1番目アタール、アタール・プリジオス(20)予兆
*
あ… “神様” が、倒れた…。
ずん、という地響きと共に、肉付きのいい身体は一度だけ弾んだように見えたが、その肉の振動はすぐに収まり、鼻を潰された丸顔の大男は力なく地に沈み、動かなくなった。
アリエルは見開いた目を閉じることなく、パルムを殴ってしまった少年に向けた。
もちろん、事故である。
本当なら殴られるのは、アリエルの予定だった。
受け流して技を掛けてやるつもりだったのに、予定外にパルムが割り込んできて、起きた事故だった。
それは、分かっているが…。
眼球が乾くのも構わず、彼はずっと睨みつけていた。
「お前……! 許さない…! 許さない…!」
大柄な少年は、いつも父や母に叱られても何も感じないのに、見ず知らずのこの年長の少年の低く怒りのこもった声を聞き、身体がブルッと震えるのを感じた。
「わ、わざとじゃねえ! そのどもりが急に間に入ってきたからよぉ…」
「…わざとかどうかなんて、どうでもいいんだよ…」
自分が、やっと見つけた、安らぎ。
自分にとっての、“愛”そのもの…の人。
それを守れなかった、自分。
それを傷つけてしまった、自分。
許せないのは、この少年ではない。
自分だ。
これは、自分への怒りだ。
「……わ、わ、あぁ、ご、めんなさい! ごめんなさい!」
ぐっと拳を握り締めたアリエルの様子に、少年はすっかり縮み上がり、泣きながら後ずさっていく。
「アリエルさん」
ロエーヌが彼の肩に手を置いた。
「あ…あぁ、ごめん」
「とりあえず、パルムの治療を…中に運びましょう」
「…そ、そう…だね、ははは」
2人は大男を仰向けに転がし、何とか上体を起こすと、両側から肩を組んで持ち上げ、少し引き摺るような感じで教会の方へと運んだ。
傍にいた少年のうち、兄弟らしい2人がそれに手を貸してくれた。
「ルイマス、バーレク。ありがとう」
準司祭が微笑んで、兄弟を出迎える。
兄弟は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
この2人は孤児だという。
教会の裏にある小さな平屋にほかの孤児たち数人と暮らしているらしい。
…親がいない、でも兄弟がいる。ほかにも血は繋がらないが、血の通った家族のような子どもたちと一緒に住んでいる…。
パルムを2階まで運ぶのは無理なので、礼拝堂のすぐ横にある信者たちの休憩室の固い木の寝台に載せて、毛布を一枚かけた。
鼻血は止まっていたが、鼻のすぐ脇の右頬が赤く腫れて盛り上がっている。アリエルは井戸水を張った桶に手拭いを何度も漬けて絞り、パルムの右頬に当てて冷やした。冬の井戸水はよく冷えていた。アリエルの手もすぐ赤くかじかむ。
「…代わりましょうか?」
ロエーヌの申し出にも首を横に振り、ひたすらに手拭いを絞った。
目を覚ますと、傍らに彼の大好きな少年がいて、頭だけ寝台の横に預け、床に座り込んで疲れ果てた顔で眠っていた。手には水を絞った手拭いを握りしめている。
雲間から月光が差し込んで、照らし出されたその白い顔を、パルムはしばらくうっとりと見つめていたが、その目尻には涙が溜まって潤む。
「…アーリェ?」
なぜ、彼は泣いているのだろう?
そう思ったとき、アリエルは目を開けた。
勢いで涙が頬を伝い、流れ星のように煌めいた。
「…やあ、目覚めた? 大丈夫?」
「アーリェ…」
「ごめんね、俺のせいで…怪我させちゃって。はは、俺さ、調子乗ってたよね…目立っちゃいけない旅なのに」
「…ア、アーリェ。アーリェは、い、いい子、だよ」
頬の腫れでいつもよりも滑舌が悪いながら、パルムは首を横に振る。
「どうかな、なら、いいけど…」
アリエルは溜息を吐き、目を擦った。
そのとき、異変を感じた。
次に、息が止まった。
目の奥につーんとした、強烈な痛覚が走った。
「う、うっ、うぁ、い…た、い!」
あまりに突然の激痛に、アリエルは頭を抱えるようにして床の上でごろごろと激しく悶えた。
「アーリェ!」
「い、痛い。痛い! 目、目が痛い!」
その物音に異変を感じた大人3人が、ぞろぞろと休憩室に何事かと走ってきた。ロエーヌは彼女らしくない荒々しい開け方で、扉をどーんと押し開けると、隙なく剣を構えた。
「アリエルさん! どうしましたか!」
「目が痛いんだ、急に、痛くなって…ああ!」
「侵入者ではないのですね?」
「ち、ちがう…痛みが! うわぁァ、助けて、助けて、助けて、たすけて! うわぁァ!!」
両目を押さえて、転げ回る。
「……もしや」
ふと、思い当たることがあって、ロエーヌは師匠アタールの『幽体』に耳打ちする。
その様は、アタールを目視できないパルムや準司祭にとっては謎の動きだったが、今はそれどころではない。
パルムは痛がるアリエルをどうしていいか分からず、ただ必死に「アーリェ、アーリェ!」と声をかけて励ます。
準司祭は、ただただ呆然と、立ち尽くす。
「…イオク様」
不意に、蒼い瞳の美しい剣士の女性に呼ばれ、ハッと振り返る。
「あなた様を、清廉潔白な高徳の聖職者とお見込みしてのお願いなのですが…」
「なにか…?」
「実は、我が弟アリエルは特殊眼の持ち主なのです。しかし、その性能はまだ発現しておらず、恐らく…これはその発現の予兆かと」
「左様で…。ロエーヌ様も『祝福の蒼』の特殊眼でいらっしゃいますからな。弟様も…」
「…はい。弟の特殊眼は…『旭光の蒼星眼』です」
準司祭は、一瞬息を止めた。
「……なんと。それは……なんと、稀な! いや、それもそうですが…」
「何卒ご内密に願います」
少しの沈黙があり、イオク準司祭は一つ大きく息を吐き出した。
「…畏まり、ました」
アリエルの絶叫が夜を脅やかす。
その長い苦悶の時間は、日が昇るまで続いた。
