フランスW杯のあと、キング・カズを接客した日
接客という仕事は、慣れないうちはその場にいるだけで緊張してしまう。
私が新卒で入社したのは、車のショールームだった。
カウンターという場所は、ゆったりとして見えるかもしれない。
でも、一人でいるときは必死だ。
「誰も来ないで」
「わからないことを聞かれたらどうしよう」
内心はドキドキしているのに、表情には出すことができない。
いつ、どのような来客があっても冷静に対応しなくてはいけないからだ。
そのころの私は、入社して半年が過ぎようとしていた。
わからないことを聞かれて応対に自信がないと、
「お前に聞いているんだ!」と怒られ、涙が出そうになった。
新人のうち何度かは、トイレに駆け込んで涙を流したこともある。

そんなある日。
帽子を目深にかぶった金髪の男性が、外国人と一緒にカウンターに近づいてきた。
オーラが一般人と違う。
「どこかで見たことがある」と思った瞬間、
「あ、カズさんだ」
キング・カズこと、サッカーの三浦知良選手だった。
当時はフランスW杯の年。
代表メンバーを外れて、日本中が騒然とした年だった。
テレビで見た、帰国の時と同じ帽子と髪型。
私は「気まずい雰囲気なのかもしれない」と勝手に思い込んで、余計に緊張してしまった。

ポルトガル語で話しているので、会話の内容はわからない。
しかし「ディーゼル」という言葉は何度も聞こえてきた。
どうやら、ディーゼル車を探しているらしい。
でも、私が勤めていたメーカーではディーゼル車は、ほぼ聞かれることのない1車種のみ。
完全に盲点を突かれた。
頭の中が真っ白になった。
しかも目の前は、キング・カズ。
夏でもないのに、顔から汗が吹き出した。
絶対に怒られると思っていたら、笑顔で「高橋さん(私の苗字)わかってる〜(笑)?」と突っ込んでくれた。
該当する車種のカタログをお渡ししたら、「高橋さんは知っていると思うけど、海外で買った車を日本で乗ろうと思ったら結構お金がかかるんだよね」と雑談までしてくれた。
キング・カズが私の苗字を2回も呼んでくれた嬉しさで、うなずくのがやっとだった。
あとから、後輩の選手たちが次々に現れた。
みんなの兄貴という雰囲気で、慕われている様子が忘れられない。
あの日の私はスターに会えた興奮で、胸がいっぱいだった。

そして今も、国内で最年長プレイヤーとしてピッチに立っている姿を見るたびに、あのときの笑顔を思い出す。
キングは、ピッチの中だけではない。
心もキングだった。
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