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「シン・エヴァンゲリオン」-理想化された女性像との訣別-

私はTVシリーズから、いわゆる「旧劇場版」封切り後一ヶ月ぐらい発売に間に合わせる形で、「エヴァンゲリオンの深層心理 -自己という迷宮-」を書かせていただいた。

私がエヴァをきっかけに完全な一般女性とネット婚した直後の1997年(36歳)のことである。当然子供はまだいなかった。

当時流行った謎解き本とは一線を画し、実際に映像を観なくても、旧劇を含めた作品の全体像がつかめるという本だったが、旧劇がすでに終わっていたせいか、そんなに印税は稼げていなかった。

むしろ、今回とりあげる「シン・エヴァンゲリオン」効果か、勘違いして(?)買ってくださる方もいるようで、つい一週間前に入金された最新の印税は、ささやかなものだが、前年を大幅に上回っていた。感謝。

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劇場版「序」は、封切り時に、まだ故郷に引っ越す前の横浜で観ている。2007年だから、今60歳の私が46歳頃だったことになる。はやいものだ。

「序」は、TVシリーズ第6話までの内容を背景美術を精細化したものに置き換えることを中心にクオリティ・アップして総集編とし、オリジナルの伏線は最小限控えめに添えられた程度だったから、「TVシリーズの大詰めにあたる部分まではこんな調子でクオリティ・アップで進めるのか」とも想像し、「ま、こんなものかな」という印象。

エンディングの宇多田ヒカルの"Beautiful World"はホントよかったが。

「破」(2009年)は確かレンタルで観たと思う。

これは、TVシリーズを大胆に脚色し、作画も全面新作、新キャラ、マリも登場。マリはそんなに活躍しなかったが、新作だからという以外に意図はつかめなかった。

しかし、クライマックスをトウジとの対決からアスカとの対決に置き換え、更に使命感あふれるシンジくんへの劇的覚醒まで、新鮮な形で描いてくれて、私は随分感動した。

ところが、「Q」(2012年)になって、困り果ててしまった。これは地上波テレビ放映まで待った。

物語は14年経過し、ミサトとリツコはネルフとは別組織を立ち上げて変ちくりんな戦艦に乗っているわ、シンジとアスカとマリは齢をとらないままだったりして、シンジは全く受け身で引きこもりに近く、結局無理やりエヴァに乗せられるだけ。

いったいこの劇場版は、次の完結編で、どうやっていったん広げた風呂敷をたたむのだろうかと見当がつかない状態。

これで観客動員数だけは最高とれたみたいだからいよいよわけがわからん。

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それから実に9年後に、今回の、完結編としての「シン・エヴァンゲリオン」が公開されたわけだが、評判がいいのは知っていた。

でも、あまり先入観は持ちたくないので、「レイがなぜか農作業している」画像を観たくらいで、Youtubeに公式に上がっているであろうPVについてすら禁欲していた。

さて、本日、思っていたよりずっと早く観ることができたわけだが、これからこってりと作品の解説をし、考察を、主に心理学的観点から書きたいと思う。

一回観て、時々は巻き戻しながらだが、大まかに、どんどんセリフを引用し、展開も書いてしまい、私なりの解釈も差し挟むので、そのつもりで、読みたい人だけ以下を読んで欲しい。

あまりSF的考証には興味がないので省略している。

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冒頭の10分以上の激しい戦闘シーンの後、舞台は一変。

新所原の、まるで1960年前後を思わせる、開拓農村に舞台を移す。

ここに"Q"ラストでアスカに引きずられていたシンジくんと「かつて綾波レイと呼ばれていたもの」はたどり着く。

トウジが生きていて医者とは思わなかった。妻は「委員長」なわけで。

二人には生まれてまもない赤子がいる。

ケンスケもいるが、ミサトやリツコの組織に所属しているようである。

そして二人は、シンジやアスカと異なり、年齢を重ねて大人になっている。

レイは、もはや以前のレイとは別の個体で、名前もなく、「そっくりさん」と呼ばれている。

あいさつや授乳やネコなどについてすら知識や経験がなく「・・・て何?」と質問してばかりの、無垢そのものレイは、ともかくカワイイ。

シンジは、冒頭から40分間、全く何もセリフがない。

食べ物も食べない。

アスカは、

「どうせ生きたくもないし、死にたくもないだけなんだから」

と突き放すだけ。

アスカの首に、カヲルと同じ、DSSチョーカーという「首切り」ベルトがあるのを見ると、シンジは嘔吐するばかりである。

それでもアスカに人工食料を口にねじ込まれる。

この後、シンジは、廃墟の湖畔まで家出を繰り返すようになるが、アスカは影で見守っている。

レイは、住民の農業にいそしむようになり、地域に完全に溶け込む。

・・・この、田舎でのくだけた日常生活のじっくりとした描写は、従来の人工都市中心の舞台とは全く異なるものであり、この8年間での庵野さんの心境の変化はあまりあると思う。

あたりまえの「生活」をすること、「労働」をすることを描かずにおれない・・・などということをいうだけでは、陳腐になるが。

確か元「委員長」のセリフだったと思うが、

「毎日が今日と同じでいい」

というのが印象的である。

アスカの方は、「私はここを守ることが仕事なの」と言って、それ以外の労働はしない。

「そっくりさん」は、「名前ぐらい自分でつけたら」と住民に言われるが、シンジに名付けを頼む。

シンジは、当初「考えておく」と応えるのみだったが、その後、「やはり綾波と呼ぶしかない」と告げる。

再び綾波がシンジの前に姿を現した時は、ある決断を胸に秘めていた・・・・

いずれにしても、シンジの心境と行動の変化が、全く自然に描かれていると思う。

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途中で忽然と書いておくが、今回の作品において、庵野さんは、この「エヴァ」という物語を非常に「客観視」する境地に達していると思う。

TVシリーズの時点では、庵野さんはシンジに同一化し、ゲンドウを実は「理解を超えた父親像」あるいは「大人像」として作品を作っていたのではないか。

庵野さんは私と同じ1960年生まれ、今年すでに61歳を迎えている。

奥さんもとっくにいる。私が調べた限りでは、子供はいない様子だが、結婚が早ければすでに孫がいてもおかしくない年齢である。

私自身、そこそこ晩婚な方だったと思うが、離婚し、それ以来住所不明の長男は確か22歳、次男は20歳である。

恐らく、庵野さんは、シンジの父親、ゲンドウの、少なくともTVシリーズ当時の設定よりは、かなり年長に実際になってしまっているはずである。

後で具体的に述べるが、実はこの点が、登場人物心理の描き方に大きく影響を与えていると思う。

この映画は、詳しくは後述するように、あくまでもエヴァという作品を(少なくとも新劇場版「序」から)追いかけてきた人間を対象として制作されていると思うし、いわゆる「厨二病」から脱しているように思われるのが興味深い。

「Q」なんて、恐ろしく「閉じた」世界の「厨二病」そのものではなかったか。

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さて、舞台は大気圏外のミサトたちの組織の戦艦の方に移るが、アスカはマリから「姫」と呼ばれている。

思い切って途中を省略するが、アスカは、第13使徒の発現を抑えるために出撃する。

マリからの

「姫、人を捨てる気?」

というセリフが印象的である。

しかし、第13使徒は、アスカの張ったATフィールドをATフィールドで中和してしまう。

それどころか、アスカを「使徒化」して取り込んでしまう。

(ネタバレごめんね、だが)アスカ自身が、レイと似たところがある人工量産タイプ、しかも使徒の遺伝子も受け継いでいることが示唆される。

この第13使徒の覚醒によって、人工的なリリスの再現がはじまる。

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新組織の乗員たちは、戦艦の艦上にやってきたゲンドウと対峙する。

リツコは迷いなく銃で撃つが、簡単に再生してしまう。

「ネブカドネザルの鍵」を取り込み、「望んで『人』を捨てた」と語られる。

「私が神を殺した」とも。

「セカンド・インパクトが海の浄化、
 サード・インパクトが大地の浄化、
 フォース・インパクトは魂の浄化を目指す」

「人類がその器を捨て、汚れなき楽園へと誘う」

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唐突に書くが、25年近くにおよぶこの作品の展開の中で、ひとりの声優も交代せず、ましてやお亡くなりになった方もいないことはほんとうに幸いだと思う。

本作品とは無関係だが、鶴ひろみさんの早すぎる事故死などを知っていると、つくづくそう思う。

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ゲンドウを取り込んだ13号機(姿は初号機と同じ)は、初号機への合体を試みる。

シンジは、

「僕は僕の落とし前をつけたい」

と、DSSチョーカーを自ら装着する。

シンジの乗った初号機と、ゲンドウの13号機の一騎打ちの戦いになるが、舞台は異世界空間、ちゃぶ台のある和室(笑)、教室、レイの病室と次々変容する。

そして、古い電車の中のシーン。

ゲンドウの、

「まさかシンジを恐れているのか、この私が」。

シンジは答える:

「これは捨てるんじゃなくて、渡すものだったんだね。僕と同じだったんだ」

シンジが一旦捨てて、レイが拾い、シンジに渡したDATが、今度はゲンドウのもとに。

ゲンドウも、DATとヘッドフォンが必要だった。

実はここからがゲンドウの、実に長い独白となる。

「私はひとりでいたかった、なのに周囲はそれを放っておいてはくれなかった。」

「私はピアノを弾くことだけが心の慰めだった」←これ重要。

「唯と出会うことで、私は生きることが楽しいと感じるようになった。
 唯だけがありのままの自分を受け止めてくれた。
 ・・・・唯を失った後、私は自分ひとりで生きる自信を失っていた。
 私ははじめて孤独の苦しさを知った。
 ただ、唯の側にいることで、自分を変えたかった」

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ミサトは、ゲンドウの第13号機のロンギヌスの槍と、アスカの戦闘で失われた正義の槍の代わりとして、戦艦(これ自体人工生命体としての性質を持つ)を第3の槍として変化させ、巨大化した唯(?)めがけて特攻をかける。

ともかくこの物語のミサトはかっこいいです。

ゲンドウは、

「他人の死と思いを受け取れるとは。大人になったな、シンジ」

非常に興味深いのが次のセリフ:

「子供が私への罰だと思っていた。
 私と会わないことが、私の贖罪だと思っていた。
 その方が子供のためになるとも信じていた」

・・・・これ、人によっては感情移入できないゲンドウの言い草かもしれないが、私はよくわかる気がする。

私自身が、自分の子供にまさにそうしてきた当事者だから。

子供のいない庵野さんの、この想像力は、どこから来たのであろう?

ここからが、私の今回最大のネタバレですが(読むのをやめるならここまでしてね)。

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ゲンドウは、ある画面上のさりげない演出の後、突然叫ぶ。

「そうか、そこにいたのか、唯」

これは、ホントに暗示的な演出なので、気づかない人は気づかないと思うが、書いちゃう。

「シンジ」=「唯」。

ここでゲンドウは駅の出改札口から退出する。

代わってカヲルが車内に。

シンジにこれからやっていけるかと尋ねる。

シンジは、

「僕はいいんだ、辛くても大丈夫だと思う」。

これに対して、カヲルは、

「君はイマジナリーではなく、リアリティの中で立ち直っていたんだね」

と答える。

このセリフは意味深だと思う。

虚構の世界ではなくて、現実の出会いによって立ち直っていたのは庵野さん自身だろ。

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ゲンドウがどうなったかは省略。

シンジ、

「父さんがやったことは僕が落とし前つけるから」。

詳しくは避けるが、シンジは、アスカを救出し、別れの言葉を残す。

私の勝手な思い込みで言うと、アスカはかつての庵野さんの想い人のことを指す。

続いてはカヲルの番。

カヲルの正体に、物凄い意外性があるがここでは伏せる。

次はレイの番。

レイの姿があまりにも印象的だがこれまた伏せる。

「ここじゃない、君の生き方もある」。

レイをシンジが送り出す世界も、かなり意外性がある。

「僕も、エヴァに乗らない生き方を選ぶよ。
 ただ、エヴァのいない世界に書き換えるだけだ。」

これも、庵野さん個人の意思表明であると同時に、他ならぬ、「観衆のために」そうするという宣言であろう。

このシーンで、さりげなく背景に、劇場版シリーズのタイトルが次々映し出される点に注意。

これらの作品を、過去のものとしてしてしまうための、「書き換え」がはじまったのだ。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」

観衆にとって。

このあとマリの救出のシーンが来るが、

突如画面が作画設定の鉛筆書きのようになり、前半は線画だけで動画が進む点に注意すべきだろう。

いよいよエヴァという作品が、ただのアニメであることの相対化が進む。

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ラストシーン。

登場人物たちの数年後(書き換えられた世界)がいきなり描かれ、シンジの声まで別の人がやっているかのように聴こえるが、ここで、どの登場人物が、どういう関係で描かれているかはお楽しみということで。

これも相当な意外性があります。

少し観衆を突き放している気もします。

更に付け加えるなら、この駅は、どこの、何という駅ですか?

それは、誰にとって、どういう駅でしょうか?

・・・これはファンにとっては常識に近い知識でしょうが、わかんない人は少し調べればわかります。

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SF的側面と展開をほとんど削ってしまい、解釈もしませんでしたが、これが「エヴァンゲリオンの深層心理」の著者のやり口だから、許してくださいませ。

あまり「深層心理」的な解釈の切り口は不要だと思います。大人になれば(中年になれば)自然と見えてくることかと思います。

このエントリーの副題の「理想化された女性像への訣別」という点については、具体的に解説していないではないか、とも言われそうですが、それは敢えてこのシーンはこうと解説を控えたところがあります。

ただ、繰り返してネタバレむき出しで強調しておきたいのは、ゲンドウは、「シンジ」=「唯」である、ということに気づいていなかったということ。

これを「シンジの中に、唯は生きている」という言い方に改めてしまうと、途端につまらなくなると思うわけ。

この点は、実際の絶妙な画面上の演出を探してください。

この映画は、エヴァ的世界に馴染んだ人にとっては、すべての絵解きで、最初に述べたような「いったんひろげた風呂敷は、たたまねばならない(これは、押井守さんの言葉です。エヴァについてではありませんが)」を実現していると私は思います。

意外と、劇場でなければ楽しめない画面の作りにもなっていない気もしますので、(決してステマではないですが)Amazon Prime Videoで2,3回繰り返してご堪能のほどを。


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