0.8%のアセットを活かす覚悟 — レッテルを恐れていた私の課題の分離
プロローグ
こんにちは、クリストファー・セレジェイラスです。
はじめに、アセットといっても、資産や投資のお話ではありません。
私のアセット、つまり強みをnoteにどう生かすかについて考えたことです。
初めてnoteに投稿したのが2026年4月18日。
もうすぐ4か月、1年の約3分の1が経ちます。
最初の1週間は毎日投稿、その後は週に最低1本の投稿を続けるという自分との約束は、これまで守ってきました。
とにかく始めることが大事だと思っていたので、まずは書きたいことを書くという姿勢で続けてきたのです。
ちょうどお盆を迎え、本業の仕事が休みに入ったタイミングで、これまでの振り返りをすることにしました。
1: 再会からの気づき
お盆ですね、この時期、懐かしい再会の機会もありました。
その再会こそが、私の中でモヤがかかっていたことの「正体」に気づくきっかけとなったのです。
相手は以前、仕事で出会った方です。
その方も日本では数少ないクリスチャンということもあり、お互いに仕事が変わった現在でも、時々連絡を取り合う関係が続いていました。
今回の再会では、カフェでお茶をしながらお互いの近況を話しました。
その中で、私をハッとさせるひとつのトピックがありました。
「クリスチャンであることを言った瞬間、『宗教の人』っていうレッテルを貼られるんだよね。我々はごく普通に、特別なことをするでもなく、信仰を持って生活しているだけなのに」
彼はそう切り出しました。
私は普段、自分がクリスチャンであることを周囲に普通に話しています。
もちろん、わざわざ自分からアピールするのではなく、自然な会話の流れになった時です。
例えば、クリスマスや、最近では復活祭(イースター)などが話題に上がった時などです。
そのため、私は彼のように「レッテルを貼られる」といったことを、普段は全くと言っていいほど意識したことがありませんでした。
だからこそ、彼のその言葉に強くハッとさせられたのです。
2: アドラー心理学とキリスト教思想
みなさんは、アドラー心理学をご存知でしょうか。
19世紀後半から20世紀前半に生きたオーストリア出身の心理学者、アルフレッド・アドラーが提唱し、その後、後継者たちによって発展してきた心理学体系です。
日本では、岸見一郎氏と古賀史健氏の共著による解説書『嫌われる勇気』で広く一般に認知されたことも、記憶に新しいと思います。
このアドラー心理学は、私の私見では、キリスト教思想と非常に近しい関係にあると考えています。
その理由は、アドラー心理学の根幹をなす「課題の分離」にあります。
アドラー心理学では、徹底的に「個人の責任の所在を明確にする」ことが求められます。
一方のキリスト教思想には、「神の領域と人間の領域を混同しない」という根幹の考え方があります。
この「神」を「他者」に置き換えると、キリスト教思想とアドラー心理学には深い共通性と類似性が見てとれると、私は感じているのです。
例えば、このようなところに類似性を見出すことができます。
キリスト教では、神は人間に自由意志を与え、その選択と行為に対する最終的な責任は人間に帰されます。
これは、神学の中でも「神義論(しんぎろん)」という、クリスチャンにとっても非常に難しい領域です。
大学で神義論に関する科目の単位を取得した私にとっても、まだまだ勉強が必要な領域であり、ここでそう簡単に述べて良いものかという迷いは残ります。
しかし、アドラー心理学でも「その選択の結果を最終的に引き受けるのは誰か」を基準に責任の所在を明確化するため、やはりそこには強い類似性があると言ってよいのではないかと、私は考えています。
3: テキストに向き合う姿勢
そういうわけで、私はアドラー心理学を比較的すんなりと受け入れることができており、特に仕事においては、常に「課題の分離」を実践できているという自負がありました。
ではなぜ、再会した彼の言葉にこれほどハッとさせられたのか。
それは、私がnoteのテキストに向き合う姿勢に原因がありました。
私は4月からの4か月間、プロフィールに「クリスチャン」と書きながらも、「あまりキリスト教色を出しすぎると敬遠されるよな」と、無意識のうちにブレーキをかけながら記事を書いていました。
そのことに、うすうす気づきながらも続けていたのです。
noteを始めた時、私は「自分自身の人生の再構築」を目標に掲げていたはずでした。それなのに、いつの間にか方向性がブレてしまっていたのです。
もちろん、多くの人に読まれる記事を書くためには、ある程度の割り切りや工夫は必要でしょう。
しかし私の場合は、それ以上に「自分の核」に蓋をして記事を書いていたように思えてなりません。
彼が言った「『宗教の人』っていうレッテルを貼られるんだよね」という言葉。
実は私自身も、このnoteという場で、無意識のうちにそのレッテルを恐れ、囚われていたのです。
日常では「課題の分離」ができているという自負がありながら、です。
「クリスチャンだと言った瞬間、レッテルを貼られる」と悩むことは、アドラー心理学でいう「課題の分離」ができていない最たる例です。
なぜなら、レッテルを貼るかどうかはクリスチャンである彼や私の課題ではなく、レッテルを貼る「他者」の課題だからです。
彼も私も、誰かの期待を満たすために生きているわけではありません。
彼自身の人生、そして私自身の人生を生きているのですから。
4: 0.8%のアセットを活かす覚悟
そこで、このお盆休み、私はnoteの再構築について深く考えることになったのです。
日本におけるキリスト教徒の人口は1%を切り、わずか0.8%しかいません。
しかしこれは見方を変えれば、私に備えられた「最大のアセット(強み)」にほかならないと思うのです。
思えば、就職氷河期世代としてなかなか希望する職に就けなくても、なんとか社会を生き残ってこられたのは、仕事で欧米文化圏の人たちと交渉したり、問題解決に当たったりする中で、私が無意識にこの強みを発揮してきたからかもしれません。
だからこそ、私はこれからは必要のない「無意識のブレーキ」を排除し、ありのままの姿勢で記事を書いていこうと方針が定まりました。
「覚悟ができた」と言ったほうが、しっくりくるかもしれません。
それは、クリスチャンならではの切り口から、人と植物の関わりを紐解き、「より良く生きる」ためのヒントを見つけ出して、私のテキストに落とし込んでいく――そんな勇気と覚悟です。
エピローグ
手始めに、プロフィールのクリエイター名を名前だけの「クリストファー セレジェイラス」から、自分が何を標榜している人物なのか分かりやすいように「クリストファー セレジェイラス|キリスト教×園芸文化|人と植物の関わりをクリスチャンの視点で」に変えました。
そして、ガーデンジャーナルのシリーズタイトルも、【My Garden Journal】から【小さな庭から届く福音】へと刷新しました。
だからといって、私は四六時中、神様のことや聖書のことばかりを考えているわけではありません。
時には園芸そのものの話に偏ったり、植物と地域文化のつながりに焦点が当たったりすることもあると思います。
それでも、「自分の核」からブレないテキストを、これからこのnoteでシェアしていければと思っています。
そうそう、これまで何度もレポートしてきた、キリスト教と深い関わりのあるパッションフルーツの花が、先日、我が家のベランダガーデンで咲きました。
パッションフルーツの開花は、再構築へのよき知らせ――福音だったのだと思います。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
みなさん、これからもどうぞよろしくお願いします。
