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茗荷の朝

3時15分に目が覚めた。

外はまだ暗い。窓を少し開けると、22℃の空気がするりと入ってきた。久しぶりに涼しい。7月の末にこんな朝があるとは思っていなかった。

昨夜は5時間35分眠れた。睡眠スコアは82。悪くない数字だ。でも3時台に起きてしまうのはもう長い癖で、これはたぶん治らない。治そうとも思っていない。早起きというより、目が覚めてしまうだけだ。

キッチンに行って、まず冷蔵庫を開けた。豆腐が一丁ある。それからみょうがが2本。今朝はこれだと思った。特に理由はない。なんとなく、そういう朝だった。

みょうがを薄く刻む。まな板の上で切るたびに、あの独特の香りが立ち上がってくる。刺激的というほどでも、穏やかというほどでも、どちらでもない。なんと形容したらいいのかいつも迷う。強いて言えば、夏の朝の台所にだけ許される香りだ。

冷奴は皿に盛るだけだ。豆腐の白い断面が、曇り空からさし込む薄い光の中で、妙に鮮明に見えた。そこにみょうがをのせて、醤油をひとすじ。それだけの話なのだが、なぜかしばらく眺めてしまった。

以前はみょうがが嫌いだった。あの独特の香りが苦手で、薬味として出てくるたびによけていた。いつから食べられるようになったのか、正確には覚えていない。気がついたら夏になると食べたくなっていた。そういう食べ物が、60を過ぎてからいくつか増えた気がする。

みょうがと物忘れの話は、子どもの頃から聞かされていた。「みょうがを食べると物忘れする」というやつだ。みょうがが嫌いだった頃は気にも留めていなかったが、食べるようになってから少し調べた。

仏教の逸話に由来するらしい。お釈迦様の弟子に、自分の名前すら覚えられないほど物忘れの激しい人物がいたという。その人物が亡くなったあとに墓から生えてきた草が「茗荷」と名付けられた、という話だ。荷という字には「名を荷う」という意味が込められている。

落語にも「茗荷宿」という演目があって、みょうが尽くしの料理を食べさせた旅人に財布を忘れさせようとした宿屋の夫婦が、結果として自分たちが宿代を取り忘れる、というオチになる。これは随分うまい話だと思う。意地悪な思惑が自分に跳ね返ってくる構造が、夏の笑い話として気持ちよく収まっている。

ただ実際のところ、みょうがに物忘れを起こす成分は含まれていない。栄養学的に見ても、これといって際立った成分があるわけでもない。ビタミンやミネラルが少量含まれている程度で、「体にいい」と胸を張れるほどのものではない。

それでも夏に食べたくなる。なぜかを考えていると、みょうがの香りの話に行き着く。あの香りの正体は「α-ピネン」という成分で、胃液の分泌を促して食欲を刺激する働きがあるらしい。暑さで食欲が落ちる夏に、あの香りが食べ物を口に運ぶきっかけを作ってくれる。先人たちが冷奴やそうめんにみょうがを添えてきたのは、何となくそうしてきたわけではなかった。理屈が後からついてきた形だが、なるほどとは思う。

わたしが毎朝食べているのは豆腐だ。なぜ豆腐なのかと聞かれると、うまく答えられない。体にいいのだろうとは思っているが、それが理由というわけでもない気がする。

みょうがをのせた冷奴を箸でひとつまみ口に運ぶと、豆腐の冷たさとみょうがの香りが同時に来る。豆腐だけの日とは、何かが違う。食べているのか、味わっているのか、自分でもよく分からない。日記にも同じことを書いた。「食べるというか、味わうという方が正しいのか」と。

食べることと味わうことの間に何があるのか、朝ごはんを食べながら少し考えた。食べるは目的で、味わうは手段ではないのかもしれない。逆かもしれない。朝の3時台にそういうことを考え始めると、どこにもたどり着かないまま食事が終わる。

みょうがは俳句の世界では夏の季語だという。「茗荷の子」と言えば夏で、秋になると「秋茗荷」と少し呼び名が変わるらしい。同じみょうがの成長を追いながら、夏から秋への移ろいを感じ取っていた人たちがいたということだ。

今朝食べたみょうがが夏のものなのか秋に入りかけのものなのか、わたしには判断できない。ただ、あの香りはまだ夏の香りだった気がする。少なくとも今朝は、そう感じた。

60を過ぎてから、季節の変わり目に敏感になった。体がそうなのか、気持ちがそうなのか、どちらかはよく分からない。ともかく、22℃の朝に台所でみょうがを刻みながら、夏がまだここにいると少し安心したのはたしかだ。

食べ終えてから、醤油が少し残った皿を眺めた。みょうがは全部食べた。豆腐も全部だ。残ったのは薄い茶色の醤油と、みょうがの香りだけだ。

物忘れの話を思い出した。さっき書いたばかりなのに、もう少し遠くなっている気がする。みょうがのせいではないと思うが、どうだろう。

この夏、あと何回みょうがを食べるだろうか。

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