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それでも人は、timesでお気持ちを書く——愚痴の人類学と「甘え」の構造

はじめに:批判から解剖へ

前回の「社内Slackのtimesでお気持ちを書くな」には、想定を超える反応をいただいた。賛同、反論、実体験の告白。それらを眺めながら、ひとつの事実が残った。

それでも、人はtimesでお気持ちを書く。

先に、言葉を定義しておく。本稿で言う「お気持ち」とは、悪口や陰口のことではない。宛先と要望を欠いたまま、公開の場に放流される愚痴——「はぁ……」「なんでこうなるかなあ」「もういいや」——のことである。誰かを名指しで攻撃しているわけではない。だからこそ注意もしにくく、扱いが難しい。

前回は「感情は事実+影響+要望に変換しろ」と書いた。変換の技術を知ってもなお、書く人は書く。ここまで来ると、これはリテラシーの問題ではなく、人間の仕様の問題ではないかと疑うべきだ。

そこで続編の本稿では、「書くな」という規範をいったん括弧に入れる。なぜ書いてしまうのかを三つの仮説で掘り、最後に、お気持ちの原型である「愚痴」そのものを擁護する。愚痴は悪ではない。人間社会の標準装備である。問題は装備ではなく、装備を使う場所のほうにある——というのが本稿の結論だ。

仮説①関係の貧困説:楽屋を失った人が、Slackに全部を流し込む

まず一番シンプルな仮説から。お気持ちを書く人は、オフラインで愚痴を言える相手が少ないのではないか。

愚痴は、本来どこで処理されてきたか。喫煙所、給湯室、退勤後の飲み屋、家族の食卓。つまり関係性のある少人数の閉じた場である。ここで重要なのは、愚痴の処理には「関係の残高」が必要だという点だ。愚痴を聞かされるのはコストであり、そのコストは日頃の関係性——貸し借りの履歴、相互の信頼——から支払われる。残高のある相手が多い人は、感情を小分けにして複数の楽屋で処理できる。

残高のある相手がいない、あるいは少ない人はどうなるか。感情の全量が、唯一残された社交回路に流れ込む。それが多くの現代の職場ではSlackであり、その中で最も「独り言が許される顔」をしているtimesである。

この仮説が正しいなら、お気持ち投稿の頻度はその人の性格の関数ではなく、楽屋の保有数の関数である。そして思い当たる節があるはずだ。リモートワークへの移行後、お気持ち投稿は増えなかっただろうか。性格が変わったのではない。楽屋が消えたのだ。

仮説②インターネット拡張説:SNSで訓練された身体が、職場に持ち込まれた

二つ目の仮説。お気持ち投稿は、個人の資質ではなくSNSが人類に施した訓練の産物ではないか。

「思ったことを、思った瞬間に、不特定多数へつぶやく」。冷静に考えるとかなり奇妙なこの行動様式は、Twitterが15年かけて人類に教え込んだ身体技法である。長く使った人ほど、感情が湧いてから投稿するまでの回路が反射になっている。timesとは、この訓練済みの筋肉にとって最も自然な移植先だ。社内Twitterという俗称は、比喩ではなく実態である。

ここに人類学者ダンバーの知見を重ねる。ダンバーは、人間が安定した関係を維持できる集団サイズはおよそ150人だと推定した。有名なダンバー数である。重要なのは、私たちの社会的な器官——誰に何をどこまで話すかを調整する本能——が、この150人規模の部族生活向けに設計されているという点だ。

部族の中での愚痴は、聞き手が誰か分かっていて、話がどこまで届くか身体で把握できる。ところがSNSは、つぶやきの到達範囲だけを無制限に拡張した。調整器官はそのまま、配信網だけが部族から放送局になった。OSと配信網のバージョン不一致。お気持ち投稿とは、部族仕様の身体が放送局で暮らすことになった時代のバグ挙動である。

仮説③甘え説:お気持ち投稿は「甘え」の教科書的事例である

三つ目が本丸だ。精神医学者の土居健郎は『「甘え」の構造』で、日本人の対人関係の基底にある「甘え」を分析した。土居の言う甘えとは、単なる依存ではない。言葉にしなくても察してもらえることへの期待であり、相手との一体感を前提として、要求を非言語のまま通そうとする心の動きである。

この定義を前回の議論に置くと、ぴたりとはまる。お気持ち投稿の三点セット——宛先がない、要望がない、察してほしい——は、甘えの定義の完全な実演だ。「はぁ……」と書く人は、要求を言語化する前の段階で、読み手との一体感を無断で前提にしている。言わなくても分かってくれるはずの「みんな」が、そこにいることになっている。

では、なぜ大人が職場でそれをやるのか。ここで加藤諦三の甘え論が効く。加藤は多くの著作で一貫して、大人の甘えは直接表現できないと指摘してきた。甘えたいが、甘えを表明することは大人として許されない。すると甘えは地下に潜り、すねる、ひがむ、恨む、当てつけるという間接表現に変形する。そして重要なのは、加藤が繰り返し強調する点——隠された甘えの背後には、察してくれなかった相手への敵意が同居しているということだ。

「もういいや、こっちが我慢すれば済む話なんで」

この一文を分解してみてほしい。表層は自己犠牲の宣言である。しかしその下に「察してほしい」という甘えがあり、さらにその下に「察しない周囲」への非難が敷かれている。甘えと敵意が一つの文に同居し、しかもどちらも直接表現されていないから、反論も謝罪もできない。読んだ側があの投稿に感じる、あの独特の重さの正体はこれだ。お気持ち投稿とは、甘えの間接表現が、公開チャネルという最悪の場所で行われたものである。

それでも愚痴は、人間社会に必要である

ここまで三つの仮説でお気持ちを解剖してきた。最後に、擁護をする。

再びダンバーである。ダンバーは、人間の言語そのものが社会的なおしゃべりのために進化したという仮説を立てた。霊長類は毛づくろいで関係を維持するが、集団が大きくなると毛づくろいの時間が足りなくなる。そこで登場したのが、一度に複数人と「毛づくろい」できる装置——おしゃべりだという説である。そして人間のおしゃべりの主成分は、天気でも思想でもなく、自分と他人にまつわる社会的な話題だ。愚痴は、その中核にある。

実際、愚痴は共同体の中で明確な機能を果たしてきた。第一に、感情の共同処理。一人で抱えると壊れるものを、聞き手に分散して処理する。第二に、「わかる」の交換による連帯の確認。愚痴とは、同じ痛みを持つ者同士の毛づくろいである。第三に、問題の早期警報。愚痴は課題の前駆体であり、現場の不具合は正式な報告より先に、まず愚痴の形で観測される。愚痴が一切存在しない共同体は、健全なのではなく、本音の回路が死んでいる共同体だ。

つまり、お気持ちも愚痴も、人間の標準装備である。撤去はできないし、するべきでもない。

ただし——ここが本稿の要点だが——愚痴が共同体の装置として機能するには、三つの条件がある。第一に、閉じた小集団であること。弱音は、安心して見せられる相手の輪の中でだけ処理できる。第二に、対面であること。表情と相槌が「聞いてもらえた」という処理の実感を作り、言葉の水位を調整する。第三に、揮発性。その場で消えるからこそ本音が言え、言い過ぎが修復可能であり、話が独り歩きする前に蒸発する。

timesを見てほしい。全社に公開され、非対面で、ログが永続する。三条件の全てが、正確に裏返っている。

部族の道具を放送局に持ち込めば、事故になる。お気持ち投稿が悪いのではない。愚痴という人類の必需品を、愚痴が機能する条件を一つも満たさない場所で使っていることが問題なのだ。

結論:三仮説は積層している。だから「揮発する楽屋」を再建せよ

三つの仮説は、択一ではなく積層している。土台に愚痴という人間の仕様があり、その上に甘えという動機の変形機構があり、SNSが訓練した反射の経路があり、楽屋の喪失という水源の変化がある。この四層が重なった場所で、お気持ちはtimesに漏れる。

だから代案は、個人を責めることではない。仕様は責めても消えない。代案は、愚痴の三条件を満たす場——揮発する楽屋——を、共同体が意図的に再建することである。ログの残らない対面の雑談。少人数のオフサイト。議事録を取らない飲み会。冗談のように聞こえるかもしれないが、これらは感情の下水処理施設として、極めて真面目なインフラである。楽屋の供給を止めたまま舞台上の独り言だけを取り締まろうとするのは、下水道を廃止して路上排水を罰するのに似ている。

前回と今回の結論を、二行で並べておく。

個人へ。感情は捨てるな、変換しろ。
共同体へ。変換できない感情のために、揮発する楽屋を返せ。

お気持ちは、あなたの弱さではない。30万年前から人類に搭載されている、関係を維持するための器官である。器官を責めるな。器官が正しく働ける場所を、設計し直せ。

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