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樹洞

【記録◆2023年6月17日】①

 先月24日に紀北へ行ったとき、大和路から海へ繋がる道は、清流に沿って長く長く続いていました。とても美しい川だったから、次はそこへ行こうと決めて、梅雨の晴れ間を待っていたのでした。

 その上流域にも幾つか瀧があると知り、「車から降りなくても、ひとつは滝展望所から見られる。二本杖で少し歩けば、もうひとつの滝の展望所にも行けるかも」と考え、「退く判断を誤らないで進もう」と決めました。

 滑らないよう転ばないよう進むには、「ひと足ごとに命を載せている」という意識が必要です(車椅子&杖ユーザーのわたしは特に)。

 それとは別に、「自分の命が国土に載っている」という意識も必要です。
 雨水を含んだ土がなだれ落ちるときには、遊歩道でも登山道でも避けてはもらえないでしょう。

 瀧まで数百メートルという所で、「警告の立て札」が現れました。
 この先には許可なく立ち入ってはいけない、と。

 自分の目で確かめていませんが、様々な情報から推測すると、崩れた道がそのまま放置されているのかもしれません。

 周囲を見渡すと、向かいの山にも崩れた後が見えたから、「退く判断」をしました。
 帰宅後に調べると、その地点は海抜727メートルで、ひとの集合意識から離れられるという千メートルには及ばないけれど、自分の存在とは対照的な自然に畏怖の念を抱くには充分な高さでした。

(ガードレールのない山道で車やバイクとすれ違ったのですが、その方々も「滝展望所」の外に目的地があるとおもえませんので、立て札は国道からの入り口に置かれるべきでは。)

 道を戻っていくと、来たときには気づかなかった瀧が見えました。

名前のない瀧(上段)

 森の奥から何段か連なっているのですが、周囲に人工物が多かったため、中ほどは飛ばして、足元に流れ落ちていた最下段を載せます。

名前のない瀧(最下段)

 以下は、来た道をかなり戻ってから撮った写真です。

下っていく途中

 国道に戻り、川の名前が変わる方へ進みました。
 国道沿いなのに、行く先々に現れるのは、まるで秘境を流れる川のよう。

「山奥のハイウェイ(信号のない国道)」を進んでも、車を止められそうな場所が見つからないので、川沿いにある『水屋神社』まで行きました。
 ここには巨木がたくさんあります。

 最も惹かれたのは、拝殿の前の「椋(ムク)」の樹。
 通り過ぎて振り返ってから、内部が空洞になっていると気づき、
「これもきっと、神解き(かむとき)の樹」と感じたのでした。

(注:雷に打たれた樹を、神が降りてきたという意味で、『神解きの樹』というそうです。)

がらんどう
異形の樹皮
けれども葉が繁る
背後から内部に光が入る
陽のあるほうに開いた穴

 帰宅後に調べて、木の生きている部分は樹皮のすぐそば、と知りました。
 それより内側は、支えるという働きはしていても、大部分の細胞がすでに死んでいるそうです。

 樹皮に近い部分は、傷を埋めるため再生されていきます。
 しかし、中央部分は再生されません。

 暴風で枝が折れたり、雷で樹皮が裂かれたりすると、雨水や木材腐朽菌が入って内部は土状に変わります。
 そこが空洞になり、「樹洞(じゅどう)」となるのです。

 生きていない部分が空洞化しても、樹は枯れることがありません。
 支える部分がほぼ無くなっていても、この樹の大きな空洞は拝殿を向いているので、強い風にさらされることはないでしょう。
 周囲には多くの巨木があり、椋にだけ風が吹きつけることもありません。

『古木は自ら空洞を作ることで代謝を減らし、それが長寿の秘訣ともなる。洞があることは木々の自然なものであり、病気などではない』とのこと。[フリー百科事典(Wikipedia)より引用]

 傷の周辺では、形成層がさかんに細胞分裂して傷口をふさぐため、空洞の周縁が盛り上がるそうです。

 30年以上も前にわたしは健やかな身体を医療過誤で傷つけられたけれど、いまだに塞がらない傷口がまさしく「洞」のよう。
 そこを「不完全」とは捉えません。「完全」が顕れているのです。