「神様」が存在する、ということについて、純粋に心理学的に受け止めると、どう理解できるか。
私が「神様の意思」とか「神の手」が書く、という言い方をするので「引いて」おられる方や、うさん臭く思われている方もあるかもしれない。
いい機会だから、実は「神様」の存在、正確に言えば、「自分の意思や考えとは別の存在」として「神様」のような存在がいて、そいつが自分を監視し、コントロールしているという体験については、心理学の次元でちゃんと説明できる、ということについて解説しておきたい。
防衛機制の中に「乖離」(解離 dissociation)という概念があるのをご存じ
だろうか?
わかりやすくいえば、その人の中に、「主人格」とは別の「副人格」がある、ということだ。
この2つの人格が、何の前触れもなしに交代するとすれば?
その人は、自分がしでかしたことの「ある期間のある部分」を、自分がやったこととして認識できないということだ。
忘れ物をする時のことを思い出して欲しい。
忘れ物をする瞬間まで、その人はその忘れた品物を、無意識的にとこかに置いたりしているわけである。
つまり、忘れ物を「させた」人格と、忘れ物に「気づかなかったことに気づく」人格に、連続性はない。
人格が突如切り替わり、元の人格は、引き込み線のようなところに入ってしまったと考えられる。
こうして、忘れ物を「させた」のは、自分の行いに問題あるから、「神様」が与えた「罰」である、という受け止め方が成立する。
これでわかるかな?
このような「神様」のことを、専門用語では「hyer-self」(高次元の自分自身という存在)といいます。
その人が「ハイヤーセルフ」の存在に気づいてくると、最初は「交代人格」だったのが、徐々に「対話」ができる存在になって来ます。
ただし、これは相当に敬虔な気持ちで、畏れ多い存在として対応してないと、その高次存在自体の「堕落」という、厄介な現象が生じます。
つまり、「まがいものの救世主」や、ただの「占い守護神」、化かす「狐」、最悪は「魔女」や「悪魔」のささやきになるわけですね。
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このようにとらえてみると、昔、人は、当たりまえのようにして、「神様」や「悪魔」の声を「実際に」聴き、有徳な人は「対話」していたのではないか?ということになります。
そういう存在をもはや体験できない現代人の大多数って、孤独で危ういと思いませんか?
