ほとんどビートたけしの芸の域に達した、フォーカシングの「ふつうの相談」的臨床現場適用のライブパフォーマンス
阿世賀:こんばんは。
阿世賀:
あれからまる一日資料制作をバワポのプレゼンでやるという無茶大袈裟な話にまで突き抜けてしまったので、ここのライブチャットを覗くどころではなくなっていました。
若い臨床家:
論文を書く時、自分のことをなんと呼ぶかで迷っていると申し上げましたが、私は、考えた末ですが、阿世賀さんの言われた、「論者」ではなくて、「筆者」にしようかと。
(以下全部)阿世賀:
いいんではないですか、「筆者」というのは自然で。
最終的には、自分が名乗りたいように名乗るのが。
私たちは湯婆婆に千尋という名前を奪われた千ではないわけで。
あの物語のあのシーンは、実は遊郭で源氏名を与えられることの暗喩ですが、意味を一般化すれば、私たちが一定の専門職として採用される際にかぶることを雇い主から強制される仮面、つまり、ユングのいうペルソナです。
実はユング自身は、ペルソナをかぶることを自分を偽るよくない状態というネガティブな意味では全く書いていません。
ユングは、確か「元型論」の中で、「日本人にペルソナかない」とボソッと書いています。
なぜボソッと書いているのか、私はずっと気になっていました。
私なりに考えた末に行き着いた結論は、ユングははるばるスイスまでやって来た留学生くらいとしか日本人に深く会ってないはずです。
そして、シンプルに、「日本人ってどうしてこんなにうぶなんだろ?」と思ったのではないか?
西洋人は、日本人の目からみたら表情や身振り手振りが大袈裟で、まるで演技過剰、役者じゃないんだから、というのは、西洋人の友達を実際に持ったら嫌と言うほど思いしらされるわけです。
すぐにOh,boy!(おい、少年!)やOh God!(おお、神よ!)になり、喧嘩腰になれば「雌犬の息子」(son of a bitch)でしょ?
ちょっとこちらの好意に感激したら、肥った中年のおばはんが、恋人とですらそこまでしたことはないわいという、壮絶なハグかましてきます。皆さんもアメリカのワークショップとか出たら、嫌というほど体験させられますが。
しかし、西洋人の価値観の中では、自分の思いに率直であるということは、一定の、共有できる作法にのっとりなんですが、大袈裟なまでにわかりやすく、自分自身の気持ちを演じる「俳優」になるということなのだろうと思います。
少なくとも、子供や恋人相手ならそうだなと、皆さんも思うでしょうし、子供相手の現場に出る人は、わきまえていると思います。
「私は俳優、私は俳優」と。
カウンセラーであるということも、ひとつの仮面をかぶるというこです。
ロジャーズも、受容と共感について、「あたかも(as if)」自身自身のことであるかのように」とはっきり書いているわけて、冷静に面接プロセスをみつめている自分が一方にいて、その自分の監督と演出と演技指導のもとに、ある意味で計算づくで受容共感的態度をとっているだけ、ということを示唆しているわけです。
しかし、それが自分を押し殺しての無理になってはならない。
クライエントさんの話を聴いていて生じてくる漠然とした違和感やモヤモヤ(まさにフォーカシングでいうフェルトセンス)へのセンサーを張り巡らせていることは、むしろ大切なわけです。
そして、そういう、クライエントさんを前にしていて生じてくる漠然とした違和感、モヤモヤに「気づいておいて」(私の恩師、アン・ワイザー・コーネル女史がいう"ackowledging")、自分の中で「何なんじゃ、これ?」と暖めておいて、「……あ、そうか!こういうことか!」とひらめいた時(フォーカシングていうフェルトシフトだよ!)に、
「あのさ、それって、ひょっとしてこういうことかな?つまり……」
と試しに……
……この「試しに」という姿勢が大事。「言い当てよう」とはしないこと。「はい、先生のいう通りです」とあまりにあっさりクライエントさんが言い出したら、クライエントさんはカウンセラーであるあなたに気にいられようと、それこそ、いい子を「演じ」はじめているわけで。
だから、クライエントさんが、
「えーっと、そうではなくて。何か違う……何だろ?……う~~ん……あ!そうではなくてですねえ、う~~ん、う~~ん、なんていうのかな……あ、そうかそうか、先生、こういうことか。……何だ、こういうことか。わかった!」
……は?
何がわかったんだよ!
……とカウンセラーの方が尋ねるハメになる。
「わっかないんかな?先生。仕方ないから言ってあげるけどね、つまりね、先生、私は……」
はい、クライエントさんは勝手に自然発生的に自分でフォーカシングしはじめて、勝手にフェルトシフト起こして、気づきと自己洞察得たわけだ。
はい、いっちょ上がり!!
……思わず、普段の面接でフォーカシングを生かす極意披露しちまったぜ(peace)
この程度のことよ。
これが、東畑開人先生のいう意味での「ふつうの相談」ということ。
まるで話がそれたけど、普通の対人関係でも、このくらいの、相手を目の前にしていていろいろ感じてくる自分を冷静に眺めている「観察者としての自己」は、自分の中にもうひとり確保しておく必要があるわけで、そいつの監督、演出のもとに、俳優になったつもりで、ちょっと大袈裟に言ってみないと、相手もこちらを振り向いてはくれない。
恋愛とか、みんなそうでしょ?
・・・・くそー
はっきり言ってやらないとわかんないみたいね。
・・・・ええっと、腰に手を当てた方がいいかな。
肘を立てて。
・・・・・エヴァンゲリオンのアスカっぼくしようかな。
首は少しかしげるか。
・・・・よし!
「あんたバカあ??
もう、言ってやらないとわかんないんだから!
いい?
(ここで一歩前に出て詰め寄るか!)
・・・私は傷ついてんの。
どうして前もってLINEで連絡してくれなかったのよ?」
話を最初に戻せば、
俳優「筆者」を演じれば、一番自分の気持ちが伝わりそうなら、それでいいんではないかい?
…以上、即興劇俳優、ちとせの1幕。
……こっちも身体と心が楽になり、フェルトシフト起こしたみたい(爆)
今の「ライブパフォーマンス」で、延々パワポソフトに向かっていたストレスが、きれいに吹っ飛んだぜ。
