見出し画像

【醴陵】動画2本、写真120枚! 明治の日本との繋がりにも感激!映え外観の醴陵陶瓷博物馆の釉下五彩工芸所蔵品沢山見せます!

マガジン「中国100のやりたいこと」No. 8-3
達成日: 2024年12月26日
場所: 中国湖南省株洲市醴陵市经开区凤凰大道A区醴陵瓷谷
評価: ★★★★★

 いつもの様に中国の映え画像を物色していると、うぉっ、なんじゃこの建物群は。調べてみると、醴陵陶瓷博物馆とな。ほー、陶器の博物館か。これは行ってみたい。

 場所を調べてみる。ほほう、湖南省長沙市の近くだ。カタカナで醴陵の発音を表現するとしたら、リーリン。県級市でその上の階層が地級市の珠洲市。

高速鉄道で長沙南駅から僅か1駅、22分程度で移動できる。

長沙市は出張と旅行で数回行っており慣れている。てなわけで、2024年12月の旅行に組み込んで行ってみた。

長沙南駅からこのかっこいいい高速鉄道に1駅乗って醴陵東駅に着いた。
県級市の駅らしく、駅には何も無い。駅前に陶器のモニュメントがあった。

复兴号
人はまばら
モニュメントはあるが駅は寂れている

物好きな私は路線バスで向かう。バスは醴陵10路。1時間近く乗る。
駅からの乗客は私だけだったが、途中街の中心部とみられる辺りを通ると、その辺りでは乗り降りがあった。しかし、博物館辺りまで乗ったのは数人だった。

何やらそれらしい像が見えてくると博物館前。一旦博物館を過ぎるが、すぐにUターンして博物館側の瓷谷1915停留所が最寄りとなる。

おおお、見えて来ましたね、映えるお姿が。

右のあみあみっぽく見えるところは正面に回るとこんな感じです。

ここを通る様子です。

そしてこちらが博物館正面。入ってみましょう。入場無料です。

近未来的だー。

かっこええ。

展示はこの暗がりがエントランス。

陶石を採掘する銅像が並びます。

始まります。

 [翻訳]陶磁器の都である醴陵は、湖南と楚にまたがる古代都市であり、窯の火は何千年も燃え続けています。
 先史時代、私たちの祖先は新たな道を切り開き、固い粘土から陶器を作りました。この習慣は商周から途絶えたことがありません。秦漢の時代に醴陵は州と県が設置され、陶器の生産規模も拡大しました。晋唐時代には岳州窯と長沙窯の磁器が大量に醴陵に入って来ました。五代時代に毛家嶺窯跡が発見されたことは、現在知られている醴陵磁器産業の最も古い始まりを表しています。宋代から元代にかけて、醴陵では美しい材料、精巧な技巧、高品質の青磁が大量に生産されました。明・清の時代、醴陵は青白磁の主要生産地でした。沩山を中心に百以上の磁器工房があった。製品は姜湾に出荷され、そこで商人たちが購入に集まった。
 清朝末期から中華民国初期にかけて、醴陵磁器産業は輝かしい歴史を刻みました。 1905 年、熊西龄は姜湾、醴陵に湖南磁器学校を設立しました。彼は日本と景徳鎮から技術者を雇って指導させ、古い方式を改良して釉下彩磁器を創作した。彼はまた、湖南磁器会社を設立しました。国内外の博覧会で数々の賞を受賞し、「東洋陶芸の最高峰」と称されました。中華民国中期から後期にかけて日本が侵略し、人々に大きな苦しみを与え、釉下五彩工芸は徐々に失われていきました。
 新中国の建国後、釉下五彩工芸は徐々に復興され、輝きを取り戻しました。新しい材料、新しい技術、新しい製品が次々と誕生しました。 1958年以来、党や国家の指導者、国家晩餐会のために磁器が生産され、国家元首への国家贈り物として何度も贈られてきました。そのため「国磁」として知られています。改革開放後、醴陵の磁器産業は繁栄の喜ばしい状況を示し、種類が豊富で、有名な作家による素晴らしい製品が尽きることなく、日常陶磁器、芸術陶磁器、建築用陶磁器、工業用陶磁器の製品体系を形成しました。陶磁器産業は新たな栄光を迎えたました。
 隠された磁器の導きのもと、歴史の流れに沿ってゆっくりと歩き、醴陵陶磁器の長い歴史と奥深い遺産を発見し、鑑賞しましょう。

陶石と産地
採掘を思わせる内装
上に上がってみます。
登り窯の模型
熊西龄氏像
発掘された陶磁器

ここで私はこの地と日本との関わりを目の当たりにするのです。

[翻訳]
日本画の技法を吸収
調査によると、1906 年 7 月 28 日以前に、最初の製品が磁器学校で生産されました。薛鄧の初期の作品からは、日本の画風だけでなく、近代デッサンや水彩画などの西洋の絵画技法の影響も見られ、より現実的な表現方法も提示されています。この国でのインターンシップ中に学生たちが制作した磁器のほとんどは、選別されてこの国に送られ、教師たちはそれを冗談めかして「外国」と呼んでいました。

1906年と言うと、中国はまだ清朝で日本は明治時代であります。

[翻訳]
外部日本人教師
日本人技術者の雇用
磁器製造における中国と世界の他の国々との格差を縮めるために、陶業学院設立初期、高額の給料で日本人技術者を招聘して教えてもらった。内容は、原料調製、成形、絵付けなどである。彼らは世界の先進的な工芸、技術、生産理念を導入し、伝統的な磁器業界に新たなスタイルを注入した。

 日本内務省が保管する記録によれば、当時湖南省は日本から合計21人の教師や技術者を導入しており、その中には湖南陶芸学校からの6人(国内は5人)も含まれている。
 給与面では、安田乙吉の年俸は2,600元では同時期に雇用された他の日本人教師よりもはるかに高かった。彼らは、磁器学校の教育用に「陶磁器製造法」の本を 6 冊編集しました。合計 27 万語で、常設クラスで使用されました。内容は主にセラミック原料の化学組成と物理的特性に焦点を当てている:素地と釉薬の配合と準備、成型、焼成、絵付け、焼成、花工芸品および原材料の製造。

日本画調の壺
陶器の鳥

ここの焼き物の特徴についての説明です。ここに来るまで知りませんでした。というか、SNS上では日常使いの安物の方ばかり取り上げられていましたが、実は高級品側はレベチでした。

釉下五彩工芸と顔料

[翻訳]
釉下五彩工芸
五彩磁器の技法
熊希龄氏は湖南磁器会社の製品に細心の注意を払っていた。彼は製品の品​​質を向上させることで、清朝後期の高級磁器市場の外国製磁器生産への依存を変えた。国内外の技術を吸収し、新たな釉下彩を生み出した。調査によれば、遅くとも明治41年1月末には五彩の焼成に成功し、その後も徐々に開発・改良が進められた。画家たちは長年の修行を通じて、墨と色を使って線を描き、分水する方法を編み出した。焼成後は墨の線が消え、輪郭線のない絵画のような見た目になる。釉下五彩の開発は、醴陵磁器産業の対外宣伝の代表的な製品となった。

[翻訳]
醴陵釉下五彩の"三焼制"の工程
第一次素焼 800℃→輪郭線→彩色→第二次窯入れ 輪郭線と不純物の焼却 800℃→釉薬→第三次焼成 1350℃〜1400℃

各種の顔料の発色の温度の要求は異なり、同時に最高の色を実現することは極めて難しい。

はい、ここからは、醴陵釉下五彩のめくるめく美しさの展示品写真集です。こんなに見られるところ無いんじゃないでしょうか。

 清宣統三年の作品。辛亥革命のあった年。 

ここから先は

1,799字 / 88画像
この記事のみ ¥ 600
Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

1回購入すると追加料金無しでずっと情報が追加されていきますのでお得な設定となっています。

隣の国・中国って、実はこんなおしゃれで素敵! 中国SNS「小紅書」で話題のスポットを筆者が実際に訪れて、現地のリアルな様子を日本語でレポー…

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が参加している募集

サポート頂けると嬉しいです。次の中国取材の費用の足しにします。