『第三の男』雑考 後編
この「こんちくしょう」な映画のプロデューサーが、デビッド・O・セルズニックとアレクサンダー・コルダ。どちらも大物で、セルズニックは『アンナ・カレニナ』『キング・コング』『スタア誕生』『ゼンダ城の虜』『風と共に去りぬ』『レベッカ』『終着駅』『武器よさらば』など、枚挙に暇がないほどプロデュースし、コルダも負けじと『紅はこべ』『幽霊西へ行く』『来るべき世界』『バグダッドの盗賊』『ジャングル・ブック』『アンナ・カレニナ』などをプロデュースしている。
ふたりとも大プロデューサーといっていいが、セルズニックのセンスの良さは、この『第三の男』でも証明されている。というのも、ラストはもともとはハッピーエンドだったそうで、どうやら、ジョセフ・コットンとアリダ・ヴァリは結ばれ、ふたりして去っていくとこでフィナーレだったらしいんだけど、それを「それじゃ、だめだ」と却下して、世に知られる名場面をひきださせたらしい。さすがだな、というべきだよね。
とはいえ、かれらが『第三の男』の物語を紡ぎ出したわけじゃない。脚本と原作を担当したのは、グレアム・グリーンだ。グリーンはもともと小説家なんだけど、このすこしばかり風変わりな小説を書く作家をひきずりだして「ウィーンを舞台にした物語を創ってくれないか?」と持ちかけたのは、アレクサンダー・コルダだったらしい。ということは『第三の男』のそもそもの根っ子はコルダのひらめきにあったのかもしれないね。
まあ、そのあたりはともかく、グリーンはその誘いに乗ってウィーンの地を踏んだ。そう、この物語は、戦後まもない硝煙が燻っているようなウィーンに立たないかぎり生まれなかったろう。
ウィーンをおおいつくす瓦礫、もうすこし焦点を絞れば、崩れかけた屋根、半壊した煉瓦塀、へし折れそうな尖塔、ひきはがされた石畳、薄暗い地下水道、にもかかわらず陽の光をあびて堂々と回る観覧車、すべての葉が落ちてもふたたび蘇ろうとするマロニエ、こうしたさまざまな事物と、そこにしぶとく生き残り、歯を食いしばって新たな暮らしを立てようとする人々をまのあたりにしないかぎり、書けなかったろう。それも、グリーンは小説よりも脚本から先に筆を執った。直接的な映像と台詞が浮かんできたにちがいない。まだるこしい文章をいちいち考えている余裕すらなかったのかもしれないね。
そんなグレアム・グリーンの物語をフィルムに定着させたのは、ロバート・クラスカーだ。クラスカーもまた凄い。この頃はまだ独り立ちして間もないとはいえ、すでに『逢いびき』『ヘンリィ五世』『シーザーとクレオパトラ』を撮ってるし、この先は『ロミオとジュリエット』『夏の嵐』『コンクリート・ジャングル』『エル・シド』『ローマ帝国の滅亡』『コレクター』『テレマークの要塞』とかを撮ってるし、グレアム・グリーンともまた組んで『静かなアメリカ人』の撮影を担当してる。この名カメラマンがいなければ、映画史上の名場面、ハリー・ライムの登場は撮られなかったってことをおもえば、うん、担当してくれてよかったねって話だ。
映画は、そんなふうに煉瓦を積み上げるようにして創られていく。
もちろん、脚本家もカメラマンも腕が良くなければどうしようもない。ただ、それもこれも腕っこきの監督がいなければ話にならない。この作品が最高の映画のひとつと謳われるのは、そう、キャロル・リードの手腕は必須のことだったろう。リードはそもそもフィルム・ノワールを得意とする監督で『邪魔者は殺せ』や『落ちた偶像』といったサスペンスを手がけたあとに『第三の男』を撮った。熟練の技が冴えるのも、うなずける。その一方で、華のある演出も得意だったみたいで『空中ブランコ』『華麗なる激情』『オリバー!』とかも監督してるから、いやほんと、けっこうそつなくなんでもこなしたみたいだね。遺作がまた毛色を変えて『フォロー・ミー』なんだから、いやいや、ほんとうなずける。
リードの演出が凄いな~っておもうのは、なんといっても、指だ。
佳境、ハリー・ライムが下水道から地上へ逃げ出そうとしてマンホールに指をのばすんだけど、開かない。上げられないまま、指だけが鉄格子から地上へ延び、虚空をつかもうとしてもがくけど、無情な銃撃に見舞われる。この最後の希望が打ち砕かれる儚さ、陽の光から去って地下へ潜ってしまった人間は、もうもとへは戻れないっていう非常さ、戦争さえなければもしかしたら犯罪に指をのばすことがなかったかもしれない漢の末路、まだまだ生きていたいという生への執着、こんな臭い掃き溜めで死んでたまるかっていう断末魔、同時にこの最期へ追い詰めたのはとりもなおさず戦争にほかならず、世界を包み込んだ大戦の悲劇はこの「指」にも凝縮させることができるんだっていうような、いやいや、すごい演出なんだけど、これ、撮影が大詰めになってからおもいついたみたいで、だから、この指、オーソン・ウェルズの指じゃなくて、キャロル・リードその人の指だってんだから、余計に凄い。
この「指」こそ、まさに『第三の男』の骨頂じゃないかってさえ、ぼくはおもうんだ。世の映画評論やらなんやらかんやらは、どれもハリー・ライムの登場や強烈なモノクロームやらを取り上げては絶賛するけど、この「指」は、それ以上だっておもうんだよ。
いやいやいやいや、キャロル・リードだけじゃなくて、助監督のガイ・ハミルトンも負けちゃいない。ハミルトンはこののち活劇の代名詞みたいな監督になって、007のシリーズを4本も演出してるし、大味ながらも『空軍大戦略』『ナバロンの嵐』『クリスタル殺人事件』『地中海殺人事件』などを監督してる。けっこうな出世なんだけど、この『第三の男』のときは、親方のキャロル・リードのように吹き替えも担った。
それも親方が「指」なら自分は「影」だってなことで、やっぱり、オーソン・ウェルズの代役で、みずからコートを羽織って地下水道を駆けまわり、クラスカーの強烈な照明の中、これでもかってくらいの輪郭のばっちりした影を演じてみせた。光と影の演出をわかってなければできなかったろうし、この「ハリー・ライムの影」がどれだけ映像の凄さを印象づけたかっておもえば、その功績は充分すぎるだろう。
でも、忘れちゃいけないのは、やっぱり、なんといっても音楽だ。
アントン・カラスの演奏した主題曲がそれで、ぼくも、この映画で、チターっていう弦鳴楽器があることを知ったし、このチターはドイツ南部とオーストリアとスイスでしか知られてないっていう、きわめて希少なものだってことも初めて知った。まったく、ほんとにいろんなことの無知さが嫌になるんだけど、高校時代、この映画を初めて観たとき、チターの存在を知った。ていうより、タイトルバックで映されてるのがチターだっていう実感すらなかった。でも、音の良さだけは、どれだけぼくが音痴でもわかるし、ぼくみたいなとんちんかんがいかに多かったかが、その後のアントン・カラスの名声でもよくわかる。
まあ、カラスの生涯はさておいて、もともと『第三の男』の主題曲は別なものが、それもオーケストラによるものが用意されていたみたいなんだけど、ロケハンのときか、それともロケ中のことだったのか、とにかく、ウィーンの葡萄酒々場(ホイリゲ)でキャロル・リードとそのメインスタッフが食事をしているときに、チターの音色が聞こえてきたそうで、それがカラスの爪弾いていたものだったようだ。それで、ひと節聞いて夢中になったキャロル・リードが「映画の主題曲は、これだ」と独断で決めたらしい。
人生は、どんなところにどんな出会いが、いや、奇蹟が待ってるのか誰にもわからない。
そんなエピソードだよね。
