推しとの距離、推し活との距離
推し活、してますか?
あなたには「推し」はいますか?
おし【推し】
他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」
[補説]アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイドルや俳優などについていう。
「推挙する=応援する」という人気投票的なシステムが源流のように思われる「推し」ということばですが、現在では上記の辞書的な定義よりも、もう少し広めに使われている印象があります。
憧れている人
好きな人
「好き」とまで行かないけどいいなと思っている人
では、推し活とは何か? と考えると、なんとなく「イベントに参加すること」とか「グッズを買うこと」みたいなものが思い浮かびます。
「推し」の定義はインクルーシブなのに、「推し活」というとまだまだ辞書的な定義の「推し」と強く結びついている気がしますが、どうでしょうか。
特に、実在の人物に対する「推し活」概念は「近い距離で会うイベント」を指すことが多く、それはそっくりそのまま私が「推し活」文化にいまいち乗り切れていない要因でもあります。
※以下は、あくまで時代のはぐれ者である自身を内省するものであり、当然ですが推し活文化を全力で楽しむ人を否定する意図はありません。念のため…。
「推しと会えるチャンス」をスルーしがち
2024年の社労士試験対策では大原の「社労士24」という講義動画を購入したのですが、後日、その人気担当講師と直接会える合格者向けイベントの案内がありました。
試験日までの約10ヶ月のあいだ肉親よりもお顔を見て、出勤前に身支度するときも就寝前もずっとお声を聴いていた講師には本当に感謝していて、直接お会いしてみたいなという気持ちもまったくないではなかったものの、熟慮のすえ結局見送ってしまいました。
もちろん私が地方在住という物理的な距離もありますし、首都圏住みならどうだったかな? とも考えてみますが、やっぱり行かなかった気がします。
これに限らず、有償・無償や金額の多寡を問わず「こうすればあなたは『推し』に会えますよー!」と舗装されている道を示されると、なんだか「コレジャナイ」感があるというか、not for meという感情が先に立つ自分がいるのです。
「推しに会わなくてもいい」理由を考える
じゃあ「推しに会う」という行為そのものに否定的なのかというと、そうではありません。
上記の合格者イベントにしろ他のことにしろ、「推しに会えた!」と喜んでいる方には「うわああ良かったねえ!」と心から思い、幸せのおすそ分けに感謝しながら全力でいいねボタンを押しています。
ただ、自分ごとになると「うんん?」となっちゃうんですよね。
自分でも長らく不思議だったので、今回その違和感にとことん向き合い、言語化をこころみてみました。
会う必要性を感じないから(ほぼこれ)
身も蓋もないのですが、「推しに会えるキャー!」という気持ちより先に「お膳立てされた状況でつかのま会えて一時的に満足して、それで私はどうなるの?」という感情が先に立ってしまいます。
そして「私のやるべきことは十分やっているので、『会う』までは特に望んでない(需要に対して供給過多)」とも感じてしまいます。
じつは上述の合格者イベントに不参加でいいやと思った一番の理由は、当時すでに合格体験記の投稿が済んでおり、1ユーザーからの多大なる感謝はそれで十分伝わるだろうと考えたからです。
「推しに認知されたい」欲が無いから
1つ目の理由からの派生形かもしれませんが、一個人として認知されるということにあまり価値を感じません。
そもそも私は私自身に宿る「人間ひとりひとりの個性」とやらをそんなに信じておらず、たとえ会いに行った現場で個別的に認知されても「わざわざ会いに来たファン」の範疇を出ることはない(よっぽど光り輝く強烈な「個性」の持ち主なら違うかもしれませんが、少なくとも自分はそう)と思うからです。
反対に「個」としての自分が限りなく無に等しくなるような活動、大勢の中の一人としてリズムやグルーヴの一部になれるライブやコンサートは大好きです。
「推しに認知されたい」願望は無くても「宇宙の塵のようにちっぽけな自分を再確認したい」みたいな意識はあるようです。共感して頂けるでしょうか…笑
沼るのが怖いから
正直に言うと、やっぱりこれもあります。
私はそもそもがオタク気質というか凝り性というか、いわゆる「沼りやすい」性質だと自覚しています。
過去には、ある映画にドはまりした結果、「この映画の世界観を全部知りたい!」という思いから作中の時代背景について調べ、原作小説を読み(日本語訳に飽き足らず原書にも挑戦)、英語シナリオと原書を読み比べ……とするうちにメディアのアダプテーションに興味を持ち、放送大学の大学院進学を本気で検討していたことがあります。
対象が「作品」だったのでこんなもので済みましたが、仮に生身の人間相手だったら……遠い存在の憧れの人とうっかり近い距離で話せたりしてしまったら、やっぱり推し活の沼(それもガチ恋気味の)にずぶずぶはまって、人生計画が狂いかねません。
実際、そうやってガチ恋化したファンによる消費活動こそが「会いに行ける『推し活』システム」の最大の狙いなのかもしれませんが、私は人生におけるリスクを出来る限りあらかじめ排除しておきたいし、これから成し遂げたいことも色々あるので、そのシステムにはなるべく与したくないぞ、と考えています。
おわりに:輝く星を遠くから見る
突然ですが、「私淑」ということばが私はとても好きです。
し‐しゅく【私淑】
[名](スル)《「孟子」離婁下の「子は私ひそかにこれを人よりうけて淑よしとするなり」から》直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。「私淑する小説家」
「ひそかによしとする」と読めるこの奥ゆかしいことばには、「こうありたい/なりたいという指針のような憧れの人はいくらいてもいい」「たとえそれがもう会えない人でも構わない」という懐の深さがあり、自身の「推し活」スタイルに一番しっくりと馴染みます。
「推しのイベントに行った、推しに会えた」という幸せそうな人を祝福しながら、一抹のさびしさを感じたり「本当に行かなくて良かったのかな?」と自問自答することは、正直あります。
でも、私が会いに行っても行かなくても推しはいつも素敵だし、私は私で毎日頑張っている。だから、これからも元気でいて、私に力をもたらしてほしい。
そう思える存在があるという幸せを享受しながら、北極星を目指して進む昔の旅人のように、たとえ時代遅れでも、私は私の歩みを進めていきたいのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!
