婚活で「本音を出したら終わる」と思っていた僕が、本音を漏らした瞬間に妻と出会えた話【精神科ナースが解説する"自己一致"】
婚活で「本当の自分を出したら嫌われる」と思っていませんか。
お見合いで演じた自分。デートで作った笑顔。プロフィールに書いた、少しだけ盛った趣味。
その仮面を好きになった相手と結婚して、あなたは一生演じ続けられますか。
僕は精神科ナースとして14年、心が壊れていく人をたくさん見てきました。そして自分自身も婚活で65連敗しました。その両方の経験から、はっきり言えることがあります。
演じ続ける関係は、必ず壊れます。
精神医学の「自己一致」という考え方
心理学者カール・ロジャースが提唱した「自己一致(self-congruence)」という概念があります。
ざっくり言うと、「内面で感じていること」と「外に出している言動」が一致している状態のことです。
自己一致が崩れた状態を続けると、人間の心はじわじわ削られていきます。
精神科の現場で見てきた、自己不一致の末路
精神科の現場で、僕は何人もこの状態の患者さんを見てきました。「いい妻」を演じ続けて鬱になった人。「期待される自分」を演じ続けてパニック障害になった人。
演技にはコストがあります。それも、想像以上に大きなコストです。
そしてこのコストは、婚活中もずっと払い続けることになります。
妻と出会った日、僕は演じる体力が残っていなかった
64人目までの僕は、初対面で必ず「明るくて聞き上手な男」を演じていました。
本当は家でゴロゴロするのが好きなのに「アクティブな人」を演じ、本当は仕事の愚痴を言いたいのに「前向きな人」を演じていました。
その演技のせいで、デートの帰り道は毎回ぐったりしていました。
夜勤明けで挑んだ、65人目のデート
65人目とのデートの日、僕は夜勤明けでした。患者さんの対応が続いた日で、待ち合わせの駅に向かう電車の中、「今日は演じる体力ないな」と思っていたのを覚えています。
カフェで席についた瞬間、僕はこう謝りました。
「すみません、今日仕事がしんどくて。疲れた顔してたらすみません」
64人目までの僕なら、絶対に言わない言葉でした。
会話の途中で、彼女が好きだという映画の話になりました。観たことのない映画で、いつもの僕なら「気になってたんですよ」と話を合わせるところです。
でもその日は、口から本音が漏れました。
「すみません、それあんまり興味なくて」
口から漏れた「すみません、それあんまり興味なくて」
言った瞬間、「終わったな」と思いました。
ところが彼女は、笑ってこう返してくれたんです。
「正直に言ってくれる人、初めてです」
そこから2時間、僕は人生で初めて、演じずに婚活デートをしました。
なぜその日だけ、楽だったのか
帰りの電車の中で、ずっと考えていました。
なぜ今日のデートは、こんなに楽だったんだろう。
答えはひとつでした。「演じていなかったから」です。
脳のエネルギー消費という観点
精神医学的に言うと、自己一致した状態は、脳のエネルギー消費が圧倒的に少ないんです。
逆に、本音と建前のギャップが大きい状態は、脳の前頭前野がフル稼働します。「今の発言は適切か」「相手の期待からズレていないか」と監視し続けるからです。
僕は64人目まで、毎回デートで脳をフル稼働させていました。だから楽しさより、疲労のほうが大きかった。
「婚活が消耗するのは出会いがないから」だと、ずっと思っていました。
違いました。演じていたから消耗していたんです。
演技で得た関係には、出口がない
婚活で消耗している人に、ひとつだけ問いかけたいことがあります。
仮に演技で結婚できたとして、あなたはそのあと何十年、その仮面をかぶり続けられますか。
朝起きた瞬間から、夜眠るまで。
平日も、休日も、体調が悪い日も。
それは、結婚という名前のついた長期出演契約です。出口がない演技です。
精神科の現場で見てきた患者さんの多くが、まさにこの「出口のない演技」で限界を迎えていました。結婚してから10年、15年経って、ようやく自分が消耗していたことに気づくケースが本当に多いんです。
本音で断られるほうが、長期的には圧倒的に楽
本音を出して断られるのは、たしかに痛いです。
でも、断られて終わるのは「その場の関係」だけです。
一方、演じて結婚した先に待っているのは、何十年単位で本音を抑え続ける生活です。
どちらが消耗するか、冷静に比べてみてください。
僕が65連敗の中で得た、いちばん大事な気づきは、これです。
守るべきは「結婚」ではなく「自分への信頼」です。
自分に嘘をついて手に入れた関係は、自分への信頼を削ります。本音で関わった関係は、たとえ断られても自分への信頼を残します。
最後に
本音が出た瞬間が、始まりの瞬間でした。
これは僕個人の物語ですが、精神医学的にも裏付けのある現象です。
あなたの婚活が、演技の場ではなく、自己一致の場になりますように。
