【読書】フォルモロジー研究―ミケランジェロとデューラー
出版情報
タイトル:フォルモロジー研究―ミケランジェロとデューラー
著者:田中 英道
出版社 : 株式会社美術出版社
発売日 : 1984/9/15
単行本 : 343ページ
フォルモロジー(形象学)研究の原点
本書は著者 42歳の時の作(1984年出版)である。研究者として充実した時期であるといえよう。その田中が「自分の研究の方法論は『フォルモロジー』という言葉でまとめることができるのでは?」という思いで著されたのが本書であり、本書の『序』として書かれた『フォルモロジー研究』という論文だ。
本記事ではこの『フォルモロジー研究』について取り上げ、今後、田中英道の著作を読む際に立ち戻る基点としたいと思う。だってユダヤ人埴輪にしても、比較的最近出版された『縄文文化のフォルモロジー』にしても、フォルモロジーの方法論によって結実されたもの、あるいは結論については理解はできる。そしてびっくりしたり面白く思ったりする。丁寧に書かれている。(その説をそのまま信じるかどうかは別にして)。だけど、その根拠は?となると、「フォルモロジーによると…」と、なんか誤魔化された気分になるんだよね(田中先生ゴメンナサイ💦)。
いやもちろん学者の研究の道筋を素人がすべて追えるわけではないのは十分承知している。出版社は本を売り上げたいだろうし、著者自身もより多くの読者に広く自説を知ってもらいたいという気持ちで書いているのだろうから、研究の詳細に立ち入らないのは、むしろ読者への気遣いなのかもしれない。
でも、気になるじゃないですか。フォルモロジー。
というわけで、軽い気持ちで手に取ってみたら、沼だった。
本記事では本書の『序 フォルモロジー研究』について紹介して行く。以降、『序 フォルモロジー研究』を本論文と呼ぶ。本書のいわば本体部分、ミケランジェロやデューラーについて論じている部分については本書に直接当たってください。よろしくお願いします。
そもそもフォルモロジー
田中英道が創始者であり唯一の研究者??
ググると、英語 "Formology" ではアカデミズムに土台を置きそうなものは皆無、日本語"形象学"で検索しても田中のものしか出てこない(生物学など他分野ではいくつかある)。本書を読むと「自分の研究の方法論をまとめたらフォルモロジーということになるのではないか」と書いてある。つまり、フォルモロジーは本書の著者 田中英道が始めた学問であり、残念ながら学派としてまとまった研究グループのようなものはないようだ。また、田中が自ら「自分がフォルモロジーの創始者である」と宣言めいたものをすることも、ない。
だが、1993年から1994年にかけての科研費の記録は発見できた。『「形象」に関する芸術学的考察』と題して田中を含む6名で研究を行っている。現実と、人間の精神や物理的技能が呼応しながら形成される形態=フォルム。田中の専門の美術学に端を発しながら、精神科学や哲学など他の領域でも『FOLM(=形象)』という言葉が使われ、思潮となっているとの知見を得た。そして、その潮流は、
…近代的なプラトン批判の系列に属する。イデアだけが本来実在するものであるとするのに対し、形象だけが本来実在し、そこから観念、が生まれる、というものである。われわれの研究成果はこのように西洋のプラトンから発する観念的な立場と反対の、物象そのものを「形象」としてとらえる立場の中から、さらに実践的に芸術作品そものの分析を通してその実相を明らかにするものである。
田中は本書を書いた42歳の時点で「フォルモロジーには哲学に大きな影響を与える可能性がある」という予感というか確信を持っていた。それを52歳の時点で、哲学の専門家も交えながら改めて確認した、ということなのではないだろうか?それが、確信→確認→さらなる発展・展開…となっているかについては、哲学に明るくない私には不明なのだが…。(もちろん哲学の専門家を交えての研究なので、なんらかの進展や発展があったことには間違いないのだろうが…)。
しかしながら、フォルモロジーに関する学派を形成することには至っていないようだ。まあ学派は形成していなくても田中英道一人でどんどん著作を著し、YouTubeをはじめ各種講演を行い、十分勢力的に活動している。ただ…後継者という点が気がかりになってしまうのは、私だけではないと思うのだが…。
田中英道という研究者
東大でフランス文学を学んだ後、美術史を学び、フランスとドイツに留学。フランスで博士号を授与されている。その後、東北大学で奉職しながら、ドイツやイタリアの大学に招聘され、イタリアでは何度も客員教授として教えている。
また国内では国際美術史学会日本代表などを歴任。つまり美術学の分野では国内はもとより国際的な権威と言ってよいのだろう。
しかしながら、現在の田中は「教科書問題」(二代目『新しい歴史教科書を作る会』会長)やユダヤ人埴輪や日ユ同化論で名を馳せている。一般の人にとって、田中は、ちょっとトンデモっぽいけど、なんか権威のあるっぽいおじいさん先生、という印象なのではないだろうか?(すみません〜田中先生💦)あるいは田中史観に魅了されて、熱心に学ぶ人々…。
美術学の分野で凄まじく業績を残したので、歴史の分野でも主流派の歴史学に関係なく自由に研究し発表している(ように見える)。無双状態…だ…。
哲学としてのフォルモロジー
哲学に素養のない私が、何を紹介できるわけでもないのだが…。科研費の記録から、少し引用しよう。本書に書かれている哲学の部分に関しては、別途紹介する。1993年と1994年の研究概要を抜粋して掲載する。
形象(形態)=FORM という言葉は哲学、生物学、言語学などの諸学にわたっている…。とくにゲーテが行った形象学的考察は、生物学上の形象を扱ったものであるが、これは生物学のみならず、19世紀末から精神科学の領域にも適用されるようになったことを検討した。その思潮は5つに分けられることがわかった。(1)ディルタイの形象学的解釈学は、世界観には諸々の類型があり、その形成の合法則性を認識しなければならないとするもの…。(2)ゲシュタルト心理学は…目に直接に与えられた形象は究極的な、それ以上還元できない事実であるとする。(3)フッサールの現象学、ゲーテの形象学やゲーテの色彩論は、彼が「根本現象」と呼ぶ本質的な現象の把握を目指すものであった。…フッサール以降の現象学に於て同じ試みがなされている。(4)カッシーラーの「象徴形式の哲学」では、ゲーテが思惟と感性の関係を問題にしたと考え、これをカント的な「悟性」や「感性」と区別し、その新たなる統合を目指したのである。(5)「構造」主義の役割として、ゲーテの形態学があり、レヴィ・シュトロースやチョムスキーが「構造」の新しい捉え方へと導かれて行った。以上5つの潮流があるが、このE.カッシーラーの「象徴形式の哲学」がパノフスキーに影響を与え、全ての知は結局のところ現実の形象化に発するとの考えを受け継ぎ、その形象化のうち典型的なものを芸術と考える。その自由な精神的活動が形象へと変貌するとき、そこに存在の全体性として表現されるのである。
…Formという言葉は哲学、生理学、言語学などでも使われるが、19世紀末から精神科学の領域にも適用されている。それはデイルタイの形象学的解釈学であり、それは世界観に諸々の類型があり、その形成の合法則性を認識しなければならないとするものである。またゲシユタルト心理学においては、目に直接与えられた形象がそれ以上還応できない事実であるとする。さらにフッサールの現象学は、彼が「根本現象」と呼ぶ本質的な現象を把握を目指すものであった。カッシラ-の「象徴形式の哲学」では、カント的な「慣性」や「感性」と区別しその新たなる総合を目指したのであった。又「構造主義」においても、構造を形象学的にとらえている。この流れはプラトンのイデア論のようにまず「神」とか「イデア」といった背景の観念から発し、それが「形相」としてアリストテレスが述べるような4つの因果性(質料、形相、運動、目的)からなるものとする。伝統的な概念と対立するものである。あるいは近代的なプラトン批判の系列に属する。イデアだけが本来実在するものであるとするのに対し、形象だけが本来実在し、そこから観念、が生まれる、というものである。われわれの研究成果はこのように西洋のプラトンから発する観念的な立場と反対の、物象そのものを「形象」としてとらえる立場の中から、さらに実践的に芸術作品そものの分析を通してその実相を明らかにするものである。
フォルモロジー(形象学)とは何か?
方法論としてのフォルモロジー
方法論としてのフォルモロジーは、田中が本論文の『おわりに』の項で書いてあるとおりp45(これは芸術作品に対するフォルモロジーである)。そして「この5つの段階は決してひとつひとつ分かれたものでなく、常に綜合され提示されなければならない」p45。
(1)観察:対象(作品)に対する観察
(2)比較:他の作品や準備デッサンなどとの比較
(3)解釈:(1)(2)で明確になった対象を解釈する
(4)作者:創り出した作者との関係
(5)歴史:対象が生み出された土壌としての歴史
上記によって、「作品の全体をとらえ」「観察者、解釈者は作品のあらたな創造とでもいうべき体験」をし、「彼が出会った作品世界との血縁関係を打ちたてる」と言っているp45。血縁関係とは、対象と自分はもはや不可分で、もし対象が永遠に失われたなら尋常でない欠損感や悲しみが襲うということだろう。自分を形成する一部になった、というか。自分の血肉となった、というか。そこまでその対象に没入できるのは幸せなことなのだろう。
美術作品を対象にしたフォルモロジー
美術作品を対象にしたフォルモロジーについて、少しだけ著者の言葉を紹介すると、
私がこの書で検討したレオナルドやミケランジェロ、そしてデューラーといった芸術家たちの作品は、まさにフォルモロジー(形象学)のモデルになるにふさわしい、生きた多層性をもっている。…彼らの作品には「愛」の姿があれば、他方に「四大元素」の姿がある。それは「哲学」であり「科学」でありそれが作品における何重もの形象の層、意味の層を形づくるのである。
…もっとも重要な点は、個別の形象の取り出しである。それは作品の隠された意味の層を発見することに通じている。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの『三王礼拝』図の中に、一対の不可思議な青年の顔を見出したとき、それは一定の意図的な形象の表現として、全体がそれを一貫させていることを確認し、ひとつの形象の層として浮かび上がらせることができるのである。
そしてこうして浮かび上がらせた層について、他作品や準備デッサンなどと比較をしていく。また、同時代の風潮や世界観などとも照らし合わせ、そして作品全体を理解し、その土台としての歴史も視野に入れていくというわけである。なおデューラーについては「人間の性格をあらわすにあたって四気質を明確に表現し、当時の人間観があらわされている」と述べているp12。
哲学としてのフォルモロジー
著者 田中は、芸術表現に言語表現にはない可能性を見出している。
いずれも画家の個性が、言語表現では存在しない思想表現を緊密な関係を持って表現されているのである。
このような絵画における思想表現、人間の個性表現は、これまでの文字によって書かれたものによる思想史、芸術史とは異なった、より広い人間の表現史の地平をひらく可能性を与えている…
そして、作品の内にあるのは、作家の意識にあるイデアではなく、それ自体が自立したフォルムがあるのだ、と述べている。
…私にとって…画面の中に凝縮された形象表現が自ら論理や思想を生み出していくように思われた。芸術家が人間世界を解釈し作品化するのに似て、我々は芸術世界を解釈し論理化していくのであり、それがひとつの創造行為に似たものであるように感じられた…。とくにそれが作家の意識にある以上のものも説明しえた、と思われるとき、作家は言語的な「イデア」を持っていたというより「フォルム」をもっていたというべきである…。
そして1984年当時を席巻していた脱構築とは別の方法論として、「形象の学=フォルモロジー」があるのではないか?と提起している。
しかし今日のように論理のデコンストラクション(脱構築)の傾向の強い時代にあっては、もう一度深く、具体的な形象の形の中に戻り、その中から全体の層を浮かび上がらせる方法論的努力がなされなければならないと思われる。「形象の学=フォルモロジー」はまさにそのためのものでなければならないのである。
形象学は右脳と左脳を十全に発揮させる「学」となりうるとも述べている。
…人間の右脳と左脳で機能が分化しており、右脳は直感的、総合的、幾何学的、絵画的な認識と行動をつかさどり、左脳は言語中枢をもち、言語的、論理的、分析的、代数的な思考や認識と行動をつかさどるという。形象は、右脳によって受け取られることを示し、すでに「形象」が人間の大脳の中で言語と論理と著しい価値をもって受け取られることをあきらかにしている。…「形象学」はまさに右脳と左脳の働きを十全に発揮すべき「学」となりうるものであり、ここから既成の学問分化を貫く新しい方法論が生まれなければならないであろう。
また神なき世界の芸術とフォルモロジーの関係については、下記のように書いている。
…「美」が「神」を呼び寄せることができなくなった今日…芸術作品にあるのは人間の有限性を超えたものでありながら「神」のいない「形象」の世界とならざるをえない。
「フォルモロジー」は、かつて「神」を見る眼に映じた美術作品が…形象の世界の見事さにのみ心を打たれるとき成立する。
著者 田中は、作家の創作プロセスにも言及している。
…往々にして作品が作家の精神の中に存在している、という見方がされる。パラノフスキーのいう「イデア」論も基本的には同じである。しかしこれは美術表現が精神だけでなく、眼と手という肉体を通してつくりあげられることを無視している…。 私たち東洋人は伝統的に精神と肉体を分ける二元論をとらないから、形象形成は肉体と共にあることを承知しているが、西洋では異なった見解に立っている。しかし美術家自体は東洋人的であらざるをえないのである。
「イデア」は作品形成過程のうちで変更をうける。ときには新しい形象の参加により「イデア」から自立したフォルムの世界をとりうるのである。
上記は何をいっているかというと、作家の中にイデア=所与のものとして作品の構想があったとしても、個別具体的な作品になるためには、作家の力量なり技量なり、肉体が産する線なり色なりの影響を受ける、ということだ。そして「「イデア」から自立したフォルムの世界をとりうる」というわけである。
フィードラーは次のようにいう。《手はけっして眼がすでになし終えたことをやっているわけではない。そこにはむしろ何か新しいものが生じるのであって、手は、眼自身が活動を終えるにいたまさにその地点で、眼の行うことを引き継いで発展させ、さらにそれを推し進めるのである。》デッサンはまさしくこの眼と手になる自立した創造過程を持つのである。
私たちはすぐれた作品が、作家の創造的必然性に伴って生まれることを知っている。…芸術の根源的な独創性というものは、まさにそこにあるといってよいであろう。手の技術、眼の観察はすでに固有な性格をもっていようと、その全体の構想力とそれを持続的に描写してゆく力には、彼の内的衝迫力がなくてはならないのである。
上で述べているのは、じゃあ作家の技量などに任せたままで作品が出来上がるのか、といえばそうではない。作家の作品を生み出したいという内的衝迫力が「その全体の構想力とそれを持続的に描写してゆく力」となる、といっている。それはけっして作家のうちにあるイデアではない。
ゼロからイチを見つめる確かさ
つまり…田中は何をいっているかというと…芸術を芸術たらしめているのはイデアではないのではないか?それは現実(作家の技量含む)とのやり取りの中で生まれてくるものなのではないか?「「イデア」から自立したフォルムの世界をとりうる」のではないか、といっているわけ、だ。
これって、イデアという作家の中にある何か所与のものが芸術を芸術たらしめているのではないってことだよね。現実との世界の呼応の中から生まれてくる、といっているように聞こえる。「手はけっして眼がすでになし終えたことをやっているわけではない。…眼の行うことを引き継いで発展させ、さらにそれを推し進める」。
これって…ゼロから何か、イチを生み出すことをいっていませんかね?
この一点で田中英道という学者は信頼に値する、と思う(ま、私は単純なので💦)。ゼロから何かが生まれる場をずっと見つめている。そういう手段としてフォルモロジーを用いている。そしてゼロから何かが生まれる場を含んで作品と当時の社会を解釈していくまでを、その学問の射程としている。
ゼロからイチを見つめる人々
ここまでの高尚な雰囲気から一変して…非常に卑近な私の幼い頃のイデアに対する印象からこの項目を始める。
イデアへの印象
幼い頃、と言っても小学校高学年ぐらいの時に、先生にイデアのことを教わったような気がする。中学生かなぁ。とにかく図形の授業のとき。先生曰く「誰も正確な正三角形を見たことはない。だって、どうやっても定規の誤差が出るので。だけど「正三角形」があるって、知っているのは、誰の心の中に初めから「正三角形」のイデアがあるからだ、というのがプラトンの哲学だ」と。
幼いながら、胡散臭いなぁ、と思ったものだ。でも、当時も、今も、浅学で、おバカな私には「ここがこうだから胡散臭いのだ」と説明できない。
あえて言葉にするとしたら…いや、そもそも三角形なんて知らない人々にとっては正三角形のイデアなんて心の中には存在しない。正三角形という抽象的な概念があると便利だと同意した人々の間で共有しているだけではないのか?便利だから生まれた概念なのではないか?そもそもイデアとして所与のものとしてあるのではなく。
同様にユングの原型にも胡散臭さを感じてしまう。それはやはり、共通する文化や家族構成をもつ人々が成長の過程=世界を理解する過程で別々に便利だから持つようになったものが、蓋を開けてみたら共通してた、という性質のものなのではないか?んで無意識の中に出てきてしまうのではないか?と思ってしまうのだ。初めから所与のものとして、議論を進めるのはどうも馴染めない(こういう感想全般が、おバカ丸出しなのかもしれないのだけど)。
ゼロからイチを見つめる人々
本書の著者 田中英道がそうであるように、ゼロからイチを見つめる人々が、いる。現実を見つめ現実と呼応しながら何かを生み出す人々。それはありもしない財政破綻を言い立ててプロパガンダで国民を黙らせるザイム真理教のような人々とは逆なんだ、私の中では。
(本来であれば「フォルモロジーにおける解釈」の部分が鑑賞者、あるいは学者としての「ゼロからイチ」であり真骨頂なのかもしれないが、この記事では割愛した)。
どんな人でも、生活していく上で、何がしかの工夫をしているとしたら、それはゼロからイチを生み出しているといえる。だからザイム真理教を信奉している人々だとしても、生活の別の場面では、また別の行動をとっているのかもしれない。
今の私にとっては、特に下記の人々がゼロからイチを見つめている人々のように感じている(何者でもない私にそんなこと言われても迷惑なだけかもしれませんが…💦)(noterさん全員がゼロからイチを生み出す人であることは間違いない)。
【noterさん】
私はコメントもろくにしたことがない、一読者に過ぎないのだけれど、noter同士ということで、敬称は「さん」にさせていただいた(先生の方が相応しいような気も…)。
way findingさん
神話や夢分析をモチーフにしながら、AであってAでない混沌とした状況から、その二つを行き来する振動の状態を経てAとAでないものが分離して世界が秩序づけられていく世界を探求しておられる。人間の煩悩の元の分別。それがゼロからイチへと生み出される…(ように私には見えている)。
得丸久文さん
デジタル言語学を提唱しておられる。「生命のデジタル進化」で動物としての進化も言語の誕生も説明している。「ゼロからイチ」を説明できなければ学問ではない、という強い信念をお持ちのように見受けられる(無名人インタビューさんに、たくさん記事がアップされていた。これから読もう)。
【言論人】
noterさんより自分にとっては距離が遠い、ということで敬称は「氏」とさせていただく。
浜崎洋介氏
ご自分の子どもの子育て過程から、人間関係について説明している動画を見て、「あ、この人もゼロからイチを見つめている人だ」と感じた。
そのほか、戦前と戦後をつなぐことについての動画にもすごく揺さぶられた。
もしかしたらフォルモロジーと親和性が高いと思われる人々
【漫画家・評論家】
山田玲司氏
自身も漫画家である漫画と社会世相や若者心理を結びつけることのできる漫画評論家。
【学者】
網野善彦氏
いえ、よく知らないんです。ただ、鳥獣戯画の解説をされている、ということで、形から何かを読み取るタイプの学者さんなのでは、ということで。
おわりに
中途半端なりに、そして自分なりに田中英道の著作を読む基点ができたような気がしている。
というわけで、次は『縄文文化のフォルモロジー』を読む予定である。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
また、文言の間違い、表現のわかりやすさなど、随時訂正しています。ご了承ください
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
田中英道略歴など
wikiの田中のページがあまりにも不正確である、とのこと。こんなに国際的に活躍しているのに。不正確・不十分にしておくことにきっと意味があるのでしょう(まさか今話題のUSAIDの資金が日本語版wikiにも流入している!?まさかね…)。
田中英道 フォルモロジー関係
日本に関するフォルモロジー研究。
フォルモロジー入門
以前配信していたポッドキャスト。今は配信されていない模様。聞いてみたかった〜。8回シリーズ。
科研費で行ったフォルモロジー研究
東北大学でのご研究。93~94にかけて行ったようだ。
田中英道 そのほかの著作
田中は多作である。すべての研究がフォルモロジーにつながっているのだろうと推察する。
ゲーテ形態学
ゲーテって詩人であるだけでなく、形態学もしていた。ものすごい観察眼を持って。
浜崎洋介
山田玲司
網野善彦
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