薄明のなかの誘惑――バッハウ渓谷、春の微睡み
ウィーンの賑やかな街並みをあとにし、ドナウの流れに沿って少しばかり西へ進むと、そこにはまるで時間が澱み、眠りについたような古い渓谷があらわれます。ヴァッハウと呼ばれるその土地は、世界のどこよりも美しい光と影が織りなす、静かな美酒の故郷です。
春の初め、まだ少し冷ややかな大気が肌にまとわりつく頃、私はこの渓谷の斜面に広がるブドウ畑を、あてもなく歩いていました。
足元に目を落とすと、乾いた土の匂いに混じって、どこか甘く、湿った春の吐息が立ち上ってくるのがわかります。見上げれば、古い農家たちの家々が、何百年もの歴史をその壁に滲ませながら、ぽつりぽつりと佇んでいます。それぞれの家が持つ、独自の古びた佇まいや、窓辺に飾られたひそやかな細工が、歩く私の心を不思議な郷愁で満たしていくのです。
この渓谷の春を何よりも妖艶に彩るのは、あちこちの庭先や斜面で一斉に花を開く、アプリコットの木々です。あるものは初雪のようになめらかな白を湛え、またあるものは、うら若い娘の頬を思わせる淡いピンクに染まっています。その花びらは、ただ美しいというだけでなく、どこか感覚を麻痺させるような、甘やかな目眩を誘います。この地で愛される杏のジャムは、まさにその芳醇な春の幻を、そのまま小瓶に閉じ込めたかのように濃厚で、ひとくち舐めれば、舌の上がとろけるような錯覚に陥るのです。
ブドウの若い蔓が、急な傾斜地に築かれた石垣を這うように伸びています。その青い迷宮のなかを静かに進んでいると、ふと、乾いた石の隙間から、はっとするような気配が這い出してきました。
それは、およそこのヨーロッパの静謐な渓谷には似つかわしくない、南国の熱帯地方を思わせるほど、ぎらぎらと鮮烈な色彩を放つトカゲでした。
エメラルドをそのまま生み出したかのような、深く、どこか怪しい緑色の肌。そのトカゲは「スマラクト」と呼ばれています。光を浴びて妖しくきらめくその姿は、この地で造られる最も強くて深い、極上の白ワインに与えられる最高等級の誇り高き名でもあります。
石の闇から現れ、また音もなく消えていく緑の影を見送っていると、私のなかの境界線が、次第にぼやけていくような感覚に囚われました。これほどまでに美しい花々と、これほどまでに強烈な生き物の色彩。そして、やがて樽のなかで深い眠りにつくであろうブドウの生命。それらが混ざり合い、渓谷全体がひとつの大きな、陶酔の渦へと変わっていくようです。
私はただ、その心地よい目眩に身を任せ、春の微睡みのなかを、どこまでも歩き続けていました。



























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