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ジョーダン・ピール「NOPE/ノープ」

まさしく「撮影」(shooting)についての映画だ。

突然の父の死。そしてゆっくりとした始まりから予想もつかない方向へと転がり始めるSFスリラー。ホイテ・ヴァン・ホイテマが映し出す陰影を最大限活用して現れるその「何か」。その脅威と暴力の前に人々は恐れることしかできないのか。
それは支配の寓意でもあるかもしれない。終盤、予断も許さない「それ」との対峙。手に汗握る攻防戦。そのショットの数々は雄大であり衝撃的でもある。
馬、チンパンジー、そして「それ」。前半と後半にかけて描かれる動物と人との関係性。共存、支配、脅威。人が何かを操ることはできず、逆に何かに依って暮らしていることの証左であるかもしれない。
OJたちは撮影用の馬を調教している。すなわち馬に頼り、馬と暮らしている。だが父の死によってコネクションは絶たれ職を失いかけている。そのため「それ」を撮影することによって大金を得て、今ある困難な状況を打開しようと試みる。

撮影と動物が切っても切り離せない関係にあることは、劇中で引用される映画史の始まりから明らかだ。そしてニグロと映画もまた切っても切り離せない関係にある。それゆえにこの映画は「映画」の寓話なのだ。
あえて言葉を選べば、映画は人間が人間を撮影することから始まったのではない。自分を人間だと思っている存在が自分たちではない「何か」という「異物」を捉えること(shooting)から始まっている。それ自体がかつて「スリル」=未知の体験だったのだ。

映画とは未知との遭遇である、ということを再認識させられるようなスリラーだ。
その「スリル」は「抵抗」と裏表である。なぜチンパンジーは反逆せねばならなかったのか?
それは抑圧と嘲笑の代償である。チンパンジーでさえ虐げられればキレる。では人間ではどうなのか?我々はただ黙ってやられているばかりではない。その「抵抗」こそ「スリル」。「スリル」こそ「映画」。

なによりもこの映画自体が、撮影の巨匠、ホイテ・ヴァン・ホイテマへのラブレターに思えてならない。それはすなわち映画へのラブレターなのだ。

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