「あきらめないひと」の車椅子の歌
「COGY(足こぎ車いす)の歌を創りたいので、作詞をお願いします」
という依頼をいただいたのは5年前の秋。
音楽については何も解らないし、当然ながら作詞の経験もないので、まず断ろうと考えました。
しかし、「誰でも最初にするときは未経験だ」と考え直したのでした。
唄う方に文字数や行数を指定してもらえるのなら、決まった枠にきちっとおさめていくのは得意です。
それで、以下のような返信を差し上げました。
メール(2020年11月8日 15:52)
散文ばかり書いていて、まったく詩は書かないのですが、いま感じるまま1時間ほどで文字にしてみました。こんな感じでも歌にできるでしょうか?
「できるはずがない」
「してはいけない」と
言われ続けてきた
あきらめないひとと
呼ばれもするけれど
ただ黙って ゆめを
かなえてきただけ
言葉には 言葉を
返さず、行動を
続けてきただけ
どうか、おねがい
あきらめたひとの
こころを変えてと
頼まれたところで
ひとは変えられない
けれども ひとは
変わることができる
だから、外に出て
笑っているわたしを
ひとと出会わせる
舞うようにCOGYで
進んで 走って
くるくると回って
変わっていこう………
変えていこう 未来を
勇気をもらった
元気をもらった
そう言われるたび
勇気も 元気も
元から在ったもの
あなたの内側から
出てきたものだから
これからもいっしょに
響き合っていこうと
いつも伝えている
舞うようにCOGYで
進んで 走って
くるくると回って
変わっていこう………
変えていこう 世界を
上記の「詩」を送ると、翌日には「歌詞」となって送られてきたのです。
「1時間で書いた草稿」が1日で歌詞にされたことには驚きましたが、その「歌詞」について、感じたことを以下のように伝えています。
メール(2020年11月10日 0:23)
わたしが書いた言葉をたくさん入れてくださって、うれしいです。
歌の作り方を存じ上げないので、「詩にするとしたら、こういう想い」をさらさらと書いただけなのに……。
背中を見せることで、わたしは子育ても済ませました(ふと振り向くと、「見とらんやんっっ」ということも多かった気が)。
これまで、「あきらめたひとの心を変えてください」と頼まれるたび、
「しません。ひとの心は変えられないので」と即答してきました。
「踏み出さないひと」が、その場から動こうとしないで怒りや悲しみの中に留まっているのは、理由があるのです。
もし誰かをわたしが変えたとしたら、それは相手の方が「変わりたい」と切に願っていたため。
「COGY(足こぎ車いす)」関連ではなくても、たとえば、全国の酪農家の農婦さんたちがくださるお手紙には、
「きょうから生き方を変えます」という言葉が最も多かったのです。
差し上げた詩で大切に感じるのは、
舞うようにCOGYで
進んで 走って
くるくると回って
変わっていこう………
変えていこう 世界を
という部分です。
わたし自身が、「変わっていこう。自分の世界を変えていこう」と想い、同時に、「いっしょに変わっていこう。そして、この世界を変えていこう」と誘い(いざない)もしています。
日本語はふたとおりに意味を持たせられるので、すばらしい言語ですね。
それで、繰り返しのどちらかを
『変えていこう 未来を』にしていただけるかな、と考えもしたのでした。
「未来」も、ユーザー自身の未来であり、地球に住むひとたちの未来です。
上記の理由から、ご提案いただいた下記の部分だけ、どうしても違和感を覚えます。省いていただくほうが真実に近いように感じます。
どうか、おねがい
あきらめたひと
こころを変えてと
わたしには相棒のCOGYが「とても朗らか」に感じられるので。そして、笑顔でワクワクしながら進んでいくとCOGY(足こぎ車いす)がいっしょにワクワクしながら喜んでくれていると感じるので。
ソロで踊らせていただくとき各地で「勝手に試乗会」をしてきましたが、COGYが何も頼まなくても、ペダルを踏んだ方々は全員、とびきりの笑顔になられます。
だから、COGYと使用者が相棒となって進んでいく「朗らかな背中」を、漕げる可能性のある方たちに見せたいだけ。
あと大切に感じるのは、「ひとは変わることができる」という部分です。
「ひとは変えられない」とわざわざ入れたのは、難病者の「サポーター」が相手の心を変えようと躍起になっているのを、しばしば目撃したため。
「相手のためをおもっている」というのは自己欺瞞で、本心は「人体実験を成功させて手柄を得たい」というかのよう、と感じさせられたためです。
ひとのすることを、わたしはわるく取りませんから、感じたことと事実はかけ離れていないはず。実際、気管切開を決意した10代の方が、別の選択を強要されることに消耗して、わたしにたすけを求めてきたこともあります。
新しい治療法を勧められても、被験者のほうは命がけなのです。リスクを無視して実験につきあうよう迫られると、心の負担にしかなりません。
限られた場所でしか試みられていない治療法なら、障害の重い10代の方が往復何時間もかけて通うのも、家族とともに移住するのも大ごと。
お金も手も出さない者が口を出してはいけません。
難病者にも家族にも、毎日の暮らしがあるのです。
難病者が全ての点で健常者に劣るわけではないのだから、頭脳を駆使してリスクも考慮したうえ、「その治療法は試みない」と断り続けているのに、
「善意のサポーター」は、あらゆる手を使って押してくるのですよ。
わたし自身も、油断していると、手駒として使われそうになるのですが、どんなに言葉が巧みでも、他人を手駒と考えている本心は透けて視えます。
もしかしたら、障害を持つ者は特に敏感なのかもしれませんが。
実は、「あきらめないひと」と言われると、違和感を覚えるのです。
それは、そのようにおっしゃる方の感想に過ぎないから。
わたしはあきらめなかったのではなく、ただ「自分がどうありたいか」を自分で考えて道を択んできただけなので。
ただ、「わたしとして在っただけ」なので、
「あきらめないひと」と名づけられても、絶対に自称はしません。
詩は、歌の中に残らない部分があってもけっこうです。
表現手段を他にたくさん持っていますから、別の所で使います。
長くなりましたが、当事者(COGYユーザー)の「着想」を伝えたほうが歌にしていただきやすいのでは、と考えました。
唄いやすいように言葉は、たとえば「くるくると」を「くるくる」にしていただいてもけっこうです。
作詞をしたことがないため、とんでもないことを申し上げていたら失礼をお許しください。
「繰り返し」の部分だけ昨日に適当なメロディで口ずさんでいたら、自分の詩なのに涙があふれました。
貴女に唄っていただけたら、あふれた涙がこぼれ落ちるでしょう。
ご依頼くださった方とのやりとりは、以上です。
「歌は、唄ってくださる方のもの」と考え、こだわりはすぐ手放しました。(ひらがなで書いて文字数を揃え、1時間で創った詩だから。)
それで、『夢をあきらめない人の車いすCOGY』の歌は、驚くほど早く、配信コンサートで披露されたのでした。配信だったので海外にも。
ソロで踊るため参加していたわたしは、どんな曲になったか知らないまま舞台に出て、唄っていらっしゃる方々の後ろで舞ったのでした。
その映像と『note』に載せた記事から(クラウドファンディングの応援を頼まれて書いた20記事から)、プロモーションビデオも創られています。
以下は、「その翌年のコンサート」の静止画です。
このときは「曲も歌詞も知ったうえ」で、舞台に漕ぎ出たのでした。

タイヤにからまないよう古い衣装を加工したので、『舞うように』という歌詞を、「踊る」だけでなく「翔ける」という意味にもできました。

歌の2番では、車椅子用レインコートを着たり、千円で作った支持具を『COGY(足こぎ車いす)』に入れて「ハムスター」と化したり大忙し。
元日の夜、「日課(就寝前のハムスター化とストレッチ)」を省いたら、痛みに睡眠を妨げられ、起きている間も痛みに生きる力を削がれたけれど、自分なりに手当てをしたら、きょうは身体が軽くなり、この記事を書いたら心も軽くなりました。
想いを文字にすることができて良かった、とおもいます。
今年も、新月が巡ってくるたび、「この世に在る間ずっと元気に動けて、頭もよく動いて生き生きと暮らせる」と、願いをかけるでしょう。
できれば、最期まで想いを言葉にできるよう。
