捕手・川越透さん(59)が明かしてくれたのは、プロ野球史の裏側にある濃密な人間ドラマ、そして現代へと奇跡のようにつながる「縁」の物語だった。
かつて全国放送のドキュメンタリー番組『ザ!世界仰天ニュース』などでもそのプロ野球人生が紹介され、多くのファンの胸を打った川越さんの瞳には、かつて命がけで火花を散らした首脳陣や超人たちとの生々しい記憶が、鮮やかに蘇っていた。

■ 「マサカリ投法」村田兆治の驚愕伝説と、妥協なき投手の本能
川越さんが現役時代、チームに大きな変革期が訪れた。当時のオーナー代行が、王貞治監督を必死の思いで勧誘。その王監督が「自分が一番やりやすい人間を」と全幅の信頼を寄せて呼び寄せたのが、後に1軍投手コーチに就任する「マサカリ投法」の村田兆治さんだった。

川越さんは、村田さんから直接聞いた数々の強烈な「伝説」、そしてその底知れない凄みを間近で目撃している。
村田さんは高校時代、当時は福山電波工業(現在の近大福山)と呼ばれていた学校の出身。そこへ通う通学電車の中で、常に「かかとをつけずにつま先立ち」で過ごし、足腰を徹底的に鍛え上げた。さらに、代名詞であるフォークボールを極めるため、なんと10キロもある鉄アレイを人差し指と中指の間に挟み、ホームベースからマウンドまでの距離(18.44メートル)を何度も往復して指力を鍛え上げたという。

「普通の人は持つことすらできない重さですよ。それを平気で持っていたんですから。キャンプの時も、一升瓶を人差し指と中指で挟んで持ち上げ、手首や指を鍛えていた姿を実際に見せてもらいました。まさに超人でしたね」
さらに、王監督の前で村田さんがバッティングピッチャーを務めた際のエピソードも、村田さんの底知れない闘争心を物語っている。最初は気持ちよく打たせていた村田さんだったが、徐々に投手の本能が目を覚まし、打者を本気で打ち取りにいってしまうのだという。
「村田さんはよく『これは投手の癖なんだ、俺は打たれたくないんだよ!打たせるために投げとるんじゃない』と言っていました(笑)。終盤になると、何も言わずにいきなり本気のフォークボールを投げ込むんです。バッティング練習をしていた選手たちが面白いように空振り

するのを見て、村田さんは本当に嬉しそうに少年みたいに笑っていました。打たれたくないという本能が、引退してもなお体に染み付いていたんです」
■ 牙を剥くコーチ陣――「表の顔」と「勝負の顔」が交錯する緊迫感
村田さんが1軍で超人ぶりを発揮していた一方、当時のチームはオーナー代行の意向もあり、広島東洋カープ出身のOBを中心にコーチ陣が形成されていた。2軍には達川光男さんをはじめ、あの俊足巧打で鳴らした高橋慶彦さん、強打の水谷実雄さんといった、そうそうたる面々が首脳陣に名を連ねていたが、その現場は凄まじいまでの緊迫感に満ちていた。

「テレビで見る高橋慶彦さんはすごく温厚で優しそうに見えますが、グラウンドでは全然違うんですよ。まさに『表の顔と勝負の顔』。当時は達川さんと高橋さんがコーチ同士で激しい喧嘩をすることもありましたし、高橋さんは水谷さんともあまり仲が良くなかった。それぐらい、現場はいつもピリピリとした真剣勝負の空気が流れていました」
馴れ合いを一切許さない、牙を剥き出しにしたプロフェッショナルたちの衝突。そのヒリつくような環境こそが、過渡期にあったチームを強固に引き締めていた。
このような過酷なプロの世界で、川越さんは1988年から2001年まで14年間にわたり現役でプレー。通算224勝を挙げた名投手・工藤公康投手とバッテリーを組むなど117試合に出場し、工藤投手から「やっとキャッチャーらしくなったな」と成長を認められた瞬間や、元チームメートの日本ハム・下柳剛投手からプロ初本塁打を放った記憶は、今も川越さんの誇れる勲章だ。
■ 2026年・夏――時を超えて重なる「伝説」、新天地の実業高校へ
そして2026年6月、川越さんは兵庫県丹波市にある県立の実業高校のグラウンドに立っている。
女子バレーボールの強豪として全国に名を馳せ、農業や畜産などを学ぶこの学校だが、野球部は部員の減少に悩み、今春は他校との連合チームを余儀なくされるなど、衰退の危機に瀕していた。
その状況に危機感を募らせていた原智徳監督(49)から「力を貸してほしい」と声をかけられた川越さんに、迷いはなかった。勤めていた京都の商社を辞め、この4月から実習助手として授業を手伝いながら、18人の部員たちの指導にあたっている。

「高校野球は、無心で泥んこになって球を追い、ただただ甲子園を目指す場所。私の原点なんです」
実は、川越さんとこの学校には、村田兆治さんを介した不思議で濃密な「縁」があった。
川越さんがプロの現場で目撃した村田さんの超人伝説を話すと、原監督が不意に驚きの声を上げた。原監督にとって、村田さんの母校である「近大福山」こそが、指導者としてのキャリアをスタートさせた最初の勤務先だったのだ。
「僕も最初の勤務先だった近大福山で、村田さんのその伝説をたくさん聞かされていました。あの話はすべて本当だったんですね!」

原監督が驚き、ともに話を聞いていたマネージャーさんも「間違いないですよ」と深い感銘の様子を浮かべる。プロの舞台で村田さんと対峙した川越さんと、最初の赴任先でその偉大な先人の背中を追いかけてきた原監督。二人が今、丹波市の実業高校で同じユニフォームを着て、一人のレジェンドの息吹を共有している。この奇跡的な巡り合わせに、グラウンドの空気はさらに熱を帯びていく。
18時を迎え、グラウンドを照らす夕日が茜色に深く染まっていく。川越さんが選手たちに伝えていこうとしているのは、村田兆治さんのように妥協なく己を鍛え上げた探求心、そしてあの過酷なプロの世界で学んだ、コツコツと一歩ずつ積み重ねる大切さだ。

「私の持っているものをすべて教えて、コツコツと一つずつ積み重ねていきたい」
目標は、近年遠ざかっているまずは「3回戦進出」。還暦を前にした川越透さんの新たな挑戦は、高校時代に自身が掴めなかった「甲子園」という夢をもう一度追いかけ、不思議な縁で結ばれた丹波市の実業高校で、原監督とともに力強く泥まみれになりながら、今夕もグラウンドにノックの音を響かせている。


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