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#277【忘れ得ぬ名文】11紅白感想戦・星野源『ばらばら』

今日もお読みくださってありがとうございます!

紅白歌合戦で星野源さんが歌われた、『ばらばら』、よかったですね。


「本物はあなた わたしは偽物」

年末に曲が『ばらばら』に変更されると聞いたときにこの歌詞を読んでいて、一番強く印象に残った歌詞は次の部分でした。

気が合うと 見せかけて 重なりあっているだけ
本物はあなた わたしは偽物

(星野源『ばらばら』歌詞から引用)

おおおおおお、そのとおりだけど、これはすごい、辛辣……。

どれだけ一致したかのように見えても一つになることはなくて、別個(ばらばら)の二つのものが重なっているだけである。
あなたの主観的世界においては、「あなたが見ているわたし」が本物であって、「わたしの主観的世界におけるわたし」は偽物である。

あなたとわたしはどこまで行っても、別のものを見ている別個の存在なんだ、と表す「本物はあなた わたしは偽物」の文言には、のど元に短刀を突き付けてくるような鋭さがあります。

おおお、すげえな。
この、残酷な、諦観の、身もふたもないフレーズがあるからこそ、この歌の主題である

あの世界とこの世界 重なりあったところに
たったひとつのものが あるんだ
世界は ひとつじゃない ああ そのまま 重なりあって
ぼくらは ひとつになれない そのまま どこかにいこう

(星野源『ばらばら』歌詞から引用)

がずっしりと重みをもって響く。

わたしとあなたが一つであるとか、同じものを同じように見ているとか、そういう幻想から脱却したところから始めるんだ、という本当の希望を表現している。
おお、レヴィナス的。

-自分とは違う「他者」とのコミュニケーションは難しいのでは。
私なりのレヴィナスの解釈ですが、他者と向かい合う時の基本的な構えは、相手が言っていることに対して、つねに「そうだね」と頷き、受け入れることです。理解できないことでもまず受け入れる。自分自身の知のセッティングを変えて、それが理解できるところまで拡大してゆく。どのような理解しがたい言行にも必ず本人にしてみれば「主観的な合理性」があります。その人の選んだ論拠や、たどった推論を追体験すれば、その人がなぜそのようなことを思うに至ったのか、その筋道がわかる。そこからしかコミュニケーションは始まりません。まず他者の思考や感情に敬意を示すところから始めて、「おっしゃることはいちいちもっともだが・・・」と交渉も始められるわけです。他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない。それがレヴィナスの教えていることだと私は思います。

毎日新聞心のページ - 内田樹の研究室

紅白での変更

紅白ではこの部分の歌詞が、

本物はあなた わたしも本物

と変更されていました。
こっちのほうが通俗的で芸術度は下がるけど、わかりやすいし、輪郭に丸みがあって、温かい。

ああ、なーんか、星野源って、すごいんだなあ。

そもそも、この『ばらばら』という曲が持つ内容・パワーが素晴らしい。
また、今回の曲目変更でこの曲を持ってくる選択も素晴らしい。
さらに、同じ意味を保ったまま、多くの人が見る遺産的番組「紅白歌合戦」向けのアレンジにしてくる(曲目変更から徹底して「紅白が、自分のファンだけでなくいろいろな人が見る、遺産的番組」をよくわかっていて、そこに敬意を払い、コミットする姿勢を示している)。

「星野源嫌い」だったわれのような者を、この一連の(『ばらばら』が作られたときからの10年以上の時間込みの)パフォーマンスでボコボコに圧倒する星野源って、ほんとに、すごいんですね。
(あの、音程が壊滅的だった若林とのコラボの「PopVirus」は、いったいなんだったのか……←しつこい)

翻って、紅白の星野源を「死んだ目」とか「怒っている」とか言っている人たちって、何をもって星野源を理解しているのかしら……(星野源嫌いだったわれのようなものまで舌を巻かざるを得ないのに……)なんて、思ってしまったのでした。

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